ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




藤井家、あとう仏壇店。北区滝野川6-55。1990(平成2)年1月14日

旧中山道の滝野川銀座商店街の中ほどから、「御代の台仲通り商店街」という狭い通りが、現中山道の国道17号へ通っている。写真右端の家が和菓子の伊勢屋で、その右が写真枠外だが「龍宮飯店」。その店が御代の台仲通りとの角である。今もこの2店は、建物はビルに替わったが、商売を続けている。写真はそこから西へ続く家並みである。
写真左から、「藤井家」、同じ家の右側に「モードマダム」(洋装店)と「丸太鮓」、「あとう仏壇店」、「ヘアーサロン・ノグチ」と「八ツ手不動産」。昭和49年の住宅地図にも、「マダム洋装、あとう仏壇、伊勢屋、竜宮飯店」の記載がある。
滝野川探検隊>種屋街道』によると、藤井家の建物は大正13(1924)年の建築で、昭和21年頃まで自転車屋を営んでいたという。現在は3階建てのビルに建て替わっている。あとうとノグチは建物は改装されたが残っていて、あとうは廃業したようだがヘアーサロンノグチは健在だ。

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小原たばこ店。北区滝野川6-27。1990(平成2)年1月14日

旧中山道の「滝野川銀座通り」にある「滝野川郵便局」から、北へ80m程のところ。現在は写真左の建物が残っている。その家の右の横町を入ると「稲荷湯」という古い銭湯がある。
今も残る写真左の家だが、昭和59年の住宅地図では番地の数字と重なって店名が読み取れない。「平和堂○店」だろうか? 写真中央の家は同地図では空白。昭和49年の地図で「小原タバコ」。写真右の緑の日よけの店は「洋装あづみ」。
平和堂の左に、2016年までは古い日本家屋の商店があった。昭和59年の住宅地図で「永楽電気商会」。さらにその左は「太閤コーポ滝野川」(1977年10月築、6階建て29戸)というマンション。そのマンションは「滝野川東映」という映画館の跡地に建てられたもの。滝野川で育った倍賞千恵子が昔を回想して「映画館があった」と言うときに思い浮かべた映画館かもしれない。

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向春堂医院。北区滝野川6-28
1990(平成2)年1月14日

旧中山道の「滝野川銀座通り」にある「滝野川郵便局」の隣に残っている、戦前築と思われる医院だった建物。洋館とまでは言えないが、赤い洋瓦と正面の薄茶のモルタル壁の洋風の建物である。横と裏側は板張りを改修したと思われるトタン張りで、安普請の日本家屋に見える。
昭和59年の住宅地図では「向春堂医院」という記載。昭和60年頃までは開院していたのかもしれない。今は医師の名前を医院名とするのが個人医院では普通だが、昔は屋号のような名前を付ける場合があったのだろうか。「向春堂」という名前自体に歴史的な価値があるような感じがする。
玄関の横に古い表札が今もかかっている。つまり「健康保険醫」「瀧野川區醫師會員」「簡易保険指定醫」の3枚。貴重なものだと思うので大事にしまい込んでしまった方がいいように思うが、興味のある人には見てもらいたい、ということなら今のままで展示しておくのがいいのかもしれない。




向春堂医院の現況。2018(平成30)年6月28日

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国際観光興業。北区滝野川6-13。1990(平成2)年1月14日

旧中山道の「滝野川銀座通り」に今も残る銅板貼看板建築。亀の子束子の向かい側である。通りに向いた建物の右側は日よけに「国際観光興業㈱」、引き戸に「田中製版」とある。左側は看板がない。昭和59年の住宅地図では「河屋酒店」だが、そんな店構えでもない。現在は「Matthew(マシュー)」という美容室で、撮影時でもそのような店だったような感じだ。


岩田家。滝野川6-13
1990(平成2)年1月14日

国際観光興業の隣にあった家。旧中山道沿いの旧家のようだが詳細は知らない。写真右の二階建ての家は、昭和59年の地図で「青木」、その右の屋根だけ写っている家は「小池肉店」。
現在はマンション(「スカイコートヌーベル巣鴨」2007年3月築、6階建45戸)と老人ホーム(「リハビリパーク滝野川」2012年7月開設、8階地下1階建、入居定員150)に替わっている。

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塚越家住宅(現・上野桜木あたり)。台東区桜木2-15。2013(平成25)年11月6日

言問通りの上野桜木交差点は、吉田屋酒店を移築した「下町風俗資料館敷設展示場」と「カヤバ珈琲店」があり、その間を北に行くと「愛玉子(オーギョーチイ)」や「岡埜栄泉」などの店がある谷中の観光スポットである。最近、この地区に「上野桜木あたり」という観光スポットが加わった。隣り合った3軒の古い民家を、飲食店やコミュニティスペースとしたもので、2015年3月に開業した。
上野桜木あたり』の「concept」に、その歴史が述べられている。それによると、日本橋室町で「塚越商事」を営む塚越家は、昭和13年に、谷中斎場の跡地を合わせて自宅と借家2軒の「3軒家」を建てる。写真の家とその裏の家が借家、奥の門がある家(2枚目写真右奥)が塚越家だった。
「谷中斎場」については、『谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー>谷中・桜木』に「路地を挟んで下谷警察の支部〈現在は「下谷警察署谷中交番」と「台東少年センター」〉があるが、この辺りは、大正11年(1922)に森鴎外の葬儀が、昭和2年(1927)に小説家芥川龍之助の葬儀が、昭和4年(1929)には、新国劇の沢田正二郎の葬儀、大杉栄、伊藤野枝などの葬儀も行われた私設の谷中斎場だったところ」という記述がある。



塚越家の手前にある民家。桜木2-15。2007(平成19)年12月21日

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旧平櫛田中邸。台東区上野桜木2-20
2013(平成25)年11月6日

言問通りの谷中霊園入口(上野桜木二丁目交差点)際にある浄名院の裏手に、平櫛田中(ひらくしでんちゅう、1872〜1979)の住居とアトリエだった家が残っている。家の裏は谷中霊園が広がる。
田中は大正8年にアトリエを、大正11年に同じ敷地に住居を建てて、昭和45年(98歳)に東京都小平市に家を建てて移るまで、そこで暮らした。昭和48年に上野桜木のアトリエ・住宅は、田中の故郷である岡山県井原市に寄贈された。その後、田中の弟子の浜田氏が管理人を兼ねて住んでいたが、平成11年には空き家になってしまった。現在は「井原市の協力の元、平櫛田中先生の顕彰と建物維持、新たな芸術文化の育成・発信を願って、 地域やNPO、東京芸大等の有志により掃除・修繕と公開活動が折々おこなわれている」(『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)参照)。
敷地の南側中央の門から見て、左がアトリエ棟。玄関がある住居とは変な角度で建っているが、南北の軸に正確に建てたためだ。アトリエの天窓が北に向くようにこだわったのである。少しくらいならいいではないか、と思うが芸術家は少しでも夕日が差し込んではいけないと考えるのだろう。見えている部分は二階建ての、アトリエに付属する部屋がある部分である。『東京都の近代和風建築』によると、アトリエ棟は「木造平屋建、切妻造鉄板瓦棒葺」「変形の真束小屋組で、彫刻制作のために天井高を高くとる。屋根北側には近代木彫制作に適した採光用天窓を設ける」。手前に「木造2階建、寄棟造、桟瓦葺の附属棟を持つ」。
住宅棟は「木造2階建、寄棟造桟瓦葺、小屋組和小屋、外壁は下見板張」「起り破風付きの玄関」がある。
門を入った右側には住居棟の南に突き出た平屋の台所が付く。台所の南に風呂場が増築されている。田中は近所の銭湯を使っていたのかもしれない。

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佐々木邸。台東区上野桜木2-18。1990(平成2)年2月18日

言問通りの谷中霊園入口(上野桜木二丁目交差点)際にある浄名院の裏手にあった洋館の邸宅。現在はそっくり駐車場になっている。
『台東区近代洋風建築調査報告書[データ編]』(平成8)には「佐々木邸、木造2階建、戦前のスパニッシュ風住宅の意匠を留める」とある。写真では3階があるように見えるが、ドーマー窓だろう。




高遠邸。上野桜木2-18
上:2013(平成25)年11月16日
左:1990(平成2)年2月18日

佐々木邸の北に隣接している住宅。今は瓦を葺き替え壁も塗り直したらしく、真新しい家に見えるが、『台東区近代洋風建築調査報告書[データ編]』に載っているから戦前築の住宅なのだろう。当書には「高遠邸、木造2階建、戦前のモダニズム風の意匠を留める」とある。
上の写真で、門の右に出ている部分は近年の増築によるものと思える。1990年の写真では、そこに倉庫かガレージがあったようだ。

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台東倉庫。台東区上野桜木2-4。2013(平成25)年11月6日

京成電鉄の寛永寺坂駅の駅舎が2016年8月に取り壊された。駅自体は1947年(昭和22年)8月21日で実質廃止されたから、他に用途もない平屋の駅の上屋が永いこと取り壊されずに来た方が不思議だったのだろう。これは、建物を1953年4月から「台東倉庫」という会社に貸していたからで、倉庫として使われてきた。駅のホームは地下にあり、駅舎は地上への出入り口のようなものである。寛永寺坂駅は1933年(昭和8年)12月10日 の開業で、駅舎もその時のもの。RC造である。(ウィキペディア参照)
毎日新聞>京成電鉄寛永寺坂駅(2016年2月8日)』を見ると、駅舎北側に事務所があり、そこの切符売り場で切符を買って、横奥の改札を通って割と幅広の階段をホームへ下りる、という構造だ。たぶん下りたところが上りホームで、下りホームは連絡通路を使う。その通路の位置が判らない。「物置だったと見られるスペース」は違うのだろうか?
当サイトでは開業時の駅舎の写真が、また、『昭和からの贈りもの>5-11.昭和10年頃・京成電鉄寛永寺坂駅』では昭和10年頃の写真が見れる。
駅舎東の駅前広場は駐車場にしていたが、そこも台東倉庫に貸していたのかどうかは知らない。



台東倉庫(言問通りから)。2013(平成25)年11月6日

毎日新聞の記事の開業当時の写真の、駅舎後ろに写っている切妻屋根の家は、『日本近代建築総覧』にある「関正彦宅、上野桜木2-4-4、建築年=大正初?、木造、設計者=大倉喜八郎、備考=以前外人の住居という」になりそう。

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鳥ひろ、喫茶ボン。茨城県土浦市桜町2-7。2006(平成18)年11月5日

県道24号線の中村時計店の向かい側を南へ入った、裏通りとの角の、料理屋だったと思われる家。建物の左は「喫茶ボン」。写真右の裏通りの奥の緑の日よけは木造日本家屋の家で薬局のようだ。写真右の街灯にある「桜町薬品」だろうか?
現在はボンが入っていた左側半分が取り壊され、隣の薬屋も取り壊され、写真左の青いトタンの家も、写真右にわずかに写っている家も、取り壊された。その跡は全て駐車場になってしまった。撮影時でも駐車場が目立つ街だという印象だったのだが、さらに増えているようだ。

下の写真は1枚目写真の左右の通りを右(南)へ少し行ったところ。平屋の家は今はなくなって空地。左の家は「喫茶桃山」だが営業しているようには見えない。街灯には「富士火災代理店 県信商事」の看板が。この家は、現在は「コインランドリー 桃山」。


喫茶桃山。土浦市桜町2-8。2006(平成18)年11月5日



竹ちゃん、祐祐。土浦市桜町2-6。2006(平成18)年11月5日

1枚目写真右の通りを奥へ行ったところ。その奥の赤い看板が「ラーメンとも」で、上の写真の左奥に写っている。この通りの左右には風俗店が並ぶ中で、古い家屋が飲食店になっていたりして、細かく見ていくと面白そうである。

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吾妻庵総本店。茨城県土浦市中央1-6。2006(平成18)年11月5日

中城通りにある老舗のそば屋。「吾妻庵」は関東に11軒あるそうで、その「総本店」。明治6(1873)年創業で、大正時代に今のところに移ったらしい(〔99/01〕土浦・水郷都市の面影をたどる>再建された吾妻庵)。とすると、建物もその時に建てられたのだろうか?
1998(平成10)年に火事を出した。どの程度のものだったのか分からないが「2階は火災にあって、1999年に復元」としたサイトがあり、2階前面の屋根の瓦は新しく、1階前面の屋根の瓦は古いままのようなので、2階の一部を焼いただけで済んだのかもしれない。「うだつ型行灯看板」は焼失し、復元したもの。2011年の東日本大震災では大きな被害はなかったようである。
外に置かれている盆栽は店主の趣味だ。新聞記事に載るほどの腕前である(毎日新聞2016.10.20)。



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