ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




三谷家住宅。千葉県佐倉市弥勒町(みろくまち)186。2002(平成14)年5月5日

旧成田街道の、鈴木金物から西へ100mほどのところにある商家。2001年に佐倉市登録有形文化財に指定された。『佐倉市>三谷家住宅』によると、「江戸時代からの呉服太物を扱う老舗として佐倉に唯一残っている商家」。まだ商売をしているかのような言い方だが、どうもそうは見えない。店売りをしていないだけかもしれないが。「袖蔵の創建は棟札により明治17年(1884年)と判明し、主屋もその頃には建っていたと考えられる」。「主屋」は写真左の出桁造りの店舗。「座敷屋は昭和10年(1935年)位頃に建てられている」。座敷屋は主屋の後にあって、写真左手前の横丁に入ると覗ける。「いずれの建物も近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えが残されている」ということで、佐倉に残っている商家の中では最も大きい店構えが見られる。
三谷家住宅の旧成田街道の向かいに「三谷屋綿店」という大きな蒲団屋がある。三谷家と縁戚関係にあるのだろうか?



元商家。佐倉市弥勒町183。2002(平成14)年5月5日

三谷家住宅と横丁を介して並んでいる商家だったと思われる家。佐倉市登録有形文化財になってもよさそうな物件だが、詳細が分らないからだろうか。

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鈴木金物株式会社。千葉県佐倉市弥勒町(みろくまち)148。2002(平成14)年5月5日

鈴木金物があるのは旧成田街道(蘭学通り)の、佐倉順天堂記念館のある本町交差点から西へ350mのところ。鈴木金物のHP によると、「明治3年12月、印旛郡佐倉町に於いて、桐箪笥等の家具、建具等の製造販売そして、金物製品の販売を営みとして創業」し、今は「金物製品を中心とした生活用品や建築・土木資材販売」の会社。写真の店舗の左は蔵で、右には資材置場と建材の加工場がある。


民家。佐倉市弥勒町159
2002(平成14)年5月5日

鈴木金物の向かいにあった民家。今は建て替わって普通の住宅になっている。

成田街道は佐倉市では現在の国道296号とほぼ重なる。西から来ると佐倉城の北をかすめて京成佐倉駅の手前で南へ曲がり(市役所通り)、新町(しんまち)交差点で東へ(新町通り、蘭学通り)、クランクを経て順天堂記念館の前を通って東へ続いている。この辺りは台地に細かく谷が入り込んでいるのだが、街道は台地上の尾根を、谷に下りるのを避けるように通っている。江戸-佐倉藩の往還として整備され、成田山新勝寺へも延長されたように思われる。国道から外れる部分を「蘭学通り」としたのだろうか。明治以降はこの成田街道沿いに街が発展してきたようだ。戦前築の古い商家はほぼ成田街道沿いに点在して残っている。

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県立佐倉高等学校記念館。千葉県佐倉市鍋山町(なべやままち)18。2002(平成14)年5月5日

1910(明治43)年(授業開始は4月28日、落成式は11月10日)に「千葉県立佐倉中学校本館」として建設された校舎。現記念館が建つ前は佐倉中学は佐倉城追手門前にあったらしい。建設に当たって、最後の佐倉藩主堀田正倫(まさとも)から土地の購入費と建設費4万2千円が寄付された。
設計は久野節(くのみさお、1882-1962、東京帝国大学建築学科卒業、千葉県技師、後に鉄道省の初代建築課長)、後藤政次郎(詳細不明、棟札にあった名前と思われる)。『日本近代建築総覧』には竹川駒次郎の名前も載っている。施工者は『総覧』では島崎留次郎。
木造2階建ての建物の平面は東西に長く、西端で北側に突き出た部分がある。外壁はドイツ下見張り(板を横に張り、その合わせ目は目地にして面は垂直)。屋根は当初は石製スレート瓦葺。南側には縦長の教室の上げ下げ窓が並び、廊下は北側。中央の玄関周りは柱を外面に出した「スティク・スタイル」という様式。玄関両脇のドームを載せた塔と、中央の丸窓の屋根、大棟の換気塔が建物を特徴付けている。
1974(昭和49)年、新校舎が竣工し、「記念館」と改称した。記念館は管理棟(校長室、職員室、会議室、応接室、事務室、保健室等)として使用されることになる。2005(平成17)年に国登録有形文化財に指定された。



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芳野屋。台東区浅草2-29。1988(昭和63)年5月1日

花やしき通りの花やしき(遊園地)の門の向かいにある芳野屋は、ネットによれば大衆食堂で、ビールを飲みながら競馬中継のテレビを見ているおじさんたちが常連という店らしい。浅草寺にお参りに来る人の茶屋として開業したのだと思うが、浅草の場外馬券売場(ウインズ浅草)ができるとじきにそうなったのだろうと思われる。浅草の場外の設立は1963(昭和38)年で、浅草寺の裏にあったという。1967(昭和42)年に「新世界」の3階に、1969(昭和44)年には4階を借りて入居した。新世界の跡地に場外のビルが建ったのは1973(昭和48)年12月(『ウィキペディア>新世界』)。
時空を超える昭和遺産的大衆食堂|神林先生の浅草ランチ案内㉒』によると、「「芳野屋」創業者の上村(かみむら)吉太郎氏は、戦前は本屋やブロマイド屋をなさっていた。そして、妻の芳江さんは「上村美容室」をなさっていた」「東京大空襲で浅草のそういった店は消失してしまう。戦後、観音様(浅草寺のことを地元の方はそう呼ぶ)から焼失した商店に替地(かえち・代替地)が割り当てられた」「かくして1943年に「芳野屋」が誕生する。そして何と、吉太郎氏は物資が不足していた時代だったということもあり、釘を1本も使わずに、木材を組み合わせてバラックの店を自力で建ててしまった。それが今の店なのだ」。
22年ほど前に経営は2代目に移り、やがて店主も体を壊して土日の営業に変えて3代目が手伝うようになる。夏場はかき氷に行列ができるので平日も営業する、という具合で続けてきていたが、2021年9月末で閉店した。
写真に写っている建物は今も替わっていないが、残っている店はない。5月の連休の日曜日なのでなかなかの人出だ。2008(平成20)年に、「浅草花屋敷通り商店街」は、通りの建物を江戸城下町風のファサードに統一する改修を行った。花やしきの外観とも合わせて、同じ商店街と一目で分る工夫なのだろう。

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今半別館。台東区浅草2-2
2015(平成27)年12月8日

浅草仲見世の北の端に近い裏手にある有名なすき焼きの店。店名が新仲見世(浅草1-9)にある「今半本店」の支店かと思えてしまうが、1921(大正10)年に暖簾分けして、経営上の関係はない。
建物は2003年に国指定文の登録有形文化財に登録された。「北棟」「玄関棟」「南棟」と別個に登録されている。今半別館の建物は中庭を中心に3棟が配置され、仲見世の裏に向いた北西角に「ホール席」の建物がある。写真では玄関棟の正面しか分らないが、玄関の左が北棟、右の瓦屋根が見えるのが南棟で、玄関の後に中庭がある。
文化庁>国指定文化財等DB>今半別館玄関棟』の解説文によると、玄関棟は「入母屋造,桟瓦葺…入口脇に座敷2室を配す。狭い敷地を巧みに利用,老舗料理屋に相応しい構えを造る」。北棟は「2階建,正面入母屋造,東面切妻造,桟瓦葺で,1階に厨房,配膳室,事務室,2階に大小の座敷を配する。大広間の大床と飾棚による豪華な構成,次の間天井の鳳凰彫物など,宴会場の晴れやかな空間を演出する」。南棟は「2階建,切妻造,桟瓦葺で,敷地の関係からL字型の平面とする。1,2階とも片廊下に沿い客室を配し,1階東端には旧風呂場も残る。室内は各室とも座敷飾りを備え,天井,建具,欄間とも,銘木をふんだんに使い職人芸の粋を凝らす」ということで、建物そのものより建具や天井と欄間の彫り物などの豪華さが見物らしい。
長美喜三郎は本店で10年働いた後、大正10年に暖簾分けで三田に支店を出した。戦後、焦土の浅草に今半別館を建築する際、本店の「今半御殿」の再現を目指したらしい。関東大震災後に建てた今半本店は「今半御殿」と呼ばれるほどの豪華絢爛な建物だった(『出会いたい東京の名建築』三船康道著、新人物往来社、2007年、2000円+税)。

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娯座楼
静岡県浜松市中区肴町317
2019(令和元)10月7日

肴町(さかなまち)通りの中程にあった「娯座楼」という料理店。写真の建物は2020年に取り壊されて、店は2021年4月に建て直されたビルでリニューアルオープンした。
かなり古風な外観である。平らな屋根の屋上があるのでRC造と思える。1階正面は前に出ていて、その上はベランダ、その手すりの中央にモルタルの飾り板が付いている。タイル貼りの壁、2階の窓の縁取り、1階の浅い庇と持送り。
『日本近代建築総覧』に「植村紙店、肴町、RC2」というのが載っている。ヤフー地図に娯座楼の後に「㈱植村屋紙店」がある。そのさらに後が「植村屋ビル」という3階建で飲食店が数軒入っているビルである。『総覧』の植村紙店が写真の建物ということはないだろうか?

娯座楼の左にちょっと写っているのが「メルカートビル」で、看板の「メルカート マブチ」は酒屋。看板には「間淵商店」とも書いてある。この建物が令和3年に「浜松地域遺産」に認定された「間淵商店主屋」と思われる。『中日新聞2021.03.22』の地域遺産の記事に、「江戸中期から続く酒類販売店「間渕商店」が一九二七年に建てた本社ビルは、日本初の鉄筋コンクリート造りの商店を建設した竹中工務店(大阪)が手掛けた。重厚な造りの社屋の社長室には、シャンデリアやステンドグラスが当時のまま飾られている。」とある。外観はきれいなので普通に新しい建物と見てしまい、昭和2年建築とは思わず写真も撮らなかった。浜松市の空襲と艦砲射撃から残ったのなら、隣の娯座楼も同じく、と考えがいってしまう。


間淵商店主屋。浜松市中区肴町317。ストリートビュー(2019年7月)より

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林糀(はやしこうじ)製造所。静岡県浜松市中区肴町(さかなまち)316。2019(令和元)10月7日

肴町通りの中央の四つ角を東に入ったところに林糀製造所の出桁造りの店舗がある。『さかなまちドットネット>林糀製造所』によると、1882(明治15)年の創業という老舗だ。米糀、甘酒の素、糀味噌などを製造販売している。写真の店舗は昭和24年の建築。店舗の右の平屋とその奥の建物が製造所かと推測する。
店舗の裏は住居だろうか? そのさらに裏に1902(明治35)年に建てられた蔵が残っている。下の写真は裏の路地から見られる蔵。現在も米蔵として使っているという。路地に面した2階建コンクリート造の建物は戦後に増築した倉庫だろうか。


林糀製造所の蔵。中区肴町316。2019(令和元)10月8日

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三米(さんよね)商店
静岡県浜松市中区肴町(さかなまち)314
2019(令和元)10月8日

写真の通りは浜松市街を南北に通っている大手通り(国道257号)の東の裏通りで、肴町通りという商店街。肴町は『ウィキペディア』には「徳川家康が浜松城に在籍していた頃、六人の魚商が浜松城南側の榎門筋(現在の紺屋町通り)において棚を出し魚を販売すると共に浜松城の御用をつとめるようになると、魚屋の便を考えて家康の家臣、本多重次らによって大手門近くの東海道の裏通り(現在の本通り、肴町通り)に魚河岸を設置し魚屋だけの町を構えさせたのが始まりとされる。」とあって、歴史を誇る町名、地域である。戦前まで「三星魚市場」という魚市場があったという。今は飲食店の多い繁華街。

海産物問屋三米商店のビルを見たときは、戦前のビルが残っているのかと疑った。浜松市は「浜松地域遺産」を認定して顕彰・活用していく事業を始めた。三米商店のビルは令和2年に認定された。「三米商店主屋」の名称で「昭和 31 年建造の鉄筋コンクリート 3 階建てビル」である。前面上部のアーチと両端の柱の装飾、2・3階の窓の上下の装飾など、1956年建築とは思えない外観だ。1階は木の枠のガラス戸でRC造のビルではまず見られない造り。大正8年創業という。
右の3階建のビルは「丸喜屋商店」。店のHPによると、昭和27年に三米商店の小売り部門として独立した乾物屋。

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