ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




インバーハウス、東京医薬品。中央区日本橋室町3-2(現3-3)。1988(昭和63)年7月31日

左写真は中央通りの室町三丁目交差点から本町通りの東方向を見たもの。写真左端が藤越ビルで中央通りとの角。以下、1986年の住宅地図では、「インバーハウス、東京医薬品日本橋営業所、松下鈴木東京支店」で、奥には建替前の「繊維会館(旧博文館)」が写っている。
藤越ビルは「日本貿易館」というビルが1957年に建て替わったもの。インバーハウスは『廃景録>東京医薬品/伊藤忠食品』に「英国風居酒屋インバー ハウス」という店で、ビルは2004(平成16)年まで残っていたという。こちらのサイトの写真は順光で全体がきちんと捉えられている。
東京医薬品は、「公益社団法人 東京医薬品工業協会」が建て替わったビルに入っているので、それかと思ったが、シャッターに「東京医薬品株式会社」の文字がある。ウィキペディアに項目がある、現在の「クラヤ三星堂」だろうか?
現在は藤越ビルとインバーハウスビルとで「E.T.S.室町ビル」(2006年7月築、14階建)に替わった。


松下鈴木東京支社。日本橋室町3-2(現3-3)
1988(昭和63)年7月31日

松下鈴木株式会社は現在の伊藤忠食品で、前身は鈴木洋酒店。『伊藤忠食品130年の歩み』によれば、1875(明治8)年に鈴木恒吉が洋酒罐詰直輸出入商の「鈴木洋酒店」を創業。1887( 明治20)年には渋沢栄一、浅野総一郎、大倉喜八郎等と共に札幌麦酒株式会社を創立して、翌年、サッポロビールの特約店となっている。1928(昭和3年)本社社屋完成。それが写真のビルだ。1971(昭和46)年に「松下商店」(本社:大阪市中央区)と合併して「松下鈴木」となる。1996 (平成8)年に「メイカン」という会社と松下鈴木が合併し、商号を「伊藤忠食品」に変更した。
現在、東京医薬品と伊藤忠食品とが「日本橋アイティビル」(2001年築、9階建)に建替わっている。伊藤忠食品東京本社がそこに入ったが、2013(平成25)年、元赤坂の赤坂Kタワーに移った。

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兼八接骨院。中央区日本橋室町1∸12。1987(昭和62)年?

中央通りの1本東の裏道。1986年の住宅地図では左から「寺崎電気商会、兼八接骨院、仲冨久、室町興業ビル」。現在は写真左端のビルが「テラサキ第2ビル」に建て替わったほかは変っていない。仲冨久の建物は戦後の看板建築風の建物だが、割と凝った造りだ。2階の窓を縦のルーバーのようなもので区切って縦長の窓を並べている。今は「韓国居酒屋 とんとん」という店になっている。


角一興業、千切屋。中央区日本橋室町1∸18
1985(昭和60)年8月3日

日本橋北交差点から江戸橋北交差点への道路、写真左の横丁の左は日本橋北交差点角の駿河銀行。現在は全て新しいビルに建て替わっている。
1986年の住宅地図では写真左のビルが「エル(1階の喫茶店)/角一興業」、その右が「千切屋㈱東京店(呉服)」、右の工事中らしいところが「東京都商工信用金庫本店」。

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三井本館(南西角)。中央区日本橋室町2-1。1985(昭和60)年4月14日

『ウィキペディア』や『三井広報委員会』などを参照すると、三井本館は、アメリカ〈ニューヨーク〉のトローブリッジ&リヴィングストン事務所が設計しジェームズ・スチュワート社が施工。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現7階)地下2階建、屋上塔屋付。
三井なら設計施工は横河民輔・横河工務所になるはずだが、三井合名理事長・團琢磨はアメリカの会社に決めた。工期の問題が大きかったらしい。震災復興期で、横河工務所は目いっぱい仕事を抱えていたのかもしれない。「近代化された建築生産方式を導入し、当時6年かかるといわれた工期を2年8ヶ月で完成させた」(『三井不動産>ニュースリリース>2009年』)という。工程管理などの手法を学んだということもあったのだろうか。
大正15年6月24日起工式、昭和2年11月10日上棟式、昭和4年3月23日竣工、6月15日開館した。総事業費2,131万円は通常の10倍の単価で、現在の価値にして約1,000億円という。さすがは財閥である。隣に建った39階建ての日本橋三井タワーが建てられそうだ。今は贅沢な建物を建てようにも、株主から「そんな金があるなら配当に回せ」ということになるから、建物に金をかけることはできない。それができた時代の遺産として、三井本館を眺めることもできる。
昭和初期は昭和恐慌の時代で、不況にあえいでいた。労働者は首を切られ、学校を出ても就職先がない、農村では娘を身売りする、という事情が一方ではあった。財閥はドル買いで大儲けしていると反感を買っていた。三井本館のような建物に大金を、それもアメリカなんかに建てさせるなんて、と三井も憎まれていたようである。1932(昭和7)年3月5日、團琢磨は三井本館南の玄関前で車から降りて建物に入ろうとしたときに、菱沼五郎(血盟団、22歳)に射殺された。享年75。



三井本館。2003(平成15)年5月4日

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三越日本橋本店。中央区日本橋室町1-7。2003(平成15)年5月4日

三越日本橋本店は2016年7月、国の重要文化財に指定された。『文化庁>国指定文化財等データベース>三越日本橋本店』を引用すると、「関東大震災で被災した大正期の建物の鉄骨をいかしつつ、昭和2年に鉄骨鉄筋コンクリート造7階建として完成」した。この時完成したのは現在の本館の北側の約半分の部分である。「その後の増築に伴い、昭和10年に五層吹抜けの中央大ホールを設置するなど、充実が図られた。横河工務所による一貫した設計により、外観はやや簡略化しつつも西洋古典様式に則った意匠で統一されている」。昭和10年の増改築は、南西の部分になる。昭和7年の火保図では増築部分がすでに「三越呉服店」の「新館」として描かれていて、中央通りに面して「加藤伊助木屋刃物店」と「木屋漆器店」が並んでいる。その南東の部分の増築がなったのは昭和31年だ。
設計をした横河工務所は横河民輔(1864~1945)が開設した設計事務所で、実際に図面を引いたのは主に中村伝治(1880~1968)という人だったという。



三越日本橋本店。左:1986(昭和61)年4月13日、右:1987(昭和62)年4月5日

『国指定文化財等データベース』の詳細解説には、外観について「昭和2年建築部は三層構成とし、基部にあたる一階は石積風の花崗岩張で、二階から五階は白色小口タイル張とし、柱頭飾を持つ太い柱形を林立させ、各階毎の楣で繋ぐ。六階部分の下部はコーニスを廻らしてエンタブレチュア風に装飾し、上部にもアーキトレーヴを廻らし、頂部にアンティフィクサを並べる。」としている。
ぼくには分からない用語があるので調べてみた。
・楣(まぐさ):窓、出入口などの壁面開口部の上に水平の梁を架け、上部の荷重を支持する場合の梁をいう。一般にアーチ式構造法と対比される。[ブリタニア国際大百科]
・コーニス:建物あるいは壁を完成させる水平に形作られた突起部であり、あるいはエンタブラチュア(柱に支えられる水平部)の上方の傾斜した部分。[ウィキペディア]
・エンタブレチュア:柱頭の上部へ水平に構築される部分で、モールディングや帯状装飾で飾られる。造は、ドーリア式、イオニア式、コリント式の、3つの古典的オーダーに分かれる。[ウィキペディア]
・アーキトレーヴ:ギリシャ・ローマ建築で、エンタブレチュアの下部を構成する水平材。大梁。[大辞林]
・アンティフィクサ:古代ギリシャ、ローマ建築で用いられた装飾雄瓦の軒先先端を隠す為の軒先や棟に付けられる化粧瓦。スイカズラの花や葉をデザインしたアンテシオンをよばれる模様やカシの歯模様(パルメット)を付けるのが普通。[建築史!勉強法ナビ]

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大勝パーマ。神奈川県横浜市中区山下町186
2002(平成14)年1月19日

横浜中華街の上海路にあったパーマネント店。今も建物は健在で、2007年12月から餃子専門店「百八十六番餃子」になっている。建物は戦後の看板建築といっていいだろう。二階のベランダとその手すりが印象的だ。
大勝パーマの素晴らしい写真を載せている『週刊 横濱80’s>中華街』では、1959年(昭和34年)の開業としている。建物は『ヨコハマ経済新聞2007.12.27』では、「築60年以上」だから、戦後すぐの1947(昭和22)年頃になりそうだ。

中華街ランチ探偵団「酔華」>中国理髪「發記」の跡地で改築工事が』によれば、1枚目写真右端の家は「発記」という中国理髪の店だった。この記事が書かれた2007年の数年前に廃業したそうだ。『横浜市>刊行物>中区解体新書』によると、ドアに《発記中国理髪》と書かれていて、店主は毛さんといい、競馬中継を横目で見ながらやってくれたとか。現在地での開業は昭和21年という。

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旅館オリエンタル。神奈川県横浜市中区山下町187
2009(平成21)年7月26日
右写真は2014年3月撮影のストリートビュー

横浜中華街の南門通り(南門シルクロード)にあった小さなホテル。その正体がしれない存在感で結構注目されていた物件で、ネットでもかなり取り上げられている。好奇心が抑えられなくなって、宿泊して、その体験をレポートしてくれたサイトも何件かある。なぜか皆さん、3階の部屋へ入れられている。
ネットの情報によると、1960(昭和35)年頃に、船員用のホテルとして開業したらしい。『はまれぽ.com>中華街にある怪しい建物、オリエンタルホテルは営業してるのか!?』では、「近くに造船所があり、台湾などから船が乗り入れ船員さんで賑わう街だった」そうだ。
建物はRC3階建てらしく、正面はタイル貼り、屋上に住宅風の家屋を増築している。玄関ドアの斜めに取り付けた引手のバーがレトロである。看板には「旅館オリエンタル」の他「HOTEL ORIENNTAL」と「東方旅社」の表記がある。
2015年に取り壊されて、2016年6月に「オリエントビル」という3階建てのビルに替わった。また、ホテルの右(北)の駐車場には2017年3月に9階建ての「ホテルリブマックス横浜元町駅前」が建った。

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北京堂。神奈川県横浜市中区山下町166。2002(平成14)年1月19日

横浜中華街の関帝廟通りを西から入ってすぐのところ。今は写真左端の北京堂だけが残っている。上の写真では店の店名が全部は判らない。下の写真は2009年撮影のストリートビューで北京堂の方から見たもの。建物は2002年の写真と変わらないので、それで見てみると、左から「北京堂(中国骨董)」「横濱屋(猫の雑貨)/カメラ」「緑チャイナ祖蔭彫刻屋」「tef tef(アジア雑貨、2007年開店、2010年4月看板建築風の現店舗完成)」「金福楼(中華料理、2014年9月で閉店)」。


2009年8月撮影のストリートビュー



愛龍號の三軒長屋。山下町133。2002(平成14)年1月19日

関帝廟通りの山下町公園の並びに食品などの商店が並んでいる。写真の看板建築風の三軒長屋は今も残っている。写真では画素数が低くて左の店の看板が読めないが、食品を売っているようだ。今は「雅秀殿」という豚まんなどの店になっている。「秀味園(台湾料理)」と「愛龍號(中華材料)」は変らない。

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インペリアルビル。神奈川県横浜市中区山下町25。2009(平成21)年7月26日

一見、どうということのない普通のビルである。隣の上田ビルは1972年に建ったものだが、同じ頃のビルにも見える。これが1930(昭和5)年に建った、大さん橋入口の「ジャパンエクスプレスビル」や海岸通りの県庁向かいの「昭和ビル」と同じ設計者による、関東大震災復興期の建物と分かると、改めてつくづくと眺めることになる。
『日本近代建築総覧』では「インペリアルビル、中区山下町25、建築年=昭和5年、構造=RC4階建、設計者=川崎鉄三、施工者=白井工務店」。
はまれぽ.com>…「インペリアルビル」に突撃!(2015.09.29)』、及び『ウィキペディア』によると、外国人専用アパートメントホテル(長期滞在型のホテル、24室)として建てられた。終戦後は約10年間米軍に接収された。その時期に5階部分の増築がなされている。
川崎鉄三は生没年不明というのが不思議で、親族などはどうなっているのだろう? 1912(明治45)年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科卒業。1925(大正14)年に「若尾ビル」建築のために横浜に来た。川崎鉄三が横浜で手掛けたのは7棟という。当ブログでは今まで挙げてきた他に「加藤電気工業」を収録している。
インペリアルビルは当時としては超モダンな外観だったと思われるが、そのデザインはどこから出てきたものなのだろう? 施主の意向なら、施主が建築の最先端の動向について知識があったことになりそうだが、施主は保守的であることが通り相場だ。余計な飾りはなくていいから、という注文だったのだろうか?
写真では1階に楕円形の窓があるが、今はビルオーナーの意向で原形に戻す形に改装された。『神奈川の近代建築探訪インペリアルビル』には、楕円形の窓が4個ある時の写真が載っている。
ビルの裏側にあった駐車場にはビルが建って、今はビルの裏側は見られなくなった。

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長者町電話局。神奈川県横浜市中区長者町5。2009(平成21)年4月5日

写真の建物はグーグル地図では「テルウェル東日本(株)神奈川支店」。テルウェル東日本はNTTグループの会社で、建物の管理、オフィス用品等の販売、電気・通信システム等の工事・保守、電柱広告、電報など、幅広い業務を行っている。建物角の交差点名が「長者町電話局前」だから、建物名としては「長者町電話局」として一般に認知されているのだろう。
『日本近代建築総覧』に「長者町電話局、横浜市中区長者町5-60、建築年=大正14年、構造RC2階建、設計者=逓信省(上浪朗〈うえなみあきら、1898-1975〉)」とあり、施工は大林組。横浜中央電話局の長者町分局として建てられた。
角の曲面が印象的で、玄関の階段状の造形が柱状の壁にも繰返し現われる。この階段状の造形は他の逓信省時代の電話局でもよく見られたものだが、それらの古い建物がすっかり減ってしまった今では、この長者町電話局の存在は貴重である。幸い、NTTではこの建物を保存していく考えのようだ。



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商栄ビル。神奈川県横浜市中区太田町5。2010(平成22)年4月10日

馬車道(写真右)と相生町(あいおいちょう)通りの交差点から撮った商栄ビル。「馬車道商栄ビル」ともいうらしい。『横浜の防火帯建築と戦後復興>商栄ビル』によると、昭和29年度の事業として横浜市建築助成公社から融資を受けて昭和30年9月に竣工した防火帯建築の共同ビル。建築主は9名と神奈川県住宅公社の協同による「併存ビル」という。竣工当時の写真と見比べるとあまり変化はない。2階の窓は2段になった鉄枠の跳ね上げ式窓だったようだ。太田町(おおたまち)通りの角で曲がっているL字型の平面である。
平安堂薬局」は看板に「創業明治3年」とある。店名は家伝薬「上気平安湯」による。精神安定剤だろうか。平安堂薬局は商栄ビルの建て主の一人だ。
2016年に取り壊されたようで、現在は駐車場。


商栄ビル。太田町通り(写真右)との角。2009(平成21)年7月26日

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