ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




時田輪業。足立区西新井本町5-12。2005(平成17)年1月17日

本木新道の足立西郵便局の辺りに、古い二軒長屋がわずかに残っている。本木新道は古い街道のようなものだから、それに沿って建つ商店なども戦前からのものが残っていそうなものだが、今は10軒あるかどうかといった程度のようだ。
「時田輪業(時田モータース)」の長屋は、元は三軒長屋だったのを左の1軒が建て替わったものらしい。今は瓦屋根が葺き替えられている。その右にかつては二軒長屋が4・5棟並んでいたようだが、その1軒が残っている。後ろのマンションは「秀和西新井レジデンス」(1982年3月築、11階建て192戸)。



双葉屋、内海理髪店。西新井本町5-12。2005(平成17)年1月17日

1枚目写真の右に続く家並み。麺製造小売りの「双葉屋」は二軒長屋で、右側を看板建築にしている。「内海理髪店」は一戸建ての家だろう。横の路地に向いて居酒屋「じゅんちゃん」の店がある。
この床屋さんは『 Kai-Wai 散策>内海理髪店』で取り上げられている。店のご主人に取材していて、昭和30年頃の開店という。「この店も来月(2006年9月)廃業」、建物は「震災にも戦災に耐えたと聞いている」という店主の言葉が記録されている。
写真の2棟が取り壊されたのはストリートビューから、2016年頃らしい。

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アイスクリーム屋。足立区西新井本町5-9。2005(平成17)年1月17日

環七通りの西新井大使前交差点から本木新道に入って430m南の西新井小学校の向かい側。写真の店はアイスクリームを売っているということしか分からない。建物中央辺り、ガラス戸越に見える文字と右の幟は「たい焼」だろうか? 昭和22年と38年の航空写真を見比べると別の建物に見える。入母屋屋根の家は戦後、二軒長屋を建て直したもののようだ。現在は3階建ての小さなマンション風のビルに建て替わっている。

本木新道は尾竹橋通りの西を、ほぼ平行に走る裏通り的な道路に見えるが、昔は千住方面との主要な道路だったと思われる。戦後順次埋め立てられたり蓋をされたりしていったらしいが、「本木堀(もときぼり)」という農業用水の流路に沿った道だった。
『川の地図辞典』(菅原健二著、㈱之潮(コレジオ)、2007年、3800円+税)によると、本木堀は「見沼代用水東縁(ひがしべり)用水から榛ノ木(はんのき)橋付近で分れ、伊興村(いこうむら)の西部を流れて西新井町に入る。……その後、栗原町、興野町(おきのちょう)の西を経て本木方面へと流れ、用水の東部地域の耕地を灌漑した。水路は周辺の住宅や工場の増加などによって排水路=下水化し、現在は暗渠化されたり埋立てられて道路などになっている。」

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静香園。足立区西新井栄町3-8。2005(平成17)年1月17日

環七通りの西新井大師前交差点から南へいく通りを「本木新道(もときしんどう)」という。その通りにはいるとすぐに写真の「西新井三栄商店街」の通りとの交差点がある。その角に波トタン貼りの看板建築があった。今は1階が不動産屋の3階建ての住居ビルに替わっている。2010~13年頃の変化である。看板建築にした二軒長屋のようだから昭和初期の建物かと思うが、今はもう近辺に昭和初期と決めていいような建物はまったくない。
建物の正面1階中央に三角柱の看板があって、その2面に「静香園」という字が、消えかかってはいるが残っている。日よけのテントも2軒で同じだから、建物1棟を静香園が使っていたのだろう。「園」がつく店はというと普通はお茶屋だ。

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たぐち湯。足立区西新井6-3。2007(平成19)年1月27日

写真左端に鳥居が写っているのだが、環七通りの西新井大使参道交差点から西へ250mほどのところの北側にある「西新井浅間神社」。境内に「富士登山記念碑」があり、本殿の土台は富士塚の跡とも言う。
たぐち(田口)湯は1955(昭和30)年の開業(西新井・たぐち湯)で、建物もその時に建ったものだろう。なぜか、昭和38年の航空写真には写っていない。ずいぶんと大きな伝統的な外観の銭湯だったようだ。昭和30年頃には周囲に長屋風の借家が数多く建つようになり、銭湯の需要が急増したのかもしれない。2008年11月3日で廃業した。
写真手前の空き地は、今は建売住宅が立ち並んでいる。たぐち湯も住宅8棟に替わった。

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平屋の借家。足立区西新井1-1
2007(平成19)年1月27日

東武大師線の大師前駅の南がバス停・車庫で、そこと環七通りとの間にあった民家。写真奥に高架駅の屋根と電車が写っている。
写真には平屋の民家が2棟写っているが、それらの取り壊しが始まっていた。右には工事の囲いが写っているが、同じような民家が取壊し中。昔の航空写真を見ると、大きさはそろっていないが同じような民家と思われる家が10棟あまりかたまっている。借家としてまとめて建てられたような感じだ。



1枚目写真奥の家。2007(平成19)年1月27日

現在は、1枚目写真の民家の右の通路はそのまま残り、その道から左(西)は「アコレ」が入る低層のビル、右は「ファーストレジデンス西新井」(2008年11月築、14階101戸)というマンションが建っている。

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大崎荘。台東区橋場2-11。2019(平成31)年4月13日

当ブログ前回のTSシューズの前を東へ、行ったところ。1986年の住宅地図に、後ろの2階建ての2棟も含めて「大崎荘」、右の空き地は「荒木アコード」と記載されている。建物は戦後まもなくの建築かと思われる。アパートには見えず、工場だったと思われる外観だ。はたして、1966年の地図では「萬代ゴム工業所」となっていた。



二軒長屋。橋場2-11。2019(平成31)年4月13日

大崎荘の右に建っている二軒長屋。右のビルは三軒長屋だった端の1軒が建て替わったものだろう。長屋の左の1軒に「アクセサリー加工(ロウ付・ハンダ付)河野」の表札が出ている。

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サトートーイ、TSシューズ。台東区橋場2-11
2019(平成31)年4月13日

岩美屋の南を東へ入った裏通りとの角。角の家は二軒長屋のようにも思えるが、入母屋屋根で玄関が一カ所なので、一戸建ての商店か家内工業所として建ったものだろうか。「サトートーイ」の名称は1986年の住宅地図から。
角から2軒目の3階建ての家は、ガラス戸に「株式会社T,Sシューズ」とある。周辺の地場産業だった皮革製造業に関連するのかもしれない。1966年の住宅地図では「岩田製作所」。3階部分は増築したものなのか、3階建てに建て直したのか判断に迷う。横の路地を北へ入ると宮本紙器のところに出る。

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岩美屋。台東区橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

大富商事の南で、写真左奥が大富商事。写真中央にトタン葺き看板建築の二軒長屋が残っている。写真右は看板に「和菓子製造販売」とある岩美屋。建物は日本家屋を看板建築にしたものだが、建物本体も看板建築の造作も戦後のもののように思える。前面下部を石貼りにしていて、小売店の体裁なのだが、ネットには出てこない。廃業したのだろうか?



三軒長屋。橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

岩見屋の南の横町を東へ入って、裏通りとの角が写真右の3階建ビルの民家。ビルの左に看板建築の二軒長屋だったらしい民家と長屋風日本家屋の一戸建て、と見えるが航空写真で見ると、看板建築と一戸建ては三軒長屋になるらしい。右のビルも含めて元々は四軒長屋だったのだろうか。



和光。橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

2枚目写真右の角を曲がった裏通り。三軒長屋と二軒長屋が並んでいる。写真左端の1軒は2階の前面が物干し台だが、他の4軒はその部分を増築して部屋にしている。
奥の二軒長屋も2018年に右端の1軒が取り壊されるまでは三軒長屋だった。「和光」の看板のかかる1軒の右に、裏の長屋へのトンネル状の通路がある。

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二軒長屋、大富商事。台東区橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

写真の通りは明治通りの清川二丁目交差点から南へ入る都道314号で、富士の湯の南の街区になる。二軒長屋と看板建築の「大富商事」が並んでいる。2棟とも戦前からある建物ではないかと思う。大富商事は包装梱包資材の問屋のようだ。
大富商事の横に路地が入っていて、下の写真はその路地にある平屋の長屋。四軒長屋くらいの長さの長屋が2棟縦に並んでいる。Googleマップの航空写真を見ると、一番奥に屋根に瓦が残り原形がかなり残っていると思われる2軒があるのだが、路地は奥で行き止まりのようだから入りづらい。



平屋の長屋。橋場2-10。2019(平成31)年4月13日

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ろ過室。中央区築地5-2。1990(平成2)年4月7日

築地市場敷地の東南角にある海水の濾過装置。主に床の洗浄に使う。2017年3月17日に、その配管が漏水した。そのニュースがYouTubeにあり、そこに「1961年に整備された」とあった。装置は築地市場が閉鎖されるまで残っていたが、水道水に切り替えたというから、配管は修理しなかったような気がする。



第四卸売場。2000(平成12)年1月14日

写真右奥にろ過室が写っている。築地市場敷地の東南角から隅田川に沿って建っていた建物。柱だけの部分が水産卸売場で、左に長く伸びていたと思われる。奥に事務所が入っている。「第四卸売場」は1986年の住宅地図による。1979年の地図には「鮫せりば」となっている。
赤い日よけが食堂のように見えるが、解体前は「淡水魚」の文字になっていて、その右に「食堂入口」「東京魚類容器株式会社」。

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