ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




をばや金物店。千葉県浦安市猫実4ー14。2009(平成21)年4月24日

をばや商店は庚申通り商店街に永いこと店を構えている金物店らしい。建物も戦前からのもののようだ。「をばや」は漢字でどう書くのだろうか。電話帳の記載場所を意識した店名のような気もする。2階建の店舗の後に、ほぼ同じくらいの大きさの平屋の部分が隠れている。住居部分なのだろうが、倉庫としても使っていた時代があったような気もする。
をばや商店の右は現在は児童公園のような広場になっている。元は商店が建っていて、1985年頃に今のように変わったのかと思う。その店は『 Deepランド>歴史散歩>浦安「大人の夢の国」』と『浦安プロジェクト2014.11』に載っている古い住宅地図では、1969年が「パチンコ店」、1971年が「大衆酒場」、1980年が「FGチェーン」。

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吉川歯科医院。千葉県浦安市猫実4-14。2009(平成21)年4月24日

東西線浦安駅から南へ400mのところに通りを挟んで庚申塔と庚申堂があり、その間に「庚申動通り入口」の看板を挙げた街灯が立っている。庚申通り商店街(街灯には「庚申通り専門店会」)で、狭い通りでクランク状に東西に通っている。今は店も少なくとても商店街という感じはしないが、南の境川を渡ったところのフラワー通りと同じく、古くからある商店街だという。猫実とフラワー通りの堀江は、埋め立てが進む以前からある浦安の町の原型のようなところだ。
上の写真では商店街の中にあるようには見えないが、左写真には「庚申通り」の街灯が写っている。古い航空写真から寄棟屋根の割と大きい日本家屋だったようだ。通り側には出入り口がない。ストリートビューからは医院はだいぶ前から廃業していた様子だが、建物は2017年か2018年に取り壊された。それまで板に書いた「吉川歯科醫院」の看板が平屋部分に残っていた。今は空き地のまま。

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吉原マシン工業。埼玉県川越市久保町12。1989(平成1)年9月18日

埼玉県道15号線(川越日高線)は久保町(くぼまち)を東西に通っていて、その区間は「久保町通り」とも言われる。そのほぼ東端が喜多院入口のアーチがある交差点で、吉原マシン工業はその東北の角にあった。右から書きの「東武タクシー」の文字のレリーフがあって、戦前築の看板建築と思われる。『川越の建物 近代建築編』(仙波書房、2021年、2,200円)によると、大正末期から昭和初期頃の建築。2018(平成30)年頃に解体された。現在は駐車場だ。
左の写真はストリートビュー(2021年2月)からの画像。立門前商栄会の通りで、中央通りから東へ入ってすぐのところ(連雀町8)。鶴川座の跡地に建てられた「旅籠 小江戸や」の隣の建物である。少し奥の建物から焼きそばの「まことや」と「きものや沙羅」が前に飛び出ている。建物本体は切妻屋根で看板建築である。その看板部分の上の壁に施された半円を並べた模様が吉原マシン工業のそれとほとんど同じだ。施工者が同じなのだろうか。この建物も戦前築なのかも知れない。

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スナック零(旧洋品店コロンボ)。埼玉県川越市久保町
1989(平成1)年9月18日

埼玉県道15号線(川越日高線)から喜多院への入口になる交差点の角にあった、洋館と言っていい建物。『日本近代建築総覧』に「洋品店コロンボ、川越市久保町11ー12、建築年=大正14年、木造3階建、施工者=水村元太郎」とある建物と推定できたが、『近代建築撮影日記>川越の近代建築(その2)』によって確認できた。そのサイトの写真は1996年4月の撮影。上の写真では黒くつぶれてしまった県道側の面がちゃんと写っている。
県道15号は久保町(くぼまち)を東西に通っていて、その区域は久保町通りで「喜多院不動通り商店街」になっている。昭和3年に今の道幅に整備されたため、両側には昭和4年頃に建てられた町屋や看板建築の商店が少しは残っている。洋品店コロンボは大正14年の築というから、道路の整備と並行して建てられたのかもしれない。
小さな建物だが装飾にかなり凝っている。2階のアーチの飾りを付けた縦長の窓、テラスへのガラス戸の上の窓、テラスの手すり、その両端の柱、などに目が行く。
いつ頃取り壊されたのか分らないが、現在は空き地のままで駐車場にしている。

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ETCダンススクール。葛飾区東金町1-17。2005(平成17)年3月20日

JR金町駅から西へすぐの「金町一番街通り」の一つ西の横丁で、その北端。写真右方向が南で駅のほう。周辺は3・4階の小さなビルが多いが、木造2階建てのアパートが残っている。昭和30年代のものだろうか。改修されてはいるが現存していて「さいとう食堂」という東南アジアの料理店になっている。2020年7月の開店という。写真左の駐車場には2014年に3階建の小さなビルが建った。
「金町GINZA」の街灯が立っている。「金町駅前通商店会」のメインの通りは金町駅北口から西へ、イトーヨーカドーへの通りだが、そこから北への横丁も含む。イトーヨーカドーの西にあった三菱製紙の工場跡地に東京理科大学が移ってきたので、2013(平成25)年6月に銀座商店会を「金町理科大商店会」に名称変更した。街灯はそれ以前に現在のものに替えられていたようだが、改めて「金町理科大商店会」の表示の看板に替えられた。
イトーヨーカドー金町店の開業は1973(昭和48)年。「金町自動車教習所」があった場所に建ち、教習所は店舗の屋上に移った。

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金町アパート。葛飾区東金町1-27。2005(平成17)年3月20日

JR金町駅の北口から直線で300mほど北に五叉路がある。その南東角にあった1階が商店の木造アパート。入っている店は「ニューサンワクリーニング店」「寿司正」焼肉の「にくまる」焼鳥の「古里」。右奥が駅の方向だ。街灯には「金町一番街通り」の表示板がついている。写真手前の交差点から理科大学通りに出るまでが「一番街通り商店街」だ。なお「金町アパート」はGoogleマップにあった。
建物は最近建て替わって「オランジェラスⅠ」(2021年2月築、木造2階建7戸)という、アパートになった。同じ規模で外観がきれいになった感じだ。欲張ってビルなどを建てるよりも賢いかも知れない。
写真の建物はいつ頃建ったものなのだろうか? 戦前は金町駅の北側は「大東紡織金町工場」(東京モスリン金町工場が1936(昭和11)年に改称)があるばかりで、あとは水田が広がっていた。大東紡の工場跡地に金町駅前団地ができたのは1968(昭和43)年。団地の西側の、池があったところに家が建ち始めたのはその少し前らしい。1963(昭和38)年の航空写真では、まだパラパラとしか家は建っていなくて、金町アパートもまだである。

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二郷半領不動堀樋。埼玉県三郷市戸ヶ崎。2003(平成15)年11月26日

閘門橋の100mほど北に古いアーチ橋がある。そこからまた100mほど北に同じような外観の橋があり、共に県道67号(葛飾吉川松伏線)を渡している。下を流れる川は共に「第二大場川」で、第二大場川はここでは中州を挟んで二本に分かれているのである。すぐ西で合流した後、そのすぐ南で大場川に入る。川が2本になっているところの長さは東西に400m。第二大場川はこの辺りでは中川に排水するため人工的に掘られた掘割と思われるのだが、なぜ2本も掘られたのか不可解である。
第二大場川の水源は約9km北の武蔵野線の吉川駅辺りという。二郷半領用水と大場川との間を南下してくる。1973(昭和48)に三郷放水路ができて、今はそこから江戸川に入ってしまう。第二大場川は三郷放水路で分断されてしまったわけで、そこまでの上流部を上第二大場川、下流部を下第二大場川という場合もある。江戸期に農業用水路として整備されてきたのだろうが、現在では中川と江戸川に挟まれた三郷市の低湿地の排水路である。

閘門橋に近い方が「二郷半領不動堀樋」。「不動堀」とは第二大場川のこと。『きまぐれ旅写真館>二郷半領不動堀樋』によれば、「逆流防止用として建設された樋管」で「1914(大正3)年4月1日に着工し、同年5月30日に竣工している」。



二郷半領用水逃樋。三郷市戸ヶ崎。2003(平成15)年11月26日

二郷半領不動堀樋のすぐ北にあるのが「二郷半領用水逃樋」。『きまぐれ旅写真館>二郷半領用水逃樋』によれば、「逃樋(にげひ)とは余水吐(よすいばき)のことで、メインとなる施設に併設され、緊急時あるいは保守点検時に通水を行うためのもの」。「二郷半領用水」は第二大場川に入ってくるので、二郷半領用水路が増水した場合の放流施設である。1912(明治45)年1月12日起工し、同年3月31日の竣工。建設時には石造りの親柱と鋳鉄製の欄干が設けられていたという。

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閘門橋。葛飾区水元公園。2003(平成15)年11月26日

閘門橋は水元(みずもと)公園の西北端にある、大場川に架かる古い水門。1909(明治42)年の竣工。大場川が中川に合流する地点に建設された。中川の水が大場川に逆流するのを防ぐ目的である。建設後、大正末期から昭和初期にかけて中川の改修がおこなわれ、蛇行していた箇所をショートカットする形で流路が変わったため、中川の旧流路が大場川に編入された。新たな合流点になったところに1980(昭和55)年に「新大場橋水門」が完成するが、それまでは閘門橋が水門としての機能を果たしていたのだろうか。
建設時の名称は「弐郷半領猿又閘門」(にごうはんりょうさるがまたこうもん)で、煉瓦の上部の壁にその銘板がはめ込まれている。『きまぐれ旅写真館>閘門橋』の解説によれば、「弐郷半(二郷半)」は地名、「領」は利水や水防を目的とした共同体。「猿又」は葛飾区側の地名。「用悪水路」とは用水路と排水路のこと。「閘門」は現在では、2基の水門の間に船を入れて水面の高さを調節して川と川の間を通航できるようにする設備を言うが、昔は厳格な区別などせずに使っていたらしい。
『東京再発見』(伊東孝著、岩波新書、1993年、563円+税)によると、閘門橋が渡している道は旧岩槻街道だという。交通の往来が激しくなり、荷馬車が通れるような橋としても使える立派なレンガ造アーチ橋が東京のはずれに出来たのではないか、という。



閘門橋。葛飾区水元公園。2003(平成15)年11月26日

現在の閘門橋は改修を受けた姿である。『きまぐれ旅写真館』も『東京再発見』でも、その改修が少しやり過ぎではないかと指摘している。ぼくは撮影時にはなにも知らず、明治の完成時のままなのだろうと思っていた。というよりなにも思っていなかった。2体の人形は変に思ったが。
橋の欄干は本来はなく、改修前はガードレールが付けられていたという。現在の欄干は左右でデザインが異なる。実はぼくはそれにも気がつかなかった。普通はありえないわけで、後の改修と分るようにしてあるのだろうか。島のバルコニーも改修時の増築。その島と三郷市の間の煉瓦アーチ橋は修復によるもので、以前はコンクリートの桁橋だった。これについては『東京再発見』は評価している。
これらの改修がいつ行われたのか分らない。『東京再発見』には筆者が見に行ったときは「きれいに整備されできあがってからまだ半年も経ていないピカピカの閘門橋であった」そうだ。当書は1989~91年に『東建月報』という機関誌に連載された記事が元になっている。昭和末から平成初頃、となりそうだ。

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