さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

岡井隆の『天河庭園集』

2016年11月30日 | 現代短歌
一太郎ファイルの復刻。以前「レヴューの会」のレジュメとして書いたものである。このブログのアクセス数もトータルで1万IPに近づいた。歌人以外に文学好きの方が見ておられる可能性は高く、わが師岡井隆の歌の紹介などもした方がいいのではないかと考えて、古いレジュメを引っ張り出してみた。

 『天河庭園集』が感動的なのは、内科医としての職業・研究生活と、苦しい愛恋に彩られた私生活と、しばしば時代状況と重ね合わせて読まれる詩業のうえでの刻苦とが、苦しむ個人の生々しい声として伝わって来る点にある。懊悩を比喩に変換することを通じて、かろうじて生きしのいでいるというような在り方。一冊は、通常の歌集の倍以上の濃度を持っていると言えるだろう。少なくともここには、一冊の短歌による歌集の中に、優に一冊分の現代詩集が溶け込んでいる。中でも「ノオトⅠ」の17の牛の解体の散文詩は圧巻だ。 (13は、「木曜便り」の今回私が近刊『生まれては死んでゆけ』で注をつけたものの作り直しだということは、わかる。) 

○「肖像のためのスケッチ」。
 その人は耳のうしろに音を連れすすきの中を輝いて来る その1の歌。
 否を否その人は今ここに居る終りなきわが闘い見むと 5の歌。

「その人」が気になった。その人とは、誰だろうか。神のようにも見えるが、ニーチェには、邦題『その人を見よ』という著書がある。その人は、南中の真昼の生の充実を生きるツァラツストラのイメージで、私の闘いに理念の方からの光を投げて来る存在なのだ。

 ブルデルの弩引く男見つめたる次第に暗く怒るともなく
われわれはわれわれの声を持つであろうそしてその声は雪であろう

 著しく十首抄出は困難である。多くの場合に、一連として読むことを作品が求めているからだ。今回は、有名な歌をなるたけ外して選んでみる。

○ 「〈時〉の狭間にて」は岡井の評論集の題にもなっているが。「アイザック・K」は岸上大作のことである。1K「女かや」は岸上の自殺の原因のことを揶揄するように取り上げた作品。この一連の一首めと、「男」に「おみな」とルビをふる4「反歌風に」の一首とは、つながっている。「踏み込まむ」の歌の「かの体験」は、六十年安保の体験のこと。男が男でなくなった、ということは、日本のナショナリティ(国家の自主性、としてもいい)の比喩としてわかりやすい。

 子宮なき肉へ陰茎なき精神を接ぎ 夜には九夜いずくに到る

旋頭歌の変形のような作品だ。

○ 「歌かとも見ゆるメモランダムⅠ」。この歌集には実に職場詠が多い。

 寂かなる高きより来てわれを射る労働の弓 ラム、ラム、ララム

○ 「歌かとも見ゆるメモランダムⅡ」。初句重畳の詩法による。どの歌も既成の歌語に寄って行く面がある。中世歌謡への関心などもあろう。「一週間」の激しい職場詠。今の私には、「ノオトⅡ」が案外にわからない。課題としておきたい。

○「昼の人」 四月十六日
おびただしき鉄器加えて肺を裁る外科医羨しく立ちまじりたる

○「レイ・チャールズを聴きながら作った歌」
 髪切虫濡れて東へ向うころ底ごもりゆく係恋のある

「駅についての十五の断想」から。
 髪はながきこころは苦き青年と約束をしてあらそわむかな

○「倫理的小品集」。
 劇中へひき込まれるな巌立ちせよされば愛しけやし学生は
 別るるはまことふたたび逢わむため碾くごとくまた轢かれるごとく



最新の画像もっと見る

コメントを投稿