ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




静岡銀行浜松営業部本館。静岡県浜松市中区田町322。2019(令和元)10月8日

写真手前の大通りが南北に通っている「田町中央通り」、右奥への通りは東西の「しにせ通り大安路」。1995(平成7)年にきれいに整備されて付いた名前だろうか。「大安寺(だいあんじ)通り」と言っていたかもしれない。
静岡銀行浜松営業部は「遠州銀行本店」として1928(昭和3)年に竣工した。SRC3階地下1階建。設計は中村與資平、施行は清水組。遠州銀行は1943(昭和8)年、静岡銀行に合併され、建物は静岡銀行浜松支店として使われてきた。
中村與資平(1880-1963)は浜松の生まれ育ちで、東京帝国大学建築学科卒業後は朝鮮・中国東北地方(ソウル、大連)で活動した。1922(大正11)年に東京に「中村工務所」を開設した。作品は東京と静岡県に多い。戦時中に中村工務所をたたんで郷里の浜松に引っ込んでしまう。戦後は静岡県教育委員会で活動したらしい。

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浅香質店。荒川区南千住1-56
2007(平成19)年8月3日

日光街道(国道4号)の常磐線のガードから北へ240mのところ。左に真正寺の参道が開いている。
『東京都の近代和風建築』(2009年、東京都教育庁地域教育支援部管理課編集)によると、「浅香家は明治30年(1897)頃に当地に借地し足袋屋(地下足袋)を開業した(暖簾に「和多屋」と屋号が入っているが、創業時のものだろうか)。その後洋品屋を経て、現在の当主の父の代より質屋を営む。店棟(正面左の2階建出桁造り)および質蔵(RC3階建)と主屋(質蔵の裏)は、昭和11~12年(1936~37)の建築で、祖父の代に北千住の大工棟梁が建築したと伝えられている」。主屋の後に2階建土蔵がある。大正期震災前の建物。三階蔵の前の店舗は煙草店にするため設けたが、貸店舗にしている。スクラッチタイル貼りにしているので戦前の増築かもしれない。写真では「さくら井土地住宅社」という不動産屋。2017年頃までは営業していたようだ。
北側のマンションは、元は浅香質店の敷地だったらしい。
今では日光街道沿いには、戦前築の商店建築はほぼ消滅した。『東京都の近代和風建築』では「日光街道に面する近代の商家として、出し桁造の伝統的な町家の意匠を継承する一方で、質蔵を鉄筋コンクリート造とし、スクラッチタイルの店舗を設けるなど、近代的な技術や意匠を導入した近代和風建築の事例として貴重」としている。

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大手町ビル。千代田区大手町1-6。2012(平成24)年6月14日

1958年(昭和33年)4月10日に竣工した三菱地所保有のオフィスビル。大成建設の施工。エレベーターや階段、通路、洗面所等の設備を建物中央部に集中させる、コアシステムを初めて採用した。また全館冷房設備にした初めてのビルでもある。当時の31mの高さ制限では8階建が普通の中で9階建(地下3階、塔屋3階)にしている。東西の長さが205mもあり、「東洋一」のマンモスビルと言われた(ウィキペディア>大手町ビル)。
1956(昭和31)年5月の着工から1958年の竣工までどういう時代だったかというと、ぼくの記憶では、1956年:プレスリー、週刊新潮、太陽の季節(映画)、1957年:南極越冬隊、石橋湛山から岸信介へ、丸の内の都庁舎落成、スプートニク1号、1958年:日劇ウエスタンカーニバル、東京タワー、月光仮面(TV)、フラフープ。ぼくが中学生だった頃と重なる。
たぶん大手町では最古参のビルだろう。周りのビルは大手町ビルより後に建ったビルが高層ビルに建て替わって、それらに埋もれた感じになった。そうなってみると、かえってこの古いビルの存在感が増してきたように思える。三菱地所もその辺を感じ取ったのかもしれない。建替えを当分やめて、2018~21年でリノベーションを行った。外観も変わってしまったが、ちょっと残念な気がする。



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東京国際郵便局。千代田区大手町2-3。2012(平成24)年6月14日

東京国際郵便局は国際郵便の交換業務を専門に取り扱う「国際郵便交換局」(無集配普通郵便局)として1968(昭和43)年10月28日に開局。国際郵便局は国際郵便物の発着の窓口業務を行う郵便局のことで、輸出税関・輸入税関等の手続きを経たのち、出発便の航空機に搭載したり、到着便の国内仕分けを行ったりする。「東京関税東京外郵出張所」が同居した。2005(平成17)年10月に江東区新砂の新東京郵便局の近隣に新局舎を建設して移転した。
収蔵庫・壱號館>旧・東京国際郵便局』によると、『郵政建築 逓信からの軌跡』という書籍からの引用として、「郵政省建築部の武田礼仁の設計」とあり、小坂秀雄の「庇の建築」を踏襲した武田の傑作ということだ。「武田氏は他に松山郵政局(1967年)を設計し、また1968(昭和43)年に設計課長となった際には、既に定着していた「庇の建築」路線の踏襲を表明したとある。また1973年から建築部長に就かれたとの記載が年表にある。」ともある。

江東区に移転後は建物は放置されていて、2015年になって解体された。今は大手町プレイスとして再開発された。写真手前の「東京郵政局」のあったところも含めて「イーストタワー」が建つ。

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逓信ビル。千代田区大手町2-3。2012(平成24)年6月14日

逓信ビル(逓信総合博物館)は大手町ビルを背にして撮るのが普通なのだが、そのほうは取り忘れたらしく写真ファイルに見当たらない。逓信ビルは1964(昭和39)年10月の竣工。設計は小坂秀雄、戸田建設の施工。日本電信電話公社のビルとして建てられたと思うのだが、逓信ビルという逓信省を引き継いだような名称が不自然な感じがする。2013(平成25)8月で閉館し、2014年8月に解体工事が始まり、「大手町プレイス」として再開発された。
設計者の小坂秀雄(1912-2000)を、ぼくはこの稿を書くまで知らなかった。日比谷公園の松本楼の生まれ。1935(昭和10)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。1937昭和12年、逓信省に技手で入省。当時逓信省には山田守(東京中央電信局)、吉田鉄郎(東京中央郵便局、大阪中央郵便局)がいて、それをひきついだのが小坂。1952年、「外務省庁舎」コンペ1等入選。この頃には小坂の設計の特徴である「庇」を推し進めるようになったらしい。1960年外務省庁舎。1964年ホテルオークラ。1963(昭和35)年「丸ノ内建築事務所」を興して独立。1974年KDDIビル(市立小樽美術館情報)。

写真右の駐車場になっている場所には「東京郵政局」があった。逓信ビルと同様のデザインで、やはり小坂秀雄の設計。その写真はネットではほとんど見かけないのだが、『都市徘徊blog>東京郵政局・関東郵政局』がある。

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大多喜活版所。千葉県夷隅郡大多喜町久保191。2003(平成15)年6月1日

大多喜駅から大手町通りを東へ行くと200mで城下町通りに出る。そこで真っ先に目に入るのが、大多喜活版所と奈美喜手房が並ぶ景観だ。2棟とも近年改修したのかと思われるくらいきれいだ。右側に軒を延長した形で門を構えているところが似ている。ただし、大多喜活版所の2階の高さが格段に高く、大きさも奈美喜手房の倍ほどもあって迫力がある。
大多喜活版所は社名に「活版」とあるが、活字を使った名刺などを作っているのかは知らない。たぶん昔からの社名が続いているだけなのだろう。奈美喜手房は手芸品や布製品小物などを売っている店。土産屋といっていいようだ。
観光案内の地図では大多喜活版所が「旧高師邸」「高師邸(活版)」、奈美喜手房が「奈美喜邸(生糸)」で載っている。
Deepランド>歴史散歩>大多喜⑹』によると、「松井天山が描いた昭和5年の鳥瞰図」には「大多喜活版所」と「並木肥料店」として載っているそうだ。


奈美喜手房。大多喜町久保187。2003(平成15)年6月1日

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伊勢幸酒店の向かい側。千葉県夷隅郡大多喜町久保170。2003(平成15)年6月1日

県道127号(城下町通り)にある国登録有形文化財の伊勢幸酒店の向かい側の家並み。写真では商店の構えにした家が6軒並んでいる。現在は、右端の家はなくなって空き地。その左の看板建築のような2軒は「川とや」という骨董屋に建て替わった。写真右手の街灯の右に、隠れるようにバス停が写っているのだが、小湊バスの「久保」バス停。このバス停は今も同じ位置に多分同じ標識のものが置いてある。街灯の左にあるのは煙草の自販機。
写真中央より左の2軒は、商店のような外観を改装して住宅になってしまっている。その左の方はGoogleマップに「鈴木クリーニング店」とあるので、撮影時ではそれだったのかもしれない。
さらに左の2階建陸屋根の家が「中村タイヤ商会」。写真の家並みの中で、現存していて外観が変わらない唯一の家だ。

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渡辺家住宅。千葉県夷隅郡大多喜町久保。2003(平成15)年6月1日

大多喜駅から東へ200mの県道127号(城下町通り)に面している、江戸期に建てられた商家。1969(昭和44)年に国指定重要文化財になっている。
現地の案内板(平成2年、大多喜町)には、「嘉永2年(1849)年に地元猿稲町(さるいねまち)の棟梁、佐治兵衛によって建造された江戸時代末期の代表的な商家造り」。嘉永2年は黒船来航の4年前。「猿稲」の地名は今も在り、渡辺家住宅の久保町の少し北、いすみ鉄道がカーブしている内側(南)である。「寄棟桟瓦葺(創建時は茅葺)2階建で、正面入り口は縦格子戸を、表板戸には上下戸をつけてある」「慶応4年(1868)に房総地方鎮撫副総督柳原前光が宿泊した記念の資料が残されている」などとある。
千葉県>渡辺家住宅』によると、「渡辺家は、大多喜藩の御用達を勤めた町の大通りに面した商家で、「穀家」の屋号で知られる」とある。なんの商売をしていたのか書いていないのだが、屋号から米だろうか。いろいろ手広くやっていたのかもしれない。茅葺きから瓦葺きに改修したのは1934(昭和9)である(まるごとe!ちば>渡邉家住宅)。


洋品店。大多喜町久保
2003(平成15)年6月1日

渡辺家住宅の北はセブンイレブンの駐車場だが、そこにあった洋品店。

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