ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




仲坂。新宿区荒木町11。2002(平成14)年5月6日

荒木町の窪地は、元は靖国通りの谷から南に入っている枝谷で、その谷の入り口から少し入ったところを堰で仕切って、純粋なすり鉢に変えてしまったものである。すり鉢には池を設けて大名庭園としたわけだから、そのための堰かと思うのだが、特に純粋な窪地にする必要もないようにも思われ、堰堤の目的はあるいは交通の便かとも思われる。
堰堤の道路とすり鉢の底を結んでいるのが「仲坂」の階段。すり鉢へ下りる坂道(階段)は10か所近くもあるが、名前が付いているのは仲坂だけらしい。高低差は6.5m(『東京の階段 DB>0038 荒木町・仲坂』)。
階段下の両側に小さい石柱(基石)が立てられていて左が「仲坂」右が「昭和七年八月竣工」と彫られている。右の石柱の文字が明朝体であるのが珍しい。階段の上にも一つ石柱が残っているが、破損して文字が「坂」しか残っていない。石段だからだろうが、坂道にその名前と竣工日を記した石柱が作られることは極めてまれなことと思われる。
写真中央の、木で隠れている建物は料亭だった(『ちくわ>四谷荒木町…』)。門は階段の踊り場に向いている。
写真右のアパートはごく最近(たぶん2019年)取り壊されて、現在は4台分の駐車場である。

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ハイム石川。新宿区荒木町11。2002(平成14)年5月6日

荒木町のすり鉢の底の中心あたりで、写真は策の池(むちのいけ)を背中にして撮っている。右奥突き当りが仲坂。明治時代だったら池の真ん中辺りになりそうだ。
四軒長屋のように見えるのが「ハイム石川」というアパート。不動産サイトに1976年4月築とあった。2018年に「グレース・アイ」(4階建、2018年6月築)というマンションに建て替わった。
その右の家は料亭だろうか。2015年のストリートビューでは、塀をより料亭らしく改修して玄関に「川口」の外灯が付いている。それが2019年7月ではすっかり取り払われた更地になっている。2020年2月のSVでは3階建11戸のマンションの工事が始まったところだ。また、川口の右の庭付きの家がなくなっていて、やはり基礎の工事中。

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肉の万世。新宿区荒木町6。2002(平成14)年5月6日

車力門通りの真ん中、クランクのところから「すり鉢」の底へ下りていく坂道の路地にあった「肉の万世」。『アド街ック天国2002.11.2放送』に「14位 肉の万世|昭和35年(1960)に神田以外の地に3号店を創業」とある。まだ料亭街として賑わっていた頃だろう。写真の右手の門の上に「四谷/万世牧場」の看板があるから「四谷店」といったのかと思う。
撮影後まもなく閉店したらしい。現在は「レナトゥス四谷」という6階建50戸のマンションに替わっているが、それが建ったのが2006年1月。
門の前にある古いタイプの街灯は、今は蛍光灯が外されて機能していないが柱が残っている。そういえば、「料亭 千葉」の前にも同じ街灯がある。

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料亭 千葉。新宿区荒木町10。2010(平成22)年3月3日

車力門通りの北、外苑東通りからの入り口から南へ70mのところから東へ入る横丁を入って、すぐ北向きの路地を下がった正面に門を構える「千葉」という料亭。その路地は千葉の前で右(東)へ曲がり、クランク形に曲がりながら下りていく段のある坂道で、下りきったところが荒木町のすり鉢の底、策の池(むちのいけ)だ。
「千葉」は荒木町が料亭街だったころの面影を留めている唯一の料理屋、というふうに言われていたが、ごく最近、廃業してしまったらしい(コスモ通信NO32)。創業は1980(昭和55)年頃というが、建物はもっと古くからあったように見える。戦後の焼け跡から間もなく建てられたのではないだろうか。
策の池から、崖の上に建物の北側が仰ぎ見える。

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宮さ和。新宿区荒木町6。2002(平成14)年5月6日

車力門通りのクランクの少し南から横丁を東に入ったところにあった「宮さ和」という、料亭のような構えの店。たぶん元は正統な料亭だったのだろう。看板には「割烹」とあり、ネットでは「料亭」「板前割烹」「日本料亭」「日本料理店」といった肩書が付いている。今は建物はそのままで「赤坂 光楽亭 串揚げ処」に替わった。
パクパク日記08 3月2週』では、宮さ和は1968(昭和43)年頃の創業としている。まだ花街として繁盛していた頃かと思う。花街を返上したのは昭和50年代末という。
光楽亭の開店は2010(平成22)年11月なので、宮さ和が廃業したのも2010年かと思われる。
宮さ和の隣はやはり料亭のように見える「わかまつ(若松)」。こちらも建物はそのままで、「柳庵(りゅうあん)」という日本料理屋に替わっている。


日本家屋。荒木町6。2002(平成14)年5月6日

1枚目写真で右奥の角を曲がったところ。料亭のような家があるが、今は「四谷フラッツ」(2007年2月築、6階建て14戸)という小さなマンションに替わった。

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うめ家石材店。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

八柱霊園正門から北へ伸びる参道の、二つ目の四つ角の角にあるのがうめ家石材店。そのHPによると、創業は八柱霊園開園と同じ1935(昭和10)年で、現在の店主は四代目。建物もその当時のもの。



大野家石材店。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

うめ家の右(南)がオンダ酒店で、その右が大野家石材店。この店も八柱霊園開園と同時に創業した。伝統的な日本家屋の二階建ての家だが、数多い付近の石屋の店舗の中では、意外と少ない形式の建物だ。2階は会食用の座敷。

下の写真のまる家石材店はうめ家の角を東へ一歩入ったところにある。


まる家石材店。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

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松戸屋。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

松戸家株式会社は八柱霊園正門から北へ、参道のようなケヤキ並木の通りを行って、最初の四つ角の角にある石屋。HPによると明治27年に伊勢で創業。昭和7年に松戸市に移転してきた。そのときの店舗がHPの写真にある「旧社屋」で、現在の「新社屋」は新たに建てた店舗かと思われる。あるいは旧社屋を立て直したのだろうか?
店舗の横に古い形の郵便ポストがある。墓なのかどうかは知らないが石造りのもので、「大幅値引き!」で売っている。



鹿の子家。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

松戸家のある同じ四つ角の西南角の鹿の子家石材店。『八柱霊園と周辺施設>鹿の子家石材店』に、「昭和15年に創業」とあった。
ストリートビューを見ると、家は取り壊されて空き地になっている。SVから、取り壊されたのは2015年5月から2018年8月の間である。店舗を建て替えるのだろうか? あるいは廃業?

霊園前に「石屋街」というほど石屋が集中することは珍しいに違いない。広大な八柱霊園だから開園後しばらくは墓石の需要はいくらでもあったのかもしれない。現在では不要に石屋が多いように感じてしまう。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年、1905円)には「今日参道に見られる組合員39軒を数える石屋の林立する街が形成された」とある。

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玉川石材株式会社。松戸市河原塚。2005(平成17)年3月30日

都立八柱霊園の正門から北へ、ケヤキ並木の通り(参道)が伸びていて、両側に石材店が立ち並んでいる。普通は「石屋」と言っていると思う。墓石を作るほかそれに関連したサービスを提供するところだ。八柱霊園は昭和10年の開園だから、それに合わせて店を出した石屋が多いかと思う。建物も古いものは昭和10年頃に建てられたとみていいだろう。
玉川石材は八柱霊園正門のすぐ前にある。そのHP には明治23年の創業とある。店舗は八柱霊園の一つだけのようで、昔からこの辺りでやってきたのかもしれない。



玉川石材部。2005(平成17)年3月30日

1枚目写真の右手前、八柱霊園正門前のロータリーに向いた位置に建っている、「玉川石材部」の看板がある建物。墓石を作る工房だろうか。

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八柱霊園納骨堂。松戸市田中新田48。2005(平成17)年3月30日(4枚とも)

「八柱」は意味からいうと「谷・端・等」なのだという。「やはしら」か「やばしら」かで迷う。新京成八柱駅は「やばしら」、武蔵野線新八柱駅は「しんやはしら」。昔の「八柱村」からきているわけだが、ウィキペディアでは「やはしらむら」で、それが正しいようだ。今言われる「八柱」は「やはしら/やばしら」としているからどちらでもいいのだろう。言いやすいので「やばしら」が優勢になってきているかと思う。
住所の「田中新田」が妙である。八柱霊園は台地の上に広がっていて、水田などは昔からなかったと思われる。台地の三方を囲むような谷あいの水田を指したのだろうか? 畑でも新たに開拓した土地は「新田」だったのかもしれない。
八柱霊園になる以前は「田中山」というのが通称だったという。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年、1905円)によると、『松戸市史 資料編(5)』からの引用として「この地は幕府直轄領だったのを行徳の田中三左衛門が享保年間(1716~36)に開発・所有したところから田中山の名で呼ばれた」「幕末大山火事にあい復興ならず紙敷の湯浅宇右衛門の所有になり、そして地主は大正9年(1920)末現柏市花野井の吉田甚左衛門に移り、昭和6年10月東京市営公園墓地に決まって73町3反3畝10歩を買収された」とある。



八柱霊園納骨堂南側面

東京都立八柱霊園は昭和10年7月1日の開園。その当時の建造物である納骨堂、正門、噴水、給水塔などが残っている。中央通りのコンクリートアーチ橋もあるいは。
納骨堂は『日本近代建築総覧』では「八柱霊園納骨堂、松戸市八柱霊園内、建築年=昭和10年6月、備考=東京都の管理 聞込みによる」。
千葉県近代建造物実態調査報告書>22 八柱霊園納骨堂』によると「竣工年:昭和10年、所有者:東京都、設計・施工者:不明、構造:RC、外壁:タイル張り、屋根形状・葺材:宝形造,瓦棒鉄板葺、建築規模:187.1㎡(増築部含む)」。北側の平屋部分が昭和47年の増築によるもの。
東京都八柱霊園案内図』では「やはしら」とふりがなをふって、「昭和12年に納骨堂を開設」とある。



噴水と給水塔

正門を入るとフランス庭園風の広場で奥に噴水、さらに奥の階段を上ったところに宝塔形の給水塔が建つ。階段下の庭園は小さな谷になっていて、階段が谷の突き当り、正門が谷の出口に当たる。墓地は台地の上に広がっていて、正門前の広場からは周りが高いから墓地は見えない。地形を利用した見事な配置である。

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田口洋服店。松戸市松戸1730。1989(平成元)年4月2日

当ブログ前回の宮田染物店から北へ数軒置いた並び。「角町(かどちょう)」と言われる地区で、街灯には「角町下横町商店会」のプレートが付いている。写っている3軒とも、今は建て替えられている。
田口洋服店は服を吊るして売っているような店には見えないのでテーラーだろうか? 建物は蔵のように見える。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年、1905円)の「昭和12年の家並み図」では「大黒屋履物店」で、その解説では「東京に移転」となっている。
田口洋服店から北へ250mのところに「相幸酒店」がある。その南の駐車場になっているところが、『昭和の松戸誌』では「田口洋服店」である。解説に「昭和13年角町に移転、8年前(1997年頃)廃業」とあり、その移転した店が写真の店と思える。
写真左の商店は「伊勢屋商店」。『昭和の松戸誌』では「荒物雑貨店。三代目。健在」。今は住宅に建て替わっているが、表札は「伊勢屋」になっている。

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