ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




小名木川(おなぎがわ)排水機場。江東区東砂2-17。1997(平成9)年7月27日

旧中川が荒川に合流する地点に造られた排水機場。旧中川から荒川へ排水している。江戸川区と江東区・墨田区の境界は荒川ではなく旧中川なので、境界上にあるわけだが、住所は江東区になっている。
1969(昭和44)年の竣工。2017(平成29)に「調圧水槽、管理棟及びポンプ棟、ポンプ設備の耐震化、電気設備の耐水化」を行った(東京都建設局>小名木川排水機場)。
写真は平成橋(1994年架橋)から撮ったもの。中央奥の建物が排水機場で、手前に橋がある。橋脚がやたら多いから、ここで排水機場へ流れ込むゴミを止めるための設備かと思う。今は撤去されている。
2005(平成17)年10月に完成した「荒川ロックゲート」は、排水機場の左に、排水機場の水路と平行に建設された。



小名木川水門。江戸川区小松川1。1997(平成9)年7月27日

1枚目写真の左に続く場所で、左に写っているのが小名木川水門。小名木川水門は荒川放水路開削の際に築造された小名木川閘門(1926(昭和元)年完成)を、1964(昭和39)年に水門に造り直したもの。荒川ロックゲートの工事に伴って撤去されたようだ。
「新小名木川水門」が小名木川の隅田川側にある。小名木川水門はなくなってしまったから、いずれは小名木川水門といえば「新」のほうを指すようになるのだろう。

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旧小松川閘門
江戸川区小松川1-1
2009(平成21)年4月15日

荒川と旧中川が合流するところに「荒川ロックゲート」造られた。そのすぐ北に両川に挟まれた丘のような「大島小松川公園 風の広場」という公園があり、そこに「旧小松川閘門」が半ば埋められた姿で残されている。残っているのは旧中川側の門のほう。
風の広場は人工的に盛られたもので、スーパー堤防としてか、出水したときの避難場所になるように造られたものだ。都立大島小松川公園は1975(昭和50)年に防災市街地再開発事業が決定し、1997(平成9)年の開園だが、風の広場は1992(平成4)年に解放されている。閘門が埋められたのはその前年。

荒川放水路(現・荒川)の開削工事に伴い、水位の異なる旧中川・小名木川と荒川放水路の舟運のために建設された閘門(こうもん)。小松川閘門が造られる以前に、すぐ南に「小名木川(おなぎがわ)閘門」(荒川ロックゲートの場所)が造られている。小名木川閘門は1926(昭和元)年の竣工。その頃には旧中川の西側(現江東区・墨田区)が工業地帯として急激に発展してきて、船の通航が激増していた。小名木川閘門だけでは捌けないので、小松川閘門が追加で造られた。1927年4月着工、1930(昭和5)年3月竣工である。
また、荒川の対岸には「船堀閘門」(1930年竣工)が小松川閘門と同様の仕様で造られた。

江戸川区>小松川1丁目の街並み』の1968(昭和43)9月撮影の写真では、小松川閘門と小名木川閘門の両方とも門が1基しか写っていない。小松川閘門の荒川側の口はすでにないので、廃止されている。小名木川閘門は昭和39年に水門に改修されたので、写っているのはそれだ。
『グーグル古地図>昭和38年航空写真』には小松川閘門は写っているので、小松川閘門が廃止されたのは昭和40年頃かと思われる。
2018年10月に東京都都市整備局によって東京都選定歴史的建造物に選定された。江戸川区では初である。これを機に掘り出して全部が見られるようにしたらどうだろう。



小松川閘門。『土木建築工事画報 昭和6年8月号』より。

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崎川橋。江東区木場4-平野4
2003(平成15)年1月5日

崎川橋は(さきかわばし)仙台堀川の、大横川と交わるところのすぐ西に架かるトラス橋。昭和4年(1929)年に架けられ1径間鋼製トラスという形式の震災復興橋である。
割と立派な親柱が付随している。橋のトラスの上や横に付いている街灯と同じデザインの電灯カバーを乗せたレトロな感じの親柱だ。これが昭和4年の架橋時のものなのか疑問がなくもない。昭和50年頃の写真が見られる『歩いて見ました東京の街>補-8』にある1976(昭和51)年撮影の写真を見ると、親柱はごく小さい単純なものが写っている。現在見られる親柱はそれ以降に造り直したものだった。

永井荷風の「深川の散歩」という昭和9年に書かれたエッセイに崎川橋が登場する。荷風は開通して間もない「副砂通(ふくさどおり)」を、冬木弁天を横に見て大横川に達する。副砂通りは今の葛西橋通りだ。葛西橋通りの名称は「昭和59年東京都告示」というからわりと新しい。ちなみに今の葛西橋が架かったのは1963(昭和38)年である。その頃からぼちぼち「葛西橋の通り」くらいのことは言われていたのかもしれない。大横川を渡しているのは茂森橋である。荷風はそこから北へそれて崎川橋を渡ったらしい。「セメント造りの新しい橋」といっているので、茂森橋と間違えているという説もあるが、「わたった時、わたくしは向うに見える同じような橋」が大栄橋と思われる。大栄橋と崎川橋は同じトラス橋だ。荷風は大横川を越えてさらに東進するが、当時は副砂通りとして整備されていたのは横十間川までだったと思う。

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茂森橋。江東区木場4丁目-東陽6丁目
2003(平成15)年1月5日

江東区を東西に通っている主要道路の一つ、葛西橋通り(都道475号)に架かる橋で、大横川を渡している。1929(昭和4)年に架けられた震災復興橋梁で、葛西橋通りの整備の一環だったと思われる。交通量が多く、地盤沈下にも耐えてまだ頑張っている。
「茂森」は深川茂森町からきている。1703(元禄16)年の起立で、1931(昭和6)年に木場4丁目に編入された。
橋の構造は「ラーメン橋台橋」という形式。『東京の橋』(伊東孝著、鹿島出版界、昭和61年、2200円)で提出している用語で、復興局が考案した、道路側に橋台用地をとらなくてすむ新しいタイプだという。ラーメン橋台橋は、橋台を川の両側に造り、間に主桁を渡す。橋台は水流と舟運のためにアーチ状にくりぬく。
江東区にはトラス橋が多く架けられた。これは水面と橋桁との高さがとりやすいためかと思う。ラーメン橋台橋では中央部は厚い桁だからそれが難しい。現に茂森橋では水面が桁に接する場合もあるようだ。



茂森橋。2003(平成15)年1月5日

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白妙橋。江東区塩浜1-3・4、塩浜2-2・3。2003(平成15)年10月11日

白妙橋は塩浜1丁目と2丁目の間の平久(へいきゅう)運河(平久川)に架かる橋。塩浜1・2は「枝川改修工事埋立地」として大正10年に完成、同11年に深川区に編入された。当時は「浜園町」(深川浜園町、現・塩浜1)と「塩崎町」(深川塩崎町、現・塩浜2)といったが、昭和43年の住居表示制度で「塩浜1・2」となった。昔はここで塩を作っていたかのような地名だが、塩崎町の「塩」と浜園町の「浜」を合わせた地名だ。塩浜の南が枝川1~3だが、枝川町も同時期の埋立て完了、深川区編入だ。
塩浜1丁目には「農林省東京米穀倉庫」(旧深川政府倉庫跡地)が地区の半分を占めていた。米騒動を受けて大正12(1923)年に建てられ、平成13(2001)年に取り壊された。今はマンションが建ち並んでいる。知っていれば撮りに行けたのに、残念でならない。



白妙橋。2003(平成15)年10月11日

白妙橋は1937年(昭和12)に東京市によって架けられた。『特異な構造の鋼下路アーチ橋-海幸橋-について』によれば、前身は木製の桁橋だったが、1936年(昭和11)9月の台風により被災したため、架け替えられたもの。
「設計には当時の東京市土木局橋梁課長の安宅勝や瀧尾達也らが関わっている」「架設は(株)宮地鐵工所により行われている」。構造は「ランガー式補剛タイドアーチ橋」で、築地市場にあった海幸橋と同じ構造で、一回り大きい。
とにかく珍しい構造らしい。『江東区内の橋めぐり>白妙橋』には「構造はランガー・アーチ橋(ランガー桁橋)で、アーチ部とランガー部の接合部のヒンジが桁の上にある珍しいタイプ。(通常はアーチと桁の接合部にあるのが普通)」とある。
「ランガー橋」というのは、桁橋に近い構造で、アーチは補強の役割を受け持つものらしい。

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末広湯。千葉県浦安市堀江3-4。2009(平成21)年4月24日

堀江フラワー通りの、旧宇田川家住宅の隣にある銭湯。2019(平成31)年4月7日を最後に、閉店した。ほぼ、平成が終わると共に廃業したわけだ。たぶん客の減少と設備の老巧化のためと思われる。
創業がいつかは分らないが、建物は戦後まもなくのもので、ネットでは昭和25年とか28年と出てくる。それ以来、修理はしてきたのだろうが、改装はせずにきたらしい。ロッカーは開業時にはなかったと思われる。玄関の両脇にある切妻屋根は便所だろうか。
浦安で漁業が行われていた時代に、仕事を終えた漁師が一風呂浴びにやってきた時代がしのばれる、そんな銭湯だったようだ。浦安市が動いて保存できれば、江戸末期の漁師の家(旧大塚家住宅)、明治初期の商家(旧宇田川家住宅)にこの昭和期の銭湯が1カ所で見られる歴史地区になるのだが。

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旧大塚家住宅。千葉県浦安市堀江3-3。2009(平成21)年4月24日

旧宇田川家住宅から間近の、境川に面している漁師の家。1985(昭和60)年にもとの持ち主から浦安市に寄贈され、1987(昭和62)年から一般公開している。
寄棟造茅葺屋根、平屋で間取りなどの特徴から江戸時代末期の建築と推定されている。屋根裏があり、水害に備えて家財道具などがしまわれていた。
現地の案内板によると、大塚家は屋号を「兵左衛門」と称し、周囲からは「ショウゼムドン」と呼ばれていた。海の埋め立て以前は、冬季に海苔を生産し、また農業も営んだ反農半漁の家だったという。
浦安と言えば今はディズニーランドなのだが、昔は漁師町だった。それを伝える建物が移築によることなく元の場所に残されたわけで、実に貴重だ。

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旧宇田川家住宅。千葉県浦安市堀江3-4。2009(平成21)年4月24日

東西線浦安駅のすぐ西を南北に通っているのが千葉県道6号市川浦安線で、そこを南へ行って浦安駅前交差点を突っ切ると「宮前通り」となる。さらに250mほど南で境川を新橋で渡ると西側に清瀧(せいりゅう)神社という大きな神社がある。宮前通りの由来になる神社かと思える。境内に「堀江水準標石」というものがあることを押さえておこう。
清瀧神社の向かい側が「堀江フラワー通り商店街」の西側の入口である。「堀江フラワー通り会」の看板を付けた街灯が並んでいるが、今は住宅街の通りとしか見えない。フラワー通りに入ってすぐ目に付くのが立派な日本建築の商家「旧宇田川家住宅」だ。


旧宇田川家住宅。千葉県浦安市堀江3-4。2009(平成21)年4月24日

旧宇田川家住宅は明治2年(1869)に建てられた店舗と裏の住宅からなる建物。『浦安市>文化施設>旧宇田川家住宅』には「米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋などの商家として使われてきました。幕末から明治に至る江戸近郊の町家の形をよく伝えており、商家遺構の少ない関東では特に貴重な建物であることから、昭和57年に市の有形文化財として指定、昭和59年から公開しています」とある。
建築当時の住所は「葛飾県葛飾郡堀江村」。昭和58年に浦安市に寄贈された。店舗部分は見学者用に明治期の呉服屋を再現している。大正3年(1914)には浦安郵便局、昭和21年(1946)年から48年までは診療所として使われこともあったという。

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(株)イクタツ。中央日本橋小網町16
1987(昭和62)年3月8日

日本橋人形町1丁目にある区立日本橋小学校の裏手にあるごく小さなビル。ビルの裏は、戦前は東堀留川があった。看板に「(株)イクタツ」とあるので建物名にしたが、その会社についてはなにもわからない。昭和10年頃の火保図では単に「倉庫」で、昭和30年頃の火保図と昭和61年の住宅地図では「KI産業(株)」。永いことそういう会社が入っていたようだが、その会社についても不明。
写真右のビルは「中食ビル」。今は「神明日本橋ビル」(2008年築、8階地下1)に建て替わっている。

2005年頃に、建築家の石川雅英氏が改装して「ArchitectS Office」として、建築設計事務所・ギャラリー・カフェにした。『ミツカン水の文化センター>機関誌『水の文化』47号』に、氏が建物について語っている。「衣料品メーカーのワコールが和江商事だった時代に、京都から東京に進出して、初めて倉庫を構えた建物ではないか」ということで、「中央区の図書館で図面を発見し、1929年(昭4)ごろに建てられたことがわかりました」「屋上には物見台があり、荷揚げ用のフックも残っています」とある。
中央区>近代建築物調査>ArchitectS Office 』には、「東堀留川の名残を伝える、建築家により再生された倉庫建築」として、「高い天井高や荷揚げ用の開口部、階段など、倉庫建築の特徴を良く残している」「東堀留川に倉庫が立ち並んでいた時代を今に伝える貴重な1棟」「建物背面に「三田商店」と同様の護岸遺構が残り、堀端を示す遺構として貴重」「往時の雰囲気を良く残しつつ、カフェやギャラリーに改装したリノベーションの好例」とある。

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銭形の三軒長屋。中央区日本橋小網町13
上:1986(昭和61)年4月6日
左:2006(平成18)年9月30日

兜町から鎧橋を渡ってすぐ北へ曲がったところにある洋風看板建築の三軒長屋。外観から戦前築の建物に違いない。左の2軒はモルタル仕上げなのに、右の1軒が銅板張りなのが変わっている。元は銅板張りだったのを左の2軒は改修して簡単なモルタル仕上げに替わってしまったのかと考えてみたが、窓の上のアーチの飾りの中にあるレリーフを見ると、元からのもののように思える。
屋根を見ると右の1軒だけが少し高くなっている。この1軒が左の2軒とは造りが異なるのかも知れない。ファサードの違いも最初からのものなのだろうか。
左の「小料理 銭形」が長くやっている店だ。食べログなどの記事を見ると、「銭形平次捕物控の原作者・野村胡堂に屋号として使用許可をとり昭和26年に創業した「銀座・銭形」から暖簾わけした店」「昭和54(1979)年創業」「紫蘇巻焼鳥の特許は昭和47年に取得」などとある。

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