ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



ホテルニュージャパン
千代田区永田町2-13
1989(昭和64)年1月4日

山王切通坂から撮ったホテルの裏側。ホテルニュージャパンが火事になったのは1982(昭和57)年2月8日で、解体されたのは1996年なので、撮影したのはその中間になる時期だ。
『ウィキペディア>ホテルニュージャパン』によると、建物はRC造10階建地下2階、客室は513室。Y字型平面のビルが3棟接続した複雑な構造である。どの客室からも外が見えるようにしたためだ。設計は佐藤武夫(1899-1972)。ホテルの開業は1960(昭和35)年3月22日。Y字型ビル2棟350室での開業らしい(ジャパンアーカイブズ>1960年)。

ホテルニュージャパンの地下にあったニューラテンクォーターの『ウィキペディア』の記述を見ていたら「最終的に廣済堂会長の櫻井義晃に売却された(1979年のことらしい)」とあるので驚いた。廣済堂という印刷会社を知っていたので櫻井氏(故人)の名前は聞いていたからだ。地味な印刷会社の社長がナイトクラブのオーナーになるとは! ゴルフ場も経営したというから、いろいろと手を出したのだろう。櫻井氏は児玉誉士夫と知り合いだったと聞いていたので、その関係で食い込んでいけたのかも知れない。

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赤坂プリンスホテル新館。千代田区紀尾井町1
1983(昭和58)年3月

「ウィキペディア」などを参照すると、赤坂プリンスホテルが開業したのは1955年10月1日で、旧李王家邸が使われたと思われる。1960年10月に5階建の別館が建てられた。それから20年が経って新館の建設が始まり、1983年3月7日に開業した。写真はちょうどその頃のものだ。
設計は丹下健三。39階建(地下2階塔屋付)で階段状の平面で、761室の全ての客室が角部屋になっている。
2001年に全面改装が行われている。2007年に「グランドプリンスホテル赤坂」と改称されたというが、あまり通用したようには思えない。「赤プリ」と言えばクリスマスの宿泊騒ぎと解体工事が話題になった。2011年3月31日でホテルは営業を終了、2012年6月から解体工事が始まり2013年7月に完了した。その後再開発が行われ、2016年7月に「東京ガーデンテラス紀尾井町」として開業した。

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居酒屋 まこ、BARABA。横浜市中区野毛町1-53。2010(平成22)年4月10日

当ブログ前回の紅屋菓子店(現カフェ バジル)の横を入ったところ。2階の壁面に洋風のレリーフを施した看板建築がある。ねじり柱、アーチとその中のエムブレム、縦長の上げ下げ窓。関東大震災復興期のものかと疑うほどだ。空襲で焼き払われる前は、こんな建物が普通にあって、それを再現したのだろうか。ストリートビューを見ると、「まこ」は2014年には看板がなくなっていて、2015年には「Go West 24」というバーが入った。

「BARABA」と「スナックすまいる」は「まこ」から右(南)へ4軒目。2014年に取り壊されて2020年に3階建の「ソフィア野毛」(1階に「ビストロ アン クール」)が建った。
「野花商店会」の表示板がついた街灯は2018年頃になくなっている。

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紅屋菓子店。横浜市中区野毛町1-53。2010(平成22)年4月10日

野毛本通り(都橋の通り)に面した、今も残る戦後復興期に建てられた商店。左から「占い館 沙羅双樹、ランドリーハウス、紅屋菓子店」。紅屋は廃業した様子だ。そこに2011年には「カフェ バジル」が入った。同じ建物のクリーニング店は2016年1月に「からころ村」という立ち飲みができるから揚げ専門店に替わった。沙羅双樹は1990年頃の開館らしい。
紅屋の建物は看板建築で建てたときの外観があまり改装されずにきたような感じだ。紅屋の看板の横は「日の出不動産」の広告。バジルに替わったときだと思うが、正面の紅屋のロッテの看板が外されて、横の看板が「お菓子 紅屋」のロッテのアイスクリームの看板に替わった。不動産屋の広告を剥がしたらそれが出てきたのだろう。イタリアーノを懐かしく見る人もいるだろうし、以前の店の看板が残っていると町の歴史が分かったような気がして面白い。

野毛本通りから入っている写真左右の横町は、その間の間隔が狭い。この2本の道路は、新横浜通りの桜木橋歩道橋の南から始まり、緩いカーブを描いて京急日ノ出町駅近くの長者橋の通りまで追っていける。『野毛 幻の鉄道路線』で知ったのだが、2本の道路は大正期に鉄道路線を計画した跡である。桜木町駅から大船をつなごうとしたが、関東大震災で計画は中止された。経路は異なるが根岸線の先祖になるのだろうか。

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巴荘。横浜市中区宮川町1-8。2010(平成22)年4月10日

写真左が野毛都橋商店街ビルで、その向かい側の木造アパートが「巴荘(ともえそう)」。複雑な外観をしているが、敷地が三角形で切妻屋根の家をL字型に曲げた平面をしている。
写真では手前の店に「明文堂」と「ハンコ」の文字が残っている。今は「トリニチサカバ」というバー。その左は「喫茶みなと」で、今はその店名のままでバーだそうだ。その左は「うおふね」という小料理屋。赤い日よけには「バラエティショップ 北洋」と読めるが、「かりゆし」に替わったのだろうか。巴荘1階の店は今ではみなバーか居酒屋で、でなければ空家らしい。

下の写真は宮川橋の通りの方から見た巴荘の西側。左奥の街灯に「宮川町仲通り会」の表示板が掛かっている。ストリートビューを見ると、この表示板は2017年まではあったが2018年にはなくなっている。
建物角の2階の窓の桟が、建物の要所を意識してか、デザインされている。「かすり」の右の店はガラス戸に「日の出理容院」の金文字が残り、腰壁に白い豆タイルを貼った、廃業した理髪店の外観である。ところがこれが「日の出理容院」というバー。知っている人が入ってくればいいや、という営業形態なのだろう。



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野毛都橋商店街ビル。横浜市中区野毛町1。2010(平成22)年4月10日

大岡川の宮川橋と都橋の間の川沿いの道路上に建てられた共同店舗で、ちゃんとした住所はないようだ。宮川橋は宮川町(みやがわちょう)1丁目、都橋は野毛町(のげちょう)1丁目。建物名に「野毛都橋」がついているから住所も野毛町にしておいた。一般に使われている地区名としての「野毛」には野毛町も宮川町も入っているのだろう。
戦後の野毛は多くの露天で賑わった。大岡川から東の横浜の主要地はほとんどが進駐軍に接収されたから、日本人が商売できる野毛がその中心地になったのだろう。路上で営業していた露店を収容するために建てられたのが「野毛都橋商店街ビル」で、建設は市の依頼により「財団法人横浜市建築助成公社」が行った。設計=株式会社創和建築設計事務所(吉原慎一郎)、施行=株式会社小俣組、構造=鉄骨造地上2階地下1階建・陸屋根鉄板葺。
1964(昭和39)年11月21日が落成式。1階は靴、鞄、衣料品などの売店が、2階は喫茶、軽食などの店舗が入った。東京オリンピック開催に間に合わせた形になった(文化庁>野毛都橋商店街ビル横浜新聞第33号平成29(2017)年)。
2016(平成28)年に横浜市の歴史的建造物に登録された。戦後復興の歴史を伝える建物であること、飲食店街として地域に親しまれていること、河川と一体化したデザインの優秀性、などが評価された結果である。耐震補強工事や改修工事を実施した後、建物は2017(平成29)年12月に「公益社団法人・横浜歴史資産調査会(ヨコハマヘリテイジ)」に寄贈された。


宮川橋から

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