ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





東京大学附属病院内科研究棟、南側正面
文京区本郷7-3。1988(昭和63)年11月6日

龍岡門から入って構内の通りの一番奥が第二食堂の前のロータリー。その手前に東の池之端門の方へ通りが通じていて、その通り沿いに第一研究棟、内科研究棟、東研究棟の3棟の内田ゴシックの建物が並んでいる。
内科研究棟は1929(昭和4)年に完成したらしい。中庭を持つ口形平面の3階(中央部4階)建て。「犬小屋」と通称されるポーチ(入口)が4カ所ある。ジョサイア・コンドル設計の旧法文校舎に用いられていた意匠で、コンドルへのオマージュだろうという(東大新聞オンライン>内田ゴシックの特徴を見る)。
1974(昭和49)年の住宅地図では、北側部分に「内科講堂、東京大学放射性同位元素総合研究所」、南側部分に「放射線科及内科病棟」と書き入れてある。

2016年に解体され、その跡地に「臨床研究棟A」(2015年Ⅰ期、2019年5月Ⅱ期完成、9階地下2階)が建設された。



内科研究棟、東-北側。2012(平成24)年4月28日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





東京大学附属病院。文京区本郷7-3。2007(平成19)年12月15日

東大病院のファサードは全長250m――南の入口から南側に、1993年に「新外来診療棟」が建って少し短くなったが、その建物もわりと低層でファサードのデザインを揃えている――という巨大建築だ。長く連続するファサードの裏は2棟の建物に分かれている。
中央に7つの尖頭アーチが並んだ車寄せの正面玄関がある4階建ての建物が、現在は「管理・研究棟」という建物。両端に、中庭さらにその奥の病棟への入口(上部にレリーフを施した壁を持つ塔屋のような造り)が付いている。
『日本近代建築総覧』(1980年)に「東京大学附属病院事務局・薬局・外来診療所、建築年=昭和6~9年、構造=RC3階建」とある建物だろう。設計者は勿論内田祥三。



管理・研究棟。1988(昭和63)年11月6日

北側の入口の上の壁に施された浮彫は「長崎時代」。日名子実三(ひなこじつぞう1893-1945)という彫刻家の作品。東京美術学校を首席で卒業、朝倉文雄に師事した。宮崎市平和台公園に「平和の塔」(皇紀2600年の奉祝事業として建てた高さ36.4mの記念碑。八紘一宇の塔)が残る。
南側入り口の浮彫は「医学の診断、治療、予防」は新海竹蔵(1897-1968)という彫刻家による。新海は総合図書館正面玄関の列柱の上と3階ホール壁面に12点の浮彫を施している(『東京大学本郷キャンパス』東京大学出版会、2018年、2800円+税)。



管理・研究棟。左:1988(昭和63)年11月6日、右:1989(平成元)年9月10日

左写真は管理・研究棟の南側入り口を中庭から撮影したもの。
右写真は北側入口を入った中庭で撮ったものと思われる。



第1研究棟。1988(昭和63)年11月6日

管理・研究棟の北の入口から北側の3階建ての建物が、現在は「第1研究棟」。撮影時は裏が駐車場になっていて、そこから撮った東面と「内科講堂」につながる部分。
かつては「内科病室」(『東京大学本郷キャンパス』掲載の1936年の地図)、「内科病棟」(1974年の住宅地図)、「内科研究棟」(1986年住宅地図)となっている。『総覧』の「東京大学附属病院内科病室・伝染病室、小児科研究室他、建設年=大正15~昭和7年、構造=RC3階建」だろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





熊重酒店。埼玉県川越市幸町8。1989(平成元)年9月18日

一番街と鐘つき通りが交わる三叉路が「時の鐘入口」交差点で、その角にあるのが「熊重酒店」。建物は「滝島家住宅」として昭和56年に川越市指定有形文化財になった蔵造りの店舗に住居部分が付いたもの。
東武鉄道>時代旅行』によると、「明治28年(1895)〈11月〉に2代目滝島重蔵(たきじましげぞう)によって建てられた。店蔵は間口3間、奥行3間の2階建てで切妻造り」。屋根を構成する箱棟や鬼瓦とその内側に置かれる影盛(かげもり)がおとなしいので、それなりに重厚なのだが「派手さを抑えた落ち着いた造り」などと言われる。横の壁や窓の扉に銅板を貼っているのが他に見ない特徴だ。
現在も酒店として観光客に対しても相応の対応をして盛業のようである。



鐘つき通り。左:熊重酒店、川越市幸町8。右:近長、幸町6。1984(昭和59)年5月4日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






陶舗やまわ、宮岡刃物店
埼玉県川越市幸町7
1989(平成元)年9月18日

一番街に長喜院(ちょうきいん)の参道が入っている角にあるのが「陶舗やまわ」。隣の宮岡刃物店とともに「蔵造りの町並み」の中心になっている建物だ。大通りに向いた店舗の店蔵の裏、参道沿いに住居、土蔵(甘味処の「陶路子」など4棟がありそう)が並ぶ。蔵造りとしては入母屋屋根が変わっていると思ったが、川越ではマツザキスポーツ店などもあり、特に珍しいわけでもないらしい。
明治26年5月に建てられたとしているサイトがあったが、川越大火は明治26年(1893)3月17日。2・3ヵ月で建てられるものだろうか?「原家住宅」として昭和56年に市指定有形文化財になっている。『陶舗やまわ』には「現存する入母屋形式の土蔵造りとしては日本で最大級の規模です。5つの観音開きの窓を持ち、4段の厚く長い軒蛇腹の上に大きな千鳥破風が南面しています」とある。山本平兵衛という人が建てた呉服屋だった建物という。

「宮岡刃物店」もやまわと同様に重厚な蔵造りの店蔵だ。明治30年の建造なので、屋根などはやまわより一段高くと決めたのかもしれない。「宮岡家住宅」として昭和56年に市指定有形文化財になっている。創業は天保14年(1845)。屋号は「町屋(まちや)」で、通称が「まちかん(町勘)」だという。

追記(2022.11.05)
『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)によると、陶舗やまわの建物は、1893(明治26)年に呉服商の足立屋山本平兵衛が建てたもの。1924(大正13)年の『川越案内』に広告が載っているので、昭和になってからと思うが、足立屋は撤退し、以降様々な業態の店が入ったらしい。1957(昭和32)年に現家主の先代が購入した。

「まちかん」では「お店でいただいた案内」の写真が載っているので以下に書き写してみた。
   鉄物砥石ノ部 
    町勘(マチカン)鉄刃物商
此ノ店、屋号ヲ町家(マチヤ)ト称シ、主人ヲ勘右衞門トイフ。抑々(ソモソモ)、明暦ノ頃ヨリ代々酒造業タリシガ、天保十四年、七代目町屋正兵衛ニ至リテ祖業ヲ廃シ、刃物店ヲ開業ス。当主常ニ刃物ノ吟味ニ精励シ、夜半枕頭ニ剃刀(カミソリ)ヲ合ワセルコト久シ、終ニ積年苦心ノ末刃物ノ奥義ヲ悟ル。爾来数年ヲ経ザルニ、販売スルトコロノ刃物、古今無双ノ切レ味ヲ以テ天下ニ相顕レ、即チ刃物百般ノ信ヲ得タリ。過ル明治二十六年、未曾有ノ大火ヲ蒙ルト雖ヘドモ、忽チ漆黒ノ土蔵造リヲ新築ナシ旧ニ倍スル隆盛ノ店トハナレリ。本店ハ
  川越南町西側ニアリテ
大宮・浦和・三河島ニ支店ヲ設ケ、現時川越町ニ名高キ刃物店トイフベシ。


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





深善美術表具店。埼玉県川越市幸町7。1984(昭和59)年5月4日

「フカゼン」の看板の店、ということで印象的な建物であり、一番街とかねつき通りの交差点という位置にあるので、川越観光に来た人が見ずにすませるのは不可能である。
建物は明治28年に建てられ、「小谷野家住宅」の名称で、昭和56年12月に市指定有形文化財になった。店蔵としては2階の開放的な窓が特徴。普通は壁を厚くして、そこに小さな金庫の扉のような観音開きの窓を設けるのだが、防火を犠牲にしても明るい部屋を求めたということだろう。建物の両端に付けたうだつはそれを補うためという。太物の卸問屋「山仁商店」を営む高山仁兵衛という人が建てた建物。
小谷野(こやの)家に替わったのはいつの頃なのだろう。「フカゼン」は「深屋善兵衛」に由来する。1738(元文3)年創業の掛軸と額縁を製造販売する店。
今も1階庇の上の横長の看板は写真のものが置かれているが、その上に張り出していた「FUKAZEN &Co.」の袖看板がなくなっておとなしい構えになった。



深善美術表具店。1984(昭和59)年5月4日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





冨士屋。埼玉県川越市幸町7。1989(平成元)年9月18日

甘味処の冨士屋から一番街を北向きに撮った家並み。「鳴海印刷」の看板の右が「蔵造り資料館」。
冨士屋の看板には「自慢焼 中華そば、小倉アイス」が読める。自慢焼きというのは今川焼のこと。現在は寺子屋グループの「茶和々」という抹茶スイーツの店に替わった。その店のオープンは2014年9月だが、その直前まで富士屋は続いて来たらしい。
冨士屋の右は仕舞屋のようだが、今は「菓匠芋乃蔵」という和菓子店が2010年6月に開店した。その右に幅2間くらいの平屋の家があって、それが「鳴海印刷」。今は2012年1月に開店した「荒井武平(ぶへい)商店」という自社で醸造した味噌を売る店になっている。



銀パリ、太陽堂書店、冨士屋。川越市幸町7。1984(昭和59)年5月4日

理髪店の銀パリと太陽堂書店が入るのは、川越市指定有形文化財(1981年指定)の「平岩・水飼家住宅」。明治26年に建った「蔵造りの意匠を施した町家建築」。「正木屋」の屋号で「糸繭製茶煙草問屋」の家だったという。糸繭・製茶・煙草と切るのだろうか、地元の作物を加工するような業務を営んでいたと想像できる。
太陽堂は今は和装小物店のような店頭になっているが、創業昭和10年(1933年)の書店であると貼紙がしてある。銀パリは昭和41年に開業したというから、こちらもすでに老舗だ。

追記(2022.10.30)
銀パリと太陽堂の前面は大きな日よけのテントと窓が2つの垂直な壁で、本来の蔵造りの外観を隠している。冨士屋も同様だ。『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)によると、昭和30年代に入ると、蔵造りの外観は古くさくてよくない、というイメージが一般に広がり、蔵造りの建物の前面を改装して最近建ったかのように見せることが行われた。太陽堂は1階庇の上に増築して、看板建築風に改造した。昭和31・32年頃のようだ。元に戻す改修工事をしたのが1986(昭和61)年。その際、2階の格子窓は通りがよく見えるように横長のガラス窓に変更した。現在は本屋とは見えない店先だが、川越に関する本棚が充実しているという。
本書によれば、銀パリは1963(昭和38)年の開業。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )





蔵造り資料館。埼玉県川越市幸町7。1989(平成元)年9月18日

1893(明治26)年の川越大火の後に建てられた蔵造りの商家。店舗を蔵造りにした「店蔵」と呼ぶものだ。当時「万文(まんぶん)」の屋号で煙草卸商をしていた四代目の小山文造が建てた。万文は川越でも有数の豪商だったという。刻み煙草の製造販売、「天狗煙草」の販売などをしていたが、明治37年に煙草が専売制になり、煙草問屋に転じる。それがいつまで続いたのか、『川越市蔵造り資料館』ではよく判らない。
建物は『旅に行き隊!>川越市蔵造り資料館について』によると、通りに面して店蔵と袖蔵があり、その裏に2階建ての住居と一番蔵(文庫蔵)、さらに奥に二番蔵(煙草蔵)と三番蔵(文庫蔵)という構成。袖蔵は貸店舗だったかもしれないともいう。川越大火は明治26年(1893)3月17日だったが、資料館は早くも同年12月には完成した。なお大火の火元は資料館から北西に百メートルのところだった。

現在の一番街が観光地として賑わうようになった大元が資料館の開館といっていい。資料館に人が来るようになったというのではなく、蔵造りの町並みが見直されるようになる契機になったということだ。
高度経済成長は経済活動の改革でもあり、成長どころか衰退していった町も多いと思う。交通の中心が鉄道になるとともに、駅から遠い一番街は衰退が始まったかと思うが、流通の形態が変わってくると、明治期の商売ではなりたたない。個人客相手の商売に替わろうとしても人が来ない。1970年代になると一番街はだいぶ寂しくなってしまったようだ。
1971年(昭和46年)に小山家の屋敷は民間企業の不動産部が所有して競売に出された。このままでは蔵造りの町並みの一角が崩れてしまうわけで、商店街や地元の住民が動いた結果、1972年に川越市が買い取ることになり、後に資料館として整備された。開館は1977(昭和52)年10月。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






運送荷扱所。中央区築地5-2
2018(平成30)年2月17日

新大橋通りから築地市場正門を入ると、すぐ北に向いた広い通路があるが、その角にある2階建ての建物。「運送荷扱所」という建物名称と、1階では荷物の搬出作業をしている様子から、市場で仕入れた商品を行先別にトラックに積み込んで外へ送り出すための施設かと思われる。2階は運送会社の事務所なのだろう。
建物西側(2枚目写真)の看板は「東海汽船永井扱所、東京都市場運送㈱、東京都中央卸売市場輸送協力会、株式会社両丙平友、中央運送株式会社」、南側(3枚目写真)は「丸発、株式会社東発」。


運送荷扱所。2018(平成30)年2月17日



10号館。2018(平成30)年2月17日

運送荷扱所の奥に並んでいる建物。「魚がし横丁」の1棟である。店は「磯寿司」、その2階に「磯野家」(カキフライが有名らしい)、「富士見屋」(日本そば)、「すしまる」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





築地市場4号館。中央区築地5-2。2017(平成29)年7月15日

東卸会館の向かいに建つのが「4号館」。水槽が目立つが、4号館の後ろに並ぶ5~9号館も使うものなのだろうか? 4号館には「文房具/包装資材 ㈲かみむら」と「築地のハカリ/㈱築地計機製作所」の看板が見える。裏側には「うまい鮨勘」(築地市場支店)がある。
4号館の右隣は、写真では切れてしまったが、6号棟(共同水産株式会社)。
4号館と6号棟はともに昭和30年頃に建てられて、建て替えられずに残ってしまったという感じだ。




築地市場5~9号館
上:2017(平成29)年7月15日
左:2018(平成30)年2月17日

団地のアパートのように同じ3階建てのビルが並んでいる。「魚がし横丁」になる区域で、1階に飲食店が集まっている。それも主に6号館と8号館に集中しているようだ。
昭和38年の航空写真では同じ位置と大きさで建物が並んでいるが、切妻屋根なので木造2階建ての建物らしい。それらを1970年頃にフロアを増して建て直したものと思われる。



築地市場8号館。2018(平成30)年2月17日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






築地市場4号棟。中央区築地5-2
上(正面):2017(平成29)年7月15日
左(上の写真の左横):2018(平成30)年2月17日

新大橋通の市場橋門から市場に入って、真っ直ぐ海幸橋門の方へ向うと水神社の手前に東卸会館という3階建てのビルがある。写真の建物はそのビルの手前にある。「4号棟」の名称は、市場の建物の壁に貼ってあった喫煙場所を示す地図を見ているが、それに「4号」とある。「4号館」という建物が別にあるので「4号棟」としておく。
昭和30年頃に建てられたと思われる卸売業者や加工所を収める木造2階建ての建物。建物右奥に「三輝株式会社」の看板があるが、1986年の住宅地図には「近藤食品」とある。1979年の地図では「泉久加工所、足立商店、中島水産、近藤食品」の4社。


山原寿司。2018(平成30)年2月17日

東卸会館の裏にある建物。4号棟と同じ時期に建てられた建物のようだ。「山はら」の看板が架かり、鮨の字が書かれた暖簾が見える。
東卸会館を撮るのを忘れた。その1階は「東京いちばステーション」の名前で豊洲への移転を紹介した会場になっていた。かつては1階に「東卸食堂」があった。『春は築地で朝ごはん>東卸食堂』にレポートされている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ