牛久シャトー本館。茨城県牛久市柏田3612。2005(平成17)年12月13日
神谷傳兵衛は「蜂葡萄酒」と「神谷バー-電気ブラン」が有名で、洋酒がよほど好きだったのだろうか。『牛久シャトー』によると、子供の頃に酒造家の裕福な暮らしを見て、将来は自分もと思ったらしい。横浜の洋酒醸造所で働くようになる。病気になったときに、葡萄酒を飲まされて全快した経験が決定的だったようだ。1886(明治19)年に、輸入した葡萄酒を甘くした「蜂印香竄(こうさん)葡萄酒」を売り出して成功する。次に考えたのは、ブドウ栽培からワイン醸造までの一貫生産で、今までとはレベルの違う事業である。
神谷は小林傳蔵を婿養子として迎え、1894(明治27)年に彼を研究のためにフランス・ボルドーへ留学させる。小林傳蔵は優秀な人で、2年間でブドウ栽培やワイン醸造法を習得して帰国する。
1893(明治31)年には茨城県稲敷郡岡田村(現・牛久市)に23町歩(最盛期には160町歩、栽培面積40町歩)の「神谷葡萄園」ができあがる。1901(明治34)年3月に「牛久醸造場」の建設にかかり、1903(明治36)年9月に完成する。小林傳蔵が中心になって建設したように思われる。
「牛久シャトー本館」は、『国指定文化財等DB>シャトーカミヤ旧醸造場施設』の「事務室」で、1903(明治36)年竣工、煉瓦造2階建、「設計は、岡田時太郎が率いた岡田工務所で、シャトーカミヤの設計担当は、この時期に住所を岡田時太郎方とした森山松之助と推測される」とある。普通は岡田時太郎として森山松之助の名前は出てこない。
「事務室」とはいえ、迎賓館として建てられたと思われる。フランス・ルネサンス風の洋館。
『近代建築再見[上巻]』(山口廣+日大山口研究室著、㈱エクスナレッジ、2002年、1400円+税)に以下のような外観についての記述があるので引用してみる。「外観は付け柱(ピラスター)がなく装飾は簡素。1階中央のアーチとその上の三角破風(ペディメント)、傍の塔が大胆で華やかで外観をまとめている。入口アーチは中央より少し右にずれ、窓の配置も左右対称ではない。左右の端に腰折屋根(マンサード・ルーフ)を載せ外観全体をひき締めている。細部を描いていくと、軒の出の深い庇、2階の窓台、その下の腰蛇腹(コーニス)と3本の水平線が建物全体をめぐり、窓枠と窓桟の垂直線と調和(バランス)をとっている。」。
『近代建築再見』には、神谷が酒税法改正のために、シャトーに政治家・役員・文化人を招いて視察・試飲してもらった、という推測が述べられている。
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