ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




寛永寺幼稚園。台東区上野桜木1-14。2007(平成19)年3月2日

寛永寺幼稚園は、そのHPに「本園は大正13年10月、関東大震災の被災者子女のための臨時の小学校であった寛永寺国民小学校跡に国民新聞社々主徳富蘇峯先生並びに大倉喜八郎氏長女高島鶴子氏の協力を得て開設されました。途中昭和19年6月、戦争のため閉鎖しましたが、同24年再開し……」とある。
宗教法人の幼稚園としてはかなり歴史のある幼稚園かと思うが、園舎も古い建物である。『日本近代建築総覧』には「寛永寺幼稚園、建築年=大正12頃、構造=木造1階建、設計=東京市」となっている。東京市の設計ということは、寛永寺国民小学校として建てた校舎を幼稚園が譲り受けてそのまま使ってきたのだろう、と考えられる。
玄関の庇を支える円柱と玄関のガラス戸の半円の桟などに工夫を凝らしたデザインが見られる。建物の裾に貼られているのはスクラッチタイルのようだ。
現在は「平成21年9月に耐震補強工事を行い、併せて内外装を一新」ということで、園舎の外側に壁を巡らす改修をしている。耐震補強の構造物を隠すための目隠しかもしれない。



寛永寺幼稚園。上野桜木1-14。2007(平成19)年3月2日

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上:松之湯。中央区日本橋浜町3-13
1985(昭和60)年10月10日
左:東京戸張。日本橋浜町3-5
1987(昭和62)年4月26日

現在の日本橋浜町3-3という住所には「トルナーレ日本橋浜町」(2005年8月築、47階建て558戸)のタワーマンションと18階建てのオフィスビルが建つ一つの区画になっているが、再開発される以前は横丁や路地で区切られた8区画からなっていた。
松乃湯は再開発地区の清州橋通りに面したところにあった。『銭湯温泉サウナ王国>松の湯』によると、2002年5月末日で廃業した。写真右の建物は浜町中ノ橋交差点角の「みはし堂」。清州橋のそばに移ったという「三はし堂」(和菓子)の旧店舗かもしれない。

「東京戸張」のビルは再開発地区の新大橋通りに面したところにあった。昭和22年の航空写真に写っているビルなのだろうか? バス停は「浜町中ノ橋」。



やまざき、㈱ききょう。日本橋浜町3-20。1985(昭和60)年10月10日

清州橋通りの裏手。建物は料亭のように見える。昭和30年頃の火保図では、手前が「金田中」、写真右が「乃より/鳥山」という料亭。現在はホテルとマンションになる15階建てのビルを建築中だ。

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丸十小泉東京支店。中央区日本橋浜町2-23。1986(昭和61)年7月6日

新大橋通りの、清州橋通りとの浜町中ノ橋交差点のすぐ南。丸十小泉東京支店のビルは、昭和11年の火保図にある「藤井ビル(タ三)」(「タ三」は防火建造物3階建)だろう。火保図ではビルに「タバコヤ、ソバヤ、〒」の記載がある。
「丸十小泉」は「小泉産業」(本社は大阪)という照明具や学習机などの製造をしている会社の「グループの系譜図」に出ている、「丸十小泉商店(昭和8)」、それが組織変更したらしい「㈱丸十小泉(昭和40)」かもしれない。この会社は「㈱日本きものセンター(昭和48)」につながっているので呉服関連の会社だったと思われる。
下の写真が10年前のもので、「FMJ Co.,LTD.」という会社のペルシャ絨毯を売る「カーペットミュゼ」になっている。現在は写真左の2棟がそれぞれ10数階建てのビルに建て替わり、カーペットミュゼのビルは1・2年前に取り壊された。


Carpet Muse'e。日本橋浜町2-23。2008(平成20)年12月29日

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北日本ビル。中央区日本橋浜町2-14。1987(昭和62)年4月26日

清州橋通りの明治座の斜向かいにあったビル。なにか特徴や由来があるビルというわけではなく、いずれ建て替えになるのだろうと、記録しておいただけである。袖看板は「東瀝青建設㈱4F」「鈴木歯科医院2F」「全糧商事1F」。ビルの平面は四角形ではなくてL字型で、写真で見えない部分が欠けている。写真左の2階建ての家は「大和屋パン店」。
現在は「トーキョー・オーディアム日本橋浜町」(2005年7月築、15階建74戸)というマンションに替わっている。

1969年の地図にある「新田ビル」、および昭和30年頃の火保図の「浜町ビル(5階建)」とは、名称が異なるので、北日本ビルが建つ前にあったビルのように思える。昭和11年の火保図では「優生病院(6階建)」で、『中村庸二建築事務所』にある「濱町ビルヂング」である。昭和3年出版の「作品集」ではスケッチが載っているので、その時点ではまだ完成していなかったのだろう。このビルは空襲で内部を焼失しているはずなので、戦後に建て直しているかもしれない。

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杉田商事。中央区日本橋浜町2-12。1987(昭和62)年4月26日

前の通りは清州橋通りで、写真右のガソリンスタンドは金座通りとの久松町交差点の角にある。3階建ての古いビルには看板がなくて空家のようにも見えるが、1986年の住宅地図では「杉田商事㈱」。1955年頃の火保図に「杉田製綿工場」、1979の住宅地図に「杉田製薬工場」とあり医療関係の会社だったようだ。建物は昭和11年の火保図に「タクシー(防火建築3階建)」とあるビルと思われる。
GSは「日本石油久松町給油所」。
後ろのビルは「エスエス製薬本社ビル」。「エスカップ」などで有名な市販薬の会社だ。明和2(1765)年に創業した「美濃屋薬房」が前身で、「エスエス製薬株式会社」の社名は1940年から。写真のビルは1969年11月に落成した。2008年4月には敷地をGSのある交差点の角にまで広げて建て直した10階建てのビルが完成している。
2017年に「サノフィ」という会社の子会社になったようで、本社もサノフィ本社がある新宿の「東京オペラシティタワー」に移った。

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土浦まちかど蔵・野村。茨城県土浦市中央1-12。2006(平成18)年11月5日

中城通りに、「まちかど蔵 大徳」と向き合って、元砂糖店「野村さとう店」の店舗と袖蔵が通りに面して、旧水戸街道の景観を残している。「大徳」と同様に土浦市が管理する観光施設および地元のコミュニティの場になっていて、「大徳」が母屋の内部を見せるのを主にしているのに対して「野村」は「蔵」というカフェで飲食を受け持つ形だ。
出桁造りの店舗兼母屋は明治中期の建築。その右の土蔵が「袖蔵」、その後ろの蔵が「文庫蔵」で、共に明治前期のもの。文庫蔵の斜め後ろには明治25年に造られた煉瓦蔵がある。いずれの建物も、平成14年に「まちかど蔵」として整備するための改修をしている。



土浦まちかど蔵・野村の袖蔵と文庫蔵。土浦市中央1-12。2006(平成18)年11月5日

文庫蔵とは商品やその材料以外を収める蔵のことをいうのかと思う。つまり商売の帳票や書画骨董をしまったことからの謂いだろう。
袖蔵の前に電柱が立っているが、現在の中城通りは電線を地下に埋めたため、電柱はない。



土浦まちかど蔵・野村の煉瓦蔵と文庫蔵。土浦市中央1-12。2006(平成18)年11月5日

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土浦まちかど蔵・大徳。茨城県土浦市中央1-3。2006(平成18)年11月5日

中城通りは水戸街道の城下町・宿場町として、土浦の中では最もにぎわったところだ。今でもそんな雰囲気が感じられる古い商家の建物が幾つか残っている。「土浦まちかど蔵・大徳(だいとく)」は江戸時代後期に建てた元の呉服屋の建物を改装した、市の観光案内・土産物販売の施設で、内部の見学もできる。
大徳呉服店の創業は天明5(1785)年、大国屋徳兵衛という人による。現在の株式会社大徳の社長は8代目。1974(昭和49)年に店舗を現在地の駅前通りに移転した。
建物は、中城通りに面して「店蔵(見世蔵)」と「袖蔵」が見える。店舗だった店蔵は北棟で、その裏側に住居部分である南棟があり、合わせて店蔵というらしい。街道に面した形が土浦城下の町家の伝統的な姿になる。
まちかど蔵大徳とキャノン美容室の間の横町を入ると、店蔵の後ろにある土蔵が見える。2棟あるが、どちらかがあるいは両方とも「元蔵」で、天保13(1842)のもの。「向蔵」というのがどれになるのか分からない。これらの建物は1998・9年に改修を受けて、今の、漆喰の白が美しい姿を見せているらしいのだが、これは建物を譲り受けた土浦市によるものかと思う。2011年の東日本大震災の際は瓦が全部落ちたという。2016年8月、「土浦まちかど蔵・野村」と共に国の有形文化財に登録された。



まちかど蔵大徳の横の路地。土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

まちかど蔵大徳の横を南に入る路地。写真左の建物は、現在は取り壊されて駐車場になっている。
まちかど蔵大徳の前の中城通りは、写真の路地の角のところで少し食い違っている。1枚目写真でなんとなく分かるかもしれない。古い街道に見られる「桝形」だろうか。道をクランク状にするのは敵の進行を遅らせるため、のようにも言われるが、街道を一列で来る場合は障害というほどの効果はないだろう。たぶん、旅人に先が見通せないようにしたのではないか。人は先が見えるとつい進んでしまおうとするから、それを見えないようにして、町に人がとどまって、泊まったり買い物をするように仕向けた?

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石上霞月堂。茨城県土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

土浦駅前通り(国道125号)から中城通りへ入ると、角の保立食堂の隣は空き地、その次が「石上霞月堂」という菓子店。撮影時もすでに閉店していたような感じだ。
看板には「ヨーロッパ風ケーキ」ともあるが、元々は和菓子屋のようだ。「霞ヶ浦銘菓 七ツボタン予科練を偲ぶ 雄翔(ゆうしょう)最中」の看板の裏側は「土浦銘菓 ぶらりひょうたん最中」。阿見町の「陸上自衛隊土浦駐屯地」や「予科練平和祈念館」に隣接して「雄翔館(予科練記念館)」(1968年開館)と「雄翔園」がある。「雄翔」の名前がそこからきているのなら、売り出したのはそれ以後のことになりそうだが……。また、高田保(たもつ)という劇作家、随筆家に、1948年に書いた「ブラリひょうたん」という著書がある。高田は土浦町の生まれで、「ぶらりひょうたん最中」はそれを顕彰したものだろう。2種類の最中がどんなものだったのか、外見なりと気になるが、たぶん写真などの記録もない幻の最中である。
建物は土蔵の前面を看板建築にしたもの。アールデコ風のモダンなデザインだ。たぶん戦後の改装によると思える。袖看板は外されたが建物は今も残っている。



洋服店。土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

霞月堂の隣が駐車場で、その隣にあった店を裏から撮った写真。肝心の表面を撮っていない。袖看板が「CDKスーパーテックス」ならスーツの生地らしいので、紳士服店かもしれない。ネットで中城通りの写真を探したら、『マッピング霞ヶ浦>中城通り#2』にあった。1999年の撮影で、看板の文字が読み取れないが「○○洋服店」。
今は住宅に建て替わっている。

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ほたて。茨城県土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

「ほたて」は土浦駅前通り(国道125号)と旧東海道(中城通り-本町通り)の交差点(中央1丁目交差点)の角にある天ぷら屋。明治2年創業という老舗で、現在は六代目になる。
国道は昭和10年に川口川(かわぐちがわ)を埋め立てて通したもので、旧東海道はそれまで「桜橋」でその川を渡していた。川の両側は河岸の道路だった。店の角に、明治34年に架けられたレンガ造アーチ橋だった桜橋の親柱が置かれている。
ほたての建物は創業時のものという。屋根は瓦だったのを近年葺き替えたのだろうと思っていたが、『水路をゆく・第二運河』によると、トタン屋根にしたのはかなり昔のことだったらしく、「ハイカラ好きの創業者が、国産品がない時代に高価な輸入品を使って葺き替えたもの」という。「うんちく板」の「昭和初期の保立食堂」の写真ではすでにトタン屋根である。その写真の看板は「御中食 保立本店」。


ほたて(中城通り側)

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新美堂時計店。茨城県土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

JR土浦駅西口から国道125号を北へ、桜橋跡の中央1丁目交差点の手前。アーケードがあり「中央大通り商店街」というが、建物がなくなって駐車場に替わってきている。今は新美堂の建物もアーケードもなくなり、もはや商店街とはいえない。
新美堂の建物は、正面は洋風の看板建築だが本体はレンガ造の蔵のような建物である。蔵を改造して店舗と住居にしたものだろうか。

下の写真、左のコンクリート壁は呉服店の大徳(だいとく)本店。現在、中城通りの「まちかど蔵 大徳」となっているのが元の店で、昭和49年に中央大通りに移ってきたというから、その時の建物だろう。平成25年11月に現在の店舗に建て替わった。


新美堂時計店。2006(平成18)年11月5日



新美堂の後ろと横。2006(平成18)年11月5日



新美堂の裏の蔵。土浦市中央1-2。2006(平成18)年11月5日

新美堂の裏手に2棟の蔵があった。『『ぬけられます』あちこち廓探索日誌』によると、新美堂のものだという。いったい元はなんの商売をしていたのだろう? これらの店舗と蔵は2011年の東日本大震災で被害を受けたらしいが、それを契機に廃業し、取り壊したのかもしれない。


新美堂の裏の蔵。2006(平成18)年11月5日

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