ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




伊能忠敬旧宅(店舗)。香取市佐原イ1899。2003(平成15)年7月20日

伊能忠敬は「1762年(宝暦12年)に17歳で伊能家に婿養子に入り、1795年(寛政7年)50歳で江戸に出るまでこの旧宅に住んでいた。店舗・正門は忠敬が来る前に建てられ、書院は忠敬が設計したと伝えられている」(ウィキペディア)。すると小野川に面した店舗は築後230年以上になりそうで、佐原で最も古い建物なのかもしれない。『千葉県>伊能忠敬旧宅』には、「主屋は、寛政5年(1793)、忠敬が48歳のときに自らの設計によって建てたもの」「店舗は、伊能家が醸造業を営んでいたときの倉庫が改造されたものといわれ、桁行7間、梁間4間の造りである。建物の戸は柱の間に横長の板戸を挟む蔀戸になっている。半分弱が土間で、土間の東側には畳敷きの帳場と座敷がある。」とある。


伊能忠敬旧宅。(店舗)。2003(平成15)年7月20日

忠敬旧宅でぼくが興味を惹かれるのは、中に入って見学していないので見てはいないのだが、農業用水(佐原村用水)の跡と旧伊能忠敬記念館。
『佐原の歴史散歩』(島田七夫、たけしま出版、1988)から引用する。

 佐原村用水の始まりは江戸初期の延宝元年(1673)といわれるが、詳しくはわからない。新宿側の上宿方面から流れてきた湧き水を主体とする用水は、下宿の伊能茂左衛門家(現・伊能忠敬記念館)の宅地内を流れぬけ、門の辺りから左折して新橋本・関戸を経て岩ガ崎方面へ流れていた。本宿側は、小野川中流の関から分流した用水が、浄国寺の南側、佐原小学校正門前を経て、伊能三郎右衛門家(忠敬の家)の宅地内で二つに分かれ、本川岸・浜宿を経て本宿耕地方面へ直進するものと、一方、左折して宅地内の用水路(現存)から樋橋を渡り、先の上宿方面から水と合流し関戸方面に流れていた。この用水が樋橋を流れる時、多い分などが小野川に落ちたのである。
 佐原村用水は、昭和20年代まで使われ、佐原(村)にとっては300年という長い間、大切な用水(路)であった。現在では、用水の機能がなくなり埋められたり、一部が排水路として使われているが、市街地のものは舗装道路の下に隠れている。

旧宅の敷地の東北に建っているのが旧伊能忠敬記念館。「昭和36年(1961)に建設された鉄筋コンクリート造り2階建ての建物」(『佐原>伊能忠敬の旧宅』)。建物内は今も記念館だった時のままの展示用のケースなどが置かれているらしい。小野川対岸に新しい記念館が開館したのは平成10年(1998)5月22日。

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亀村本店(土蔵、右奥が店舗)。香取市佐原イ1726。2003(平成15)年7月20日

下新町通りの伊能忠敬記念館駐車場の南にある古い商家。「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」が設置した説明板によると、亀村本店(屋号は「大和屋」)の創業は享保3年(1718)。「初代大和屋三郎兵衛は大和の出で、現在11代目を数える。荒物、雑貨、食料品の卸業を多角的に経営したが、砂糖の販売でよく知られた」という。
佐原の町並みかわら版 43号(平成21年2月)』には、「江戸時代には自前の船を持ち、江戸から商品を仕入れたという。鉄道に代わってからも毎月貨車一輌分のマッチを仕入れた時期もあった。本社〈大日本兵庫清燐社(現・兼松日産農林)〉より有数の優良代理店として認められ、そのしるしとして贈られた「桃の浮き彫り入りの看板」が今でも座敷正面に掲げられている」とある。
現在ではこの店のカルメ焼きを目当てに来る観光客もあって、買いやすいように100円の袋入りのざらめなども置いてある。



亀村本店(店舗)。2003(平成15)年7月20日

建物は「考える会」の説明板によると、店舗は「寄棟妻入り平屋建 明治27年(1894)築」、「間口が広い屋根面積の大きい重厚な平屋建て店舗で、座売りの形態を良く残す数少ない建造物」。土蔵(袖蔵)は「切妻平入り2階建て 明治37年(1904)築」。

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下新町通りの旧商家。香取市佐原イ1712。2003(平成15)年7月20日

下新町通りを南にいくと伊能忠敬記念館の裏の大きな駐車場があるが、その手前にある民家。1階は玄関と車庫に改装されているが、元の店舗と思われる家と袖蔵が通りに面している。店舗の裏は住居がつながっている。そういう建物の配置から元商家と思われる
ストリートビューを見ると、蔵の前のコンクリート塀に「電気工事は大友」とペンキで書かれているが、写真の家と結びつくのかどうか分からない。どうもただの広告のような気もする。
民家と記念館駐車場との間に路地が入っていて、グーグル地図に「樋小路」となっている。この路地は伊能忠敬記念館の建物をよけて鍵形に曲がっているが、小野川の樋橋(とよはし)につながっているから、そこからの命名だろう。樋橋は「もとは江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋」(香取を旅する>樋橋(じゃあじゃあ橋))だったから、路地が農業用水の跡ということも考えられる。路地の反対側、西への延長が清宮秀堅旧宅の北の境の路地だが、そちらはより用水路跡という感じがする。

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清宮秀堅旧宅(母屋)。香取市佐原イ1710。2003(平成15)年7月20日

香取街道の「馬場本店酒造」の向かい側を南に入った横丁が「下新町通り」という。香取街道沿いの商店街とはだいぶ様子が異なるが、屋敷の黒塀や蔵、商家だったらしい町家が並んでいて、昔の佐原が残っている通りといえる。そこに入ってすぐ西側に蔵と黒塀が現れるのが「清宮秀堅(せいみやひでかた)旧宅」、または「清宮利右衛門邸」。
「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」が設置した案内板「清宮」によると、清宮家は享保15年(1730)の創業で穀物商・醤油醸造・質商等を営んでいた。
門から覗ける大きな母屋は「寄棟平入り、明和2年(1765)改築」。「江戸時代末から明治初期の漢学者であり、地理・歴史・儒学にも長じた清宮秀堅の旧宅」である。「佐原に残る数少ない江戸時代の住宅建築で、間取りや部材にその特色を見ることができる」。



清宮秀堅旧宅(黒塀と店蔵)。2004(平成16)年4月22日

通り沿いには3棟の土蔵が建っているが、上の写真の蔵は北にあるもの。質屋だったときの店蔵だった(佐原商家町ホテル NIPPONIA SEIGAKU棟)。「考える会」の案内板に「土蔵:切妻平入り 明治2年(1869)築」とある。
下の写真の蔵は「土蔵(左の2棟):切妻平入 明治期築」。右のほうの蔵は『SEIGAKU棟』では「大蔵」と称していて、米などを置いていた蔵だったという。


清宮秀堅旧宅(大蔵と門)。2003(平成15)年7月20日

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築地本願寺慈光院。墨田区横網1-7。2004(平成16)年3月27日

慈光院があるのは東京都慰霊堂と東京都復興記念館がある横網町公園の北の道路の向かい側。神社仏閣の建物は古いことが権威に通じるように思われているから、建て替えられることはあまりない。従って当ブログではそちらの記事はほとんどないわけだ。慈光院は5年前に建て替えられたが、撮った写真は上の1枚だけだ。この寺がどういうものかはこの記事を書くために調べて初めて知った。
築地本願寺慈光院』から引用すると、「慈光院の建っている場所は、1923(大正12)年9月、関東大震災で3万8千人余の焼死者を出した、陸軍本所被服廠跡」。「震災後、築地本願寺、京都の本山から早速、救護の手がさしのべられ、救護所(現在のあそか病院)・託児所(現在の江東学園幼稚園)が、そして焼死した人々の追悼の場として、また残された者の心のより所としての説教所が設置された」。その説教所が慈光院になり、震災から5年後の昭和3年9月1日に本堂が完成した。
昭和20年3月9日夜の大空襲では地元民と本所消防団の活躍で焼失を免れたという。
「昭和30年の関東大震災33回忌を契機として、布教伝道の充実がはかられ、昭和33年3月には鐘楼が建立された」。また、本堂建立50周年の昭和53年に、本堂改修と庫裡、境内の整備をした。
建替えられた本堂は築地本願寺をモチーフにしたRC2階建てで、2016(平成28)年4月の完成。

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下総屋食堂。墨田区横網1-12。2004(平成16)年3月27日

旧安田庭園は四方を道路が囲んでいる。そのうち、南と東側は塀ではなくて民家が並んでいる。写真は南の家並みで、左の下総屋食堂の左に旧安田庭園西門が開いている。この辺りは空襲の焼失を免れていて、古い家は戦前からあるものだ。
下総屋食堂は「懐かしの昭和の食堂」としてかなり有名らしい。店名に「食堂」をつけているのがすでに珍しいが、さらに「大衆食堂」を名乗っている。両国橋の謂(いい)は武蔵と下総というからそこからの店名だろうか。ぼくは蔵前橋通りと京葉道路との乗り換えに店の前の道路をよく使うので、入ったことはないがなんとなくなじみの店のような気がしている。
『食べログ』の投稿記事によると、昭和7年の創業。建物は、正面は戦後の改修のようだが、入母屋屋根の本体は同じ頃のものなのかもしれない。戦後は「外食券食堂」から制度により昭和26年に「民生食堂」に移行した。その「東京都指定民生食堂」のプレートが店内に下がっている。戦後がこの店ではまだ残っているようである。




民家。横網1-10
上:2004(平成16)年3月27日
左:1988(昭和63)年4月10日

旧安田庭園を半分囲っている家並みの向かい側にあった民家と事務所と思われる家。現在は「ザ・グラティア両国」(2012年2月築、10階建35戸)というマンションに替わっている。

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両国公会堂。墨田区横網1-12。2004(平成16)年3月27日

『日本近代建築総覧』では「墨田区両国公会堂(旧本所公会堂)、建築年=大正15年(1926)、構造=RC(4階建)、設計=東京市(森山松之助)、備考=「建築世界」T15.09による」。
『東京建築懐古録』(読売新聞社編・発行、1988年、1600円)によると、安田財閥の安田善次郎(1838-1921)の遺志にもとづいて遺族が350万円と安田家本邸を東京市に寄付して作られた。総工費336,900円、大正15年6月完成。1階がホールで、2、3階が定員790人の講堂。

設計者の森山松之助について、『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)の解説文を書き写してみる。

森山松之助(明治2年~昭和24年)
明治の末から大正にかけて台湾で活躍し、旧総督府はじめ今日もなお数多く遺る台湾の華麗な洋風建築はほとんど彼の手によったという。帰国後は民間に事務所をひらき、町の小商店である、同族会社のオフィスビルであれ、また銭湯であれ何でも手がけ、一方また華族の大邸宅も多くこなすという、幅の広さを身上としているが、彼の偉さは、商店や銭湯といえども決して気ばらず、同じ気持で着実に作っていった点である。民間建築課の鑑のような人物であった。


『東京建築懐古録』には「戦後は、一時、占領軍のダンスホールにも使われたが、労働組合の全国大会、テレビの公開録音などに利用された」とある。昭和42年4月に、東京都から墨田区に移管された。
老巧化により2001年より使用停止となり、墨田区は建物を改修して残すように動いたものの経費などの面から解体された。2015(平成27)年8月からの解体工事は年内いっぱいかかったようだ。その後「本庄松田家屋敷跡」の発掘調査が行われて、跡地には「刀剣博物館」が建ち、2017(平成29)年1月に開館した。


両国公会堂(西側)。1988(昭和63)年4月10日

講堂。『東京建築懐古録』より

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JR両国駅。墨田区横網1-3。2004(平成16)年3月27日

ぼくのような老人には、両国駅というと房総方面へのターミナル駅という認識がまだ残っている。『ウィキペディア>両国駅』によると、「外房線・内房線とも千葉から先はまだ非電化であり、1958(昭和33)年7月10日から気動車準急「犬吠」の運転が開始され、その始発・終着駅となった。さらに房総方面の準急・急行は増発され、一部総武緩行線経由で新宿方面へ乗り入れる列車もあったものの、多くの優等列車は当駅始発・終着とされた。」とある。ぼくはその列車に乗った記憶はないが、上野駅が「東京-東北」に結びつくように、両国駅は「東京-房総」だった。
総武線を電車が高密度で走るようになるにつれ、列車が走る余地がなくなってきたのだろうか。しだいに房総方面へは千葉駅始発に変わっていたのだと思う。1972年に東京駅-錦糸町が開通して総武線は複々線化されたが、快速電車の両国駅は設置されなかった。



JR両国駅(北の側面)。2004(平成16)年3月27日

写真の駅舎は『日本近代建築総覧』では「国鉄両国駅、墨田区横網1-3-20、建築年=昭和4年、構造=RC、設計=鉄道省、施工=銭高組、備考=「銭高組社史」P148による ○」。開業は1929(昭和4)年12月30日。
『東京建築懐古録』(読売新聞社編・発行、1988年、1600円)によると、設計は旧鉄道省工務局建築課、SRC2階建て。2階アーチ窓の、壁が高くなっているところは吹き抜けの中央コンコース。

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福島質店。墨田区緑1-14。2007(平成19)年5月23日

京葉道路の緑一丁目東交差点を南に入ってすぐのところ、京葉道路の裏通りとの角にある質屋。古そうな蔵が2棟建っている。『東京建築懐古録Ⅲ』(読売新聞社編・発行、1991年、2,000円)に1章をさいているので、以下その内容を紹介する。
「福島屋」開業は元禄2(1689)年で都内最古という。1991年の時点で店主は9代目。最初は横十間川と小名木川の交わる辺り(江東区猿江)にあったが、明治末の7代目の時に現在地に移転した。震災のころまでは中小質店から品物を預かって資金を貸す「親質(おやじち)」(一般の質屋は直質(じきじち))の形態だった。商売相手は50軒くらいあったという。
2棟の蔵は伝統的な外観だが3階建てのRC造。1階の床は水害を考慮したらしくかなりの高さがある。外壁は厚さ35cmのコンクリート壁で内側はヒノキ板張り。窓は鉄扉、鉄角棒格子、ネズミ返し用の金網戸、金網入りガラス戸の4層。敷地奥の東側質蔵が昭和9年10月の完成、西側質蔵は昭和2年4月の完成である。

道路の角に国旗掲揚塔が立っている。戦後のものかもしれないが「国旗掲揚塔/緑町一丁目町会」の銘板がはめてある土台は梅花形の断面で明るい色のコンクリート洗い出し。ストリートビューを見ると今はなくなっている。解体されたのは2017年。老巧化で倒れる危険性がでてきたのだろうか? ちょっと残念だ。



福島質店(裏通り側)。2015(平成27)年5月11日

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千葉銀行緑町支店。墨田区緑1-10。2007(平成19)年5月23日

清住通りの京葉道路との交差点が緑一丁目交差点で、そこから清住通りを南へ2本目の横丁との角にあった銀行だった建物。
建物の変遷は不明だが、三和銀行本所支店として1950年代に建ったものではないかと思う。クローバーのマークの三和銀行は、2002年(平成14年)に東海銀行と合併してUFJ銀行となった。1999年の地図では三和銀行になっているから2002年までは三和銀行だったのかもしれない。UFJ銀行、三菱東京UFJ銀行になったのかは分からないが、建物左の自販機のようなものは「すぐモビ」のローン申込書が置いてあるボックスのようで、三菱東京UFJ銀行系のモビットだったかもしれない。
2009年12月のストリートビューで千葉銀だったときの画像が見られる。上の写真はその前の空き家の時期らしい。住所は「緑」なのだが、それでは落ち着かないのだろう。旧町名を使って「緑町支店」としている。
現在の「ザ・パークハウス両国」(13階建47戸)というマンションは2012年2月の竣工。

都電館>都電アルバム新6江東の都電は異次元空間』に、昭和44年に撮られた緑一丁目交差点から南の町並みをとらえた写真が載っている。交差点を横切る都電を撮影したものだが、松山ビルから協和銀行、日本勧業銀行、そして三和銀行までが写っている見事な写真だ。松山ビルには「東都信用組合」の字がある。

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