さいかち亭雑記

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佐々木幹郎『音みな光り』を読む

2023年12月31日 | 現代詩 戦後の詩
  手元に佐々木幹郎の『音みな光り』という本がある。まずタイトルにひかれる。ウクライナでの戦争のニュースに加えて、連日ガザの死者の数が報道されるような状況のもとで、「音みな光り」というのは、どんな事が書かれた本なのだろうかと、興味が動いた。
 全体は四つの章に分かれていて、最初の章は「舌を打ち鳴らすための音楽」である。その最初の詩は「舌を打ち鳴らすための五つの音楽」と題されていて、Ⅰからⅴまでのローマ数字をふられた五つの詩をもって構成されている。そのⅠをここでは読んでみたい。

    ※ 以下、便宜的に行頭に番号を付し、行空けがなくても、何行かの詩行をまとめて「一連」のようなグルーブとして扱う。

Ⅰ (全30行。行空けなし。)

わたしたちは天を喰う
地を舐める
ひくひくと動くもののひとつであり
わたしたちは暗闇のあたたかい洞窟で
死の意味を問い
丸められて
息をすることのないものであり
わたしたちはひらかれたとき
その存在を一瞬にして忘れ去られ
空気に向かってかん高く揺れる
そして再び平たくなって
湯気を出すものであり

 ここでいったん引用の手をとめる。読み始めて、「わたしたち」が何なのか、すぐにはわからないのだけれども、12行目の「湯気を出すものであり」まで来て、「ん?もしかしてこれは間欠泉のことか」と思うわけである。ただし、この「間欠泉的なもの」は、「天を喰う/地を舐める/ひくひくと動くもののひとつであり」とあるから、「うごくもの」の一つなのだ。だから、これ以後の「間欠泉的なもの」についての描写は、すべてこのほかの「うごくもの」の生態、在り様でもある、ということになる。つまり、地上に存在する人間を含む生きもののすべてが、「天を喰」い、「地を舐め」て存在しているということを指し示した詩行ということになる。

わたしたちはときおり
わたしたちの仲間に出逢うとき
もうこれ以上抱きしめることができないほど
互いにからみつき
讃えあい ののしりあい
けれど 五月の青空が映るスプーンの上に
冷ややかに横たわることもできる
やわらかな獣であり
わたしだけは
どこにでももぐりこめることのできる
許しのなかで 小さく

 ここでまた立ち止まる。「互いにからみつき/讃えあい ののしりあい」というのは、これは明らかに友愛を交わしたり、闘争したりする人間のイメージである。しかし、18行目の「けれど」以下で、「五月の青空が映るスプーンの上に/冷ややかに横たわることもできる/やわらかな獣であり」となって、青空の精のような、この「やわらかな獣」の正体が何なのか、再び曖昧にわからなくなっていく。21行目の「わたしだけは」以下を重ねて引く。

わたしだけは
どこにでももぐりこめることのできる
許しのなかで 小さく
あ と言い
お と言うことができる
わたしたちは とくに
透明なあけぼの
ゆっくりと時間をかけて
発酵することができる
美しい生きものの形

 これが三十行の全部である。この「どこにでももぐりこめることのできる」ものは、何となく、地上に遍満する水のような、また空気のような変幻自在に遍満するもののイメージであるが、「あ と言い/お と言うことができる/わたしたちは とくに/透明なあけぼの」の「あ、お」は、曙光の射しこむ天空の「青」色のようでもあり、「五月の青空が映るスプーンの上に/冷ややかに横たわることもできる」というのは、そのような青い色それ自体が〈光〉の現実的な姿としてここにあらわれていると解釈することもできる。それは詩集全体の題とも響き合っている。末尾の五行をもう一度みてみる。

わたしたちは とくに
透明なあけぼの
ゆっくりと時間をかけて
発酵することができる
美しい生きものの形

 ここまで読んで来て「わたしたち」が、当初は「‥ひらかれたとき/その存在を一瞬にして忘れ去られ」るようなものだったのに、いまや「ゆっくりと時間をかけて/発酵することができる」ものとして讃えられるものになっている。いつの間にか、「わたしたち」は、〈光〉を持つ〈言語〉そのものの喩ともなっているだろう。「あ と言い/お と言うことができる」とは、そういうことだ。
 何度も読んでみて案外と気になるのは、26行目の「わたしたちは とくに」の「とくに」という副詞である。直接には次行の「透明なあけぼの」にかかっているのだが、この行を挿入句的に宙づりにしたまま、それ以後の行にもかかっているようにも読める。とく(・・)に(・)、「ゆっくりと時間をかけて/発酵することができる」、そのような「美しい生きものの形」なのだ、と言っているとも考えられるのである。  ※ 「とくに」に傍点。元がワードのファィルなので。

 ここまで書いて、翌日になってこの章の扉に小さな活字で組まれた詩集全体の緒言とも言うべき文章が置かれているものに、改めて目を通してみる気になった。豊多摩刑務所正門扉のモノクロ写真が見開きで印刷されている右ページの奥に、8ポイントぐらいの小さな活字で次のように書かれている。

 「舌は言葉を話すときに使われ、ものを味わうときに使われ、楽器を吹き鳴らすときに使われる。お互いに触れあって愛情を伝える場合にも、だが日本語の舌はつねにさげすまれている。
「舌を出す」(相手を馬鹿にする)、「舌を巻く」(驚く、感心する)、「舌が肥えている」(鋭い味覚)、「舌をふるう」(雄弁)、「舌がまわる」(よどみなくしゃべる)、「舌先でまるめこむ」(うまく言いくるめてだます)。――(岩波「国語辞典」)
 舌はそれ自体として、見つめられることも、音を出すこともない。しかし、「母語」(mother tongue)はもともと、母なる舌なしには語ることができないものであり、わたしたちが最初に日本語を覚えたのは母の舌からであった。それは見つめられることもあれば(find one’s tongue=口がきけるようになる)、言葉そのもの(the gift of tongue=言葉の賜物)でもあったはずだ。そのようにして舌があがめられることがあるだろうか。
 舌を打ち鳴らしてみる。」

 端的に言うなら、「舌を打ち鳴らす」とは、詩を書くことそのものの喩でもある。この緒言は、先に注記を書いた詩行に直接影響を及ぼしているのだが、この文言に引きつけられすぎて読むことから自由に読んでみたかった。ここで〈母語〉を語るなかで「母体」と「母」を介した言語の習得について語られていることが印象的だ。「わたしたちは暗闇のあたたかい洞窟で/死の意味を問い/丸められて/息をすることのないものであり」という詩行の「暗闇のあたたかい洞窟」は、子宮のイメージでもあるだろう。

 この文章を書き写しているうちに、最初から12行目までの試読のなかで私が「間欠泉的なもの」と呼んだ〈比喩の相手〉(※私が案出した用語)として、とくに音楽も考えられるのではないかということ、特に金管楽器の吹奏のイメージを持ってきたら楽しいのではないかと思いついた。すると、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラツストラかく語りき」の冒頭のファンファーレがたちどころに連想されたのだけれども、この詩の場合は、そんなに鮮烈な語り出しではなくて、「ひくひくと動くもののひとつであり」、「息をすることのないものであり」、「湯気を出すものであり」という、「~であり」の繰り返しによってこの詩固有の定型的なリズムを生み出している叙述の一部であって、この詩の「わたしたち」はそんなに派手やかなものではない。

 でも人間が発声や、音楽としての音を生む前の、混沌とした待機状態というものは、ここに言われているような「暗闇のあたたかい洞窟で/死の意味を問い/丸められて/息をすることのない」ものなのであろうし、さらに「…ひらかれたとき/その存在を一瞬にして忘れ去られ/空気に向かってかん高く揺れる」ような、瞬時に消えてゆく生のほとばしりでもあるものが、われわれの発語や音楽だということだろう。そうしてこの詩全体の音楽的なイメージが、視覚としてまとまりを持って焦点化されている語句は、「透明なあけぼの」以外にはない。この詩の「わたしたち」は、「舌」または「舌の生み出すもの」のことであるのにちがいない。この「美しい生きものの形」をした「透明なあけぼのの色」を思い描くことは、生きることのなかでの理念的なものの抱懐にかかわっている。

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