魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

被害者という加害者

2007年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム

「偽物の罪は、真価を破壊することだ」

影におびえるで「被害者が加害者」の話をした。
「錯乱・錯誤の魚座時代」には、こういう倒錯が話題になる。少し説明したい。

正当性なく他人を攻撃するには、正当性をでっち上げるのが簡単だ。
突然、他人を殴ったら、遅かれ速かれ周囲から報復されるだろう。周囲も危険なヤツと思うからだ。
しかし、状況や、理由をつくり「正当防衛だ」と言えば、少なくとも周囲の意見は割れる。他人が事なかれで傍観すれば、当事者だけの関係になる。あとは力勝負だ。

これと同じ手は、「自分は被害者だ!」と叫ぶことだ。
「ゆすり、タカリ」は、他人の様々な弱点を攻撃して掠奪するわけだが、弱点がない時には「言いがかり」を捏造する。
言いがかりというものは、その気になれば何にでも付けられる。
「お前のために被害にあった、どないしてくれるんや!」

被害者として相手に要求すれば、
要求された側は、まず、加害者ではなかったことを証明しなければならない。被害と称するモノを見せることは簡単だが、それと関係ないと証明するのは非常に難しい。もちろん妨害も受ける。
証明したとしても、相手が納得しなければ、味方をつくらなければならない。ところが、第三者は自分の利害に関係なければ「火のないところに煙は立たないだろう」と冷ややか、なるべく避けて通ろうとする。
最後は力で対抗するしかないが、元々、力に自信があって来ているのだから始末が悪い。
たとえ、力が無くても、相手を根負けさせる方法もあれば、人の好い第三者の同情をかう手もある。

「被害者づら」のメリットはいろいろある。
一番のターゲットは、立場や体裁など「失いたくないモノ」を持っている人だ。もちろん財産もだが、名誉やプライドという形の無いものは、物理力より、不名誉や不格好など、形のないものに弱い。
それに比べ、被害者と称する人間は始めから格好など考えていない。むしろ格好悪いほど被害者らしく見える。目的は物や利権だから、だれにどう思われようとかまわない。デパートでひっくり返えって泣く子供は、親が恥ずかしいことを知っている。

「被害者づら」の最大のメリット攻撃されないことだ。
人間は自分を正当化したいから、いい人になりたい。だから、「被害者」という「可哀想な人」には攻撃や反撃できない。
こうして攻撃されない上に、被害を償えという武器を持つことになる。

ターゲットになる体裁屋(普通の人)が、決して出来ない格好悪い攻撃は、こうして最強の加害攻撃になるわけだ。
全身ウンコまみれでコンビニに乱入すれば、「金を出せ」と言わなくても、堂々?とレジの金を持ち去れるだろう。
臭くても金は金?!

★「真価を破壊する」とは、偽の被害者のために真の被害者が救済されなくなることだ。

★「被害者づら」で他人を攻撃する人間は、自分は本当に被害者だと信じ込んでいる。攻撃するうちに、感情がこもって確信に変わる。相手が否定すれば、さらに気合いが入る。