ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




春風館道場。千葉県野田市野田376。2006(平成18)年4月29日

流山街道(県道17号)の千秋社の北を東入って250mほどで春風館(しゅんぷうかん)道場のある四つ角に出る。そこを南に150mいけば茂木本家住宅の北東の角。春風館道場は野田の武道の中心的な施設になっている。
千葉日報2010.05.12「武道の殿堂」来月再開』や『野田市今昔お散歩マップ』によると、1917(大正6)年、野田醤油株式会社(キッコーマンの前身)が設立されたときに、本店社屋(茂木七郎右衛門、柏屋)として建設されたもの。1927(昭和2)年に現在地へ移築され、翌年、道場として開館した。
2008(平成20)年にキッコーマンから野田市に寄贈された。市は耐震構造を施すなどの改修工事をおこない、2010(平成22)年6月から再開した。



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茂木本家住宅。千葉県野田市清水1087
2006(平成18)年4月29日

流山街道に面して建つキッコーマン本社のビルの横を東へ入った先に茂木家本家の邸宅がある。キッコーマンの前身である「野田醤油株式会社」が1917年(大正6年)に、茂木一族と髙梨一族の8家が合同して設立された。茂木本家(茂木七左衛門)はその中心メンバーだったと思われる。
茂木本家住宅は関東大震災後の1926(大正15)年に建てられた。11代七左衞門が設計を佐藤良吉に依頼した。佐藤は「宮大工の流れを汲む建築家」。関東大震災で被害を受けたので、ついでに全部建替えよう、ということだったのかもしれない。そのときの建物がほぼそのまま現在まで残されてきたわけだ。
建物とその付属物は2010(平成22)年1月に国の有形文化財に登録されて、『文化庁>国指定文化財等データベース』によって大体のことが分る。登録されたのは「板塀、稲荷神社、稲荷神社水屋、北蔵、旧米倉、旧仕込倉、旧漬物倉、旧門番棟、主屋、正門、庭門及び竹木賊張塀、南蔵、煉瓦塀」の13件。
1枚目の写真は北側の道路から見られる、左から「旧漬物倉、正門、旧米倉」。漬物蔵、米倉とも木造、外壁はモルタル塗り、米倉は2階建。正門は「薬医門」という形式のもの。
煉瓦塀は昭和前期のものという。なぜ部分的に煉瓦塀にしたのか不思議だ。



南蔵、北蔵。野田市清水1087。2006(平成18)年3月18日

東側の道路沿いには板塀が長く伸びる。その北に南蔵と北蔵(写真奥)が路上から見える。共に土蔵造り2階建。柱形を造っているのが特徴。

『ウィキペディア>野田の醤油醸造』によると、「寛永年間(17世紀半ば)に野田に来た女性の連れ子が初代七左衛門を名乗り茂木家の始祖となったと伝わる。」「1662年に初代茂木七左衛門が味噌醸造を始める。1764年〈6代目のとき〉に醤油醸造を始める。茂木佐平治が1688年に分家。茂木七郎右衛門が1768年に分家。 茂木勇右衛門が1822年に分家。」。現在の茂木本家当主は14代目。

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巽倉庫、秦野精麦
千葉県野田市中根132
2006(平成18)年4月29日

東武野田線野田市駅から東へ400mほどのところの線路際に倉庫が2棟縦に並んでいる。倉庫の扉に「巽(たつみ)倉庫」と書いてあるので名称は分るが、その正体はなにも分らない。キッコーマン工場への引き込み線の線路が倉庫の横まで来ていたような感じだが、キッコーマンとの関連も分らない。倉庫はすでに使用されていないように見える。
上写真の右に門がある。それが左写真で、門を入ったすぐ右に下見板張りの洋風の2階建家屋があった。門柱には左に「巽倉庫」右に「秦野精麦株式会社 肥料工場」の表札があった。
左写真の家の前には、2010年頃からだと思うが、「ボーイスカウト野田第1団」「けやき広場」の看板が挙げられていた。「エクラシア野田」が建って家は取り壊されたようだ。



秦野精麦株式会社 肥料工場。野田市中根132。2006(平成18)年4月29日

門はトラックの出入り口だったと思われる。上の写真は門から中を覗いたもので、奥の建物が秦野精麦の肥料工場らしい。守衛小屋はトラックの発着をチェックしていたのだろう。線路沿いの倉庫は秦野精麦のものだった可能性が高い。工場が盛業中のときは肥料の袋が倉庫に貯められていたのだろうか?
写真の工場は、2019年7月に「エクラシア野田」という木造2階建て50戸の高齢者向き集合住宅に建て替わった。



巽倉庫。野田市中根132。2006(平成18)年4月29日

最近、東武野田線は清水公園駅-梅郷駅の間を高架にした。2021(令和3)3月28日が運用開始日。それによって11か所の踏切が廃止になったという。写真手前の踏切は「野 第169号踏切」。廃止になった踏切の一つ。

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中山商店。中央区日本橋箱崎町20。1990(平成2)年(月日不明)

日本橋箱崎町を東西に通っている「箱崎湊橋通り」(平成4年度制定)。写真右へ行くと湊橋。建物は左から、巴屋そば店、とんかつ立樹の跡の駐車場、伊藤、中山商店のビル。日本橋三ツ矢ビル(三ツ矢ハイヤー、裏は旧日本橋高校)。現在は写っている建物は全て建替えられている。
巴屋は2014年に廃業した。2020年頃に建物もなくなり駐車場になっている。昭和11年の火保図に「ソバヤ」となっているので、戦前からのそば屋だったのかもしれない。「中山商店」の4階建のビルは昭和30年頃の火保図にはないからそれ以降の建築。現在は「ITOビル(伊藤ビル)」(1993年築)という8階建てのオフィスビルに替わっている。日本橋三ツ矢ビルは2020年に取り壊されて「BIASTA日本橋箱崎」(2021年2月築、8階建)というオフィスビルが建った。

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大和田本店。中央区日本橋人形町2-7。2004(平成16)年10月25日

人形町通りの人形町交差点の裏手にあったうなぎの「大和田本店」。2012年2月で閉店した。店主の健康上の問題という(『まさひろ瓦版>「大和田本店」が閉店』)。老舗のうなぎ屋なのに割と安価ということで繁盛していたようだ。その後、建物を修復、改装して「やきとん居酒屋 筑前屋人形町総本店」が2012年5月に開店した。

大和田本店の開業がいつなのか、また大和田といううなぎ屋は全国にあるようだがどういう関係になるのかは知らない。人形町の店が「本店」と名乗っていいのだろうか、とも思ってしまう。
建物は戦前築のようには見えない。周囲は空襲での焼失を免れた地区だが、戦後まもなく建てられたものかと思っていた。『 FOOD STADIUM>ニューオープン』に「(元のうなぎ店が)築80年が経過しており」とあり、それだと1932(昭和7)年頃の建築になる。昭和8年の火保図(当時の住所は浪花町8)では「スシヤ」だが、大和田の建物がその地図のものか微妙な時点だ。
昭和25年の「人形町全町詳細図」に広告を出していて、それには「大和田本店 人形町店のうなぎと新日本料理 人形町八百浅横丁電…」。八百浅は人形町通りにあった。

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ラビット、寿司幸。中央区日本橋人形町1-12。2003(平成15)年2月15日

新大橋通りの水天宮交差点あたりが、東西に通っているとすると、その北側の裏通り。「リガーレ日本橋人形町」という39階地下2階335戸の高層マンションが2007年10月に建ったが、それに建て替わる前の街並みである。
当ブログ「北村商店、他/人形町1丁目(2007.01.22)」で、同じ街区を人形町通りに近い方から西を見た写真を掲載してある。その記事の1枚目写真の奥から撮ったのが今回の写真。上左の写真では、旧記事の「東京木坂」が「介護ショップ・ラビット」に替わっている。その左に「炉ばた焼き・ふじ」。上右写真は下写真の右に続く「寿司幸」と1980年頃では「小野自動車」となっている建物。たぶん魚久(うおきゅう)からの三軒長屋と思われる。



沢田酒店。日本橋人形町1-12。2003(平成15)年2月15日

ラビットから寿司幸までの家並み。ラビットの右から「東京織物小売協同組合、沢田酒店、魚久、寿司幸」。沢田酒店は「小島屋」が屋号らしく、写真の袖看板は「小嶋屋 沢田商店」となっているようだ。昭和30年頃の火保図に「小島屋S(Shop、商店)」で載っている。当時の住所は蛎殻町2-5。

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左:茶ノ木神社。中央区日本橋人形町1-12。1983(昭和58)年3月
右:ほうらく。日本橋人形町1-13。1984(昭和59)年?
 
当ブログ前回の新大橋通りの家並みの裏に路地が通っていた。「リガーレ日本橋人形町」(39階地下2階335戸、2007年10月築)に飲み込まれて消滅した。その路地の東端に近い辺りに茶ノ木神社があった。今はリガーレ日本橋人形町の敷地、元の場所の近くに移築されている。
社は地下鉄日比谷線の工事で取り壊され、工事終了後に再建されたもの。昭和37・38年頃と思われる。
 
居酒屋の「ほうらく」は水天宮交差点から1本西の横丁を北へ入ったところにあった。ほうらくの左は新大橋通りとの角にあった「マルマン靴店」。ほうらくの右は「木村ビル」で、茶ノ木神社のあった路地との角にあった。建築計画の告知板が出ているが、「藤和日本橋人形町コープ」というマンション(12階建70戸)が1986年1月に完成している。


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