さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

古書まつり フジサワ湘南 有隣堂の上階にて

2022年06月25日 | 本 古書
 今月の26日まで、藤沢有隣堂の入っている藤沢名店ビルの六階イベントホールで古書展がひらかれている。知人に話をうかがったところ、採算の関係で、こういう展示会は、これが最後となるかもしれないということで、古書の好きな方は、この展示会の存続のためにも、ぜひ訪れていただきたい。

ちなみに、当方が購入した書籍は以下の通り。

・友部正人詩集『名前のない商店街』一九八六年思潮社刊
・同『空から神話の降る夜は』同
・春岳文章、静子著『紙漉村旅日記』昭和十九年七月明治書房刊
・奥村伊九良『古拙愁眉』1982年みすず書房刊
・佐藤多持『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』1985年けやき出版刊
・佐野美術館発行『伊東深水』1994年刊
・『主婦の友創刊六十周年記念〇復刻で綴る 大正昭和女性の風俗六十年』昭和52年主婦の友社刊
・粟津則雄著『西欧への問い』一九七八年朝日新聞社刊
・『黒いユーモア選集下巻』1988年四版国文社刊
・関千枝子著『広島第二県女二年四組』1985年筑摩書房刊
・『小島信夫文学論集』1966年晶文社刊
・久保田万太郎著『戯曲集 かどで』昭和九年二月文体社刊
・三岸節子『美神の翼』平成三年求龍堂刊
 あと二冊あった。追加。
・保坂和志『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』2007年草思社刊
・林洋子『藤田嗣治 手紙の森へ』2018年集英社新書

 これでだいたい一万六千円。いたんでいて二、三百円の本もあるから値段の多寡は言えないが、まあ、お買い得です。大口鯛二の掛軸があったなあ。ううむ。

ついでに北口に下りて横浜銀行のすぐとなりの太虚堂書店と、さらにそこから左に歩いて信号を反対側に渡り、その道路をずっと行ってブックオフ前をがまんして通過し、二百メートルほど先にある古書店の光書房まで行くなら一日の古本探索行脚としては、わるくないはずです。

諸書雑記

2022年06月06日 | 
 昨日は午前中に都内に出かけて戻ったあとは疲れてそのまま眠ってしまった。夕方に起き上がって武藤剛史著『サン=テクジュペリの世界』(講談社)を読了した。この一週間電車のなかで読んでいたものである。的確な手紙の引用によって複雑な女性関係が理解できたし、たくさんの引用により未読の作品のあらましが理解できた。ドゴール派とヴィシー政府支持の二つに割れたフランスのどちらの勢力にも属さなかった結果、両陣営から攻撃されることになってしまった経緯もよくわかった。

私なりの捉え方では、彼の最後は、ほとんど自殺に近いような覚悟のうえの戦死だったのだ。もし生き延びていたとしても、ヴィシー派の大量処刑という現実や、ナチスによるユダヤ人虐殺の真相を前にして、彼の魂はもたなかったのではないかと思われる。そういえば、この本に「魂」という言葉はでてこない。かわりに「愛」という言葉、「人間は関係性の結び目である」という彼の中心思想だけは、繰り返しあらわれて本書のライト・モチーフをなしている。

これも私なりの理解でつづめて言うと、彼の中心思想は、母親の愛を同心円的に拡大して形作られた「拡がり」の思想、ということになるのだろう。森進一の「おふくろさん」から得たものを、息子の立場で世界全体にまで拡がる愛の思想にまで高めるというのは、キリスト教の基盤がない日本人には無理だ。しかし、この愚にもつかない戦争が続いている時代に、『星の王子様』の「微笑み」の思想を振り返ることには意味があるだろう。作者は、各人がそれぞれのかけがえのない「平凡な花」に水をやることの大切さを思うように促しているのだから。

サン=テクジュペリは、日本だと吉田松陰の「留魂録」のような境地に達していたということだ。私などは、サン=テクジュペリを読みながら死を受け入れることは正直に言ってできないが、「留魂録」を読みながらならできそうな気がする。四季のうつろいと人生の在り様は等しいものだとする思想のやさしさは、春夏秋冬が四季の美的なざわめきと、豊穣をもたらす農民たちの営みの永続性を信じられるこの国の風土から発したものだ。単に義のためだけに人が死ねるなどと考えたら大きなまちがいだ。自分を納得させる言葉がなければ、人は自分の死を受け入れられないのだ。だから、ロシアの兵士たちが士気が上がらないというのは、もっともな話で、独裁者の実績確保のために死地に追いやられる若者にしてみれば降ってわいたような災難である。

 今日はたまたま、古山高麗雄が「新潮」三島由紀夫読本 昭和四十六年二月号に寄せた文章の一節を再読した。引いてみる。
「(略)おとなしく、理屈だとか、考え方だとか言えばわかりやすいのに、わざわざ美学だなどという表現を用いる。(略)いったい個人の美学などというものはない。(略)

 しかし、私の戦争の経験では、ためらうことなく戦場に行っても、美や国のために、心から生より死を望んだという人は、めったにいなかったのである。(略)死に突進したのは、上官の命にさからえないとき、敵軍に追いつめられたとき、つまり、最も絶望的な状態になっていたときで、狂乱したからだ。決してヴァンダー=ポストが言うようなサムライ精神からではなかった。恰好の悪い、哀れなものだった。
 私が最も多く人の死を見たのは、中国雲南省での戦闘だった。私たちはそこが死角だと思われる山陰に身を潜めるように努めるのだが、そこが実際には死角でないこともあり、また死角から出なければならないこともあった。迫撃砲弾が飛んで来て、いく人かの仲間が死んだ。その死は名誉の戦死などといわれたかもしれないが、本人にしてみれば、死にたくないのに、運が悪くて死んだのだ。 
 私はマラリヤにかかって野戦病院に送られ、さらにそこからやや後方の兵站病院に送られたが、そこでの病死者は、前線での戦死者よりはるかに多かった。昨日まではなんとか呼吸していた人が、翌朝は冷たくなっていた。飯盒は落したのか、盗まれたのか、ボール紙の箱などにわずかばかりの砂混じりの飯を盛ってもらって、しかし口に入れることもできず、糞尿を垂れ流しながら死んで行った。そういう人たちには、名誉の戦病死という称が与えられるのだけれども、みじめなことだ。
 軍隊では、軍人精神ということが強調されたが、これは組織維持のためのものであり、軍事精神に美的価値があったからではない。二十世紀の軍隊には、ハラキリの習慣はなかったが、昔のハラキリにしても、元来が難題解決の方策であり、もしそこに美を描く人がいたとしたら、それは贋の美に惑わされたのである。死にやすいように、そこに美があるように人々は教え込まれ、また自己教育もしただろうけれども、もともと封建社会のハラキリは死刑であり、死刑に自殺の見せかけを混入したものだ。それは日本美ではなく、日本的欺瞞である。」   
『私がヒッピーだったころ』(角川文庫 昭和五十一年五月刊)所収

 絶望して「狂乱」しなければ、人は自ら死んだりはしないものだ、ということを古山高麗雄は自分の体験に基づいて言っている。庶民にとってハラキリが「美学」であるなどということはない。観念に憑かれた者たちによって、空中楼閣のような作戦が立案され、それが支持されて現場に下ろされた結果がインパール作戦である。

 しかし、その絶望の戦場でもミイトキーナで玉砕命令を破棄して部下を撤退させ、自らは自害した水上源蔵少将のような人がいたのである。これは『抗命』で知られる佐藤幸徳中将のことではない。(丸山豊『月白の道』参照。)

 丸山豊の『月白の道』と、古山高麗雄の雲南三部作は、インパール作戦の記憶を忘れないためにも読み継がれるに値する。古山の文春文庫所収作品は定期的に復刊してもらいたいものである。角川文庫の『私がヒッピーだったころ』は、活字を大きくした上に注をたくさんつけないと復刊するだけでは無理かもしれない。同じく角川文庫の黒岩重吾の作品なども、もはや注がないとわからない時代になってしまっている。

 話はかわって、備忘のために書いておくのだが、平成二十九年6月5日発行の「現代短歌新聞」がたまたま出て来て、そこに橋本喜典の「斎藤茂吉への感謝」という講演記録が載せられているのを今日引っ張り出して読んだ。

霧島は馬の蹄にたててゆく埃のなかに遠ぞきにけり  長塚節

 という歌について、茂吉が『長塚節研究』の序文のなかで、「結びの「けり」で悠久感をあらはし得たやうに思ふ」と述べていたことに、歌を作りはじめた頃の橋本喜典は感銘を受けた、というのだ。

 橋本喜典の晩年の歌は、調べがやさしく澄明な抒情のあふれる高雅なもので、私は遠くからそれを敬慕していたのだが、二〇一九年に亡くなられた。当時は雑誌初出のものは気をつけて見ていたが、歌集は高価だったから買おうと思いながらまだ買っていない。詩歌関係では、そんなことがざらにある。

 この数ヶ月、短歌について書かなかった。この程度の文章でも書いた方がいいのかもれしないとは思いつつ、毎日戦争のことが頭にあって、短歌でもないだろう、という気分だった。いいかげんなツイッターのコメントみたいなものは書きたくないので仕方がない。

加藤史郎版画展

2022年06月04日 | 美術 展覧会 日本洋画 版画 
 現代日本の著名な版画家ならきっと名前を聞いたことがあるにちがいない、名うての銅版画の刷師である加藤史郎さんが、御茶ノ水の東京医科歯科大学の斜向かいにある画廊、アートギャラリー884で今日から個展を開いている。インクから自作したという、加藤の「黒」と言って定評がある深みのある黒インクを惜しげもなく盛り上げたドットの刷り部分は、乾くまでに何と半年もかかったのだという。その作品のうちの一点は、まだ三点しか出来上がっていないから、あまりたくさん注文されたら困る、と苦笑いしておられた。

案内状に文章を寄せている北川健次氏は、「先日工房で刷りの前の版画の原版を見せてもらったが、昨今の版画の傾向が浅く薄くなっている中で、流れに抗するかのように版の腐食は実に深く、マチエールへの挑むような意欲は極めて斬新に私には映った。」と書いておられる。

アメリカの大学に教えに行ったこともあるという加藤さんが自分で開発した技法による腐食の原版も今回は展示されている。あれは銅版画を志す人たちには必見のものではないだろうか。この展覧会は、必ずやその道をこころざす人たちの交歓の場になるにちがいない。作家が画廊に滞在している日は、今日はのぞいて5、7、9、11日、8日14時から、12日15時まで、とのことである。教えを乞うてみたい若者は行くべきだ。

加藤さんは、版画の刷りを本業とする一方で、長く高校の美術の先生を勤めて来られた。しかし、案内状を職場に掲示したところ、あまり反応がなかったという。加藤さんを取り囲む日常の職場環境は、芸術とは無縁の世界なのかもしれない。さびしいことである。加藤さんは自分を宣伝しない。幾多の著名なプロの作家の作品を手掛けながらそれを自慢したことは一度もない。

確かな技術とそれに裏打ちされたインクの色、その発揮する表現効果、そこにしか版画芸術の立脚する基盤はないはずであり、加藤さんはそこに自分なりの作家としての自負をこめて今回の作品を展示している。その作品の風合いは、意外に明るく、清明で、晴れやかである。建物と自然とが四季の時間の中で響き合うような一作が、今日の私には目にとまった。

ある作品についての「このドットは時間なのです。時間をあらわしている。」という作者の解説が、私にはよくわかった。この展覧会の会場に流れている明るい時間を、私の知人には共有してもらいたいと思って、この文章を書いている。

この戦争の時代にも、永遠に通ずる時間は流れ続けているのであり、会場に二点だけ展示されている石に貼り付けられた版画を包むクリア・ケースの箱は、滅びのなかに置かれた人間の生の意味を語っているように思われた。

版を腐食させ、その腐食を中止させることによって成立する版画というものの持つ意味を加藤さんぐらい実感して生きてきた人はそんなに多くはいないだろう。だから、加藤さんにとって版画とは、つつましい時間の化石としての存在物でもあるのかもしれない。