『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

差別しない方法

2007年09月30日 | 真理
差別とはなんですか?

差別とは『扱い方に違いをつける事。』です。

差をつけて分ける、ということは上下関係、優劣関係を定めていく事です。

その根拠自体が、人間の自己中心性、慢心から出たものですから、社会生活の中で
は多くの問題を生じさせます。

だからといって人間というものは自分の外界に対して、本能的に違いを見つける生
き物ですから差をつけるのはしょうがないのではないですか、と考えさせられる所
もあります。

しかしそう言ってしまうと平和な社会は成り立ちません。

そこで私がお勧めするのが「差別」を「区別」として認識する事です。区別とは区
をつけて別ける、ということです。

それは上下、優劣の関係ではなく、横の関係として、互いにその違いを認めて尊重しあっていくという事です。

仏教では覚りに向かうその道の中で無分別智というものの見方ができるようになり
ます。

煩悩で煩わされる凡夫には、必然的に物を分別し、それによって色々な対象に差をつけて苦しみのもとを生み出している、という見方をしています。

覚りに至る智慧を得る過程で、その分別心をなくしていき、全てに繋がりを感じる見方ができるようになるのです。

それが無分別智であるのです。

その様な境地に至れば、必然的に心の中に差別心が少なくなっていきます。

仏教はその様な所も教えてくれるのです

誰が一番大事?

2007年09月30日 | 
自分がされたら嫌な事と分かっていながらも平気で人が傷つく事

をしている人、大勢いますよね。

それは何でなんでしょうか。

それは、その人が自分の事を大切だと思える環境に身を置いた事がないのかもしれません。

自分が心から傷ついた事がないのかもしれません。

そんな大人になってしまっては不幸なので、子どものうちに教えてあげると親切だと思います。

人間は自分が一番大切であるからこそ、自分の気持ちに気付き、そして他人にも同様の気持ちがあり、相手を思いやる事を。

仏典には「誰が一番大切?」という事において、興味深い話があります。

ある王様と妃の話です。


大きな国の王様であるパセーナディ王は、あるとき、マッリカー王妃に次のような質問をしました。

「あなたにとって、最も大切な人は誰ですか」と。

この時パセーナディは妃から甘い言葉を期待していたようです。

しかし妃の返事は予想を外するものでした。

「私にとって、一番大切なのは私自身です。あなたにとって最も大切な人は誰ですか」と。

予想外の質問を受けた王様は、その事をじっくりと考えてみると、妃の言った通り、自分よりも大切な人をどこにも見出す事が出来なかったそうであります。 

その事を、後に、釈尊に尋ねてみると、釈尊の答えは次のような事であったそうです。

「人は己よりも愛しき者を見出す事が出来ない。それと同じように、全ての他の人々にも自己はこの上もなく愛しい。されば、己の愛しい事を知る者は、他の物を害してはならぬ」というものであったそうです。

合掌

人に迷惑をかけてはいけない本当の意味

2007年09月29日 | 仏教的 『子育て』
ルールを守らずに片付けをしないで散らかしっ放しにしている人、他人の悪い所ば

かりを非難する人、わがままによって他人と衝突ばかりしている人など、人に迷惑

をかけている人は本当に腹立たしいですね。

このような人々に多大な迷惑をこうむっている人は、もしかしたら他人に迷惑をか

ける事は絶対にいけない事だと思っているかもしれません。

それはそれでいい事なのかもしれませんが、ここで気を付けなければいけない事

は、子どもにその事をそのまま伝えない事です。

「人に迷惑をかけてはいけません!」と。

大切なのは、なぜ人に迷惑をかけてはいけないか、という事です。

その事をしっかり伝えておきましょう。

それでは何故人に迷惑をかけてはいけないか。

その為にはまず、自分の気持ちに気付かなくてはなりません。

そして次に、自分と同じ気持ちを、全ての人が持っている事に気付くべきでしょう。

そこで迷惑とは何か?他人が嫌がる事です。

他人と自分は同じ気持ちを持ち合わせていますから、自分がされたら嫌な事を他人

にする事、それが迷惑をかけているという事なのです。


みんな違います

2007年09月29日 | 真理
家庭であれ、保育園であれ、学校であれ、職場であれ、集団生活の中では協調性が必然的に求められます。
皆がみんな、必要最低限のルールを求められ、そしてそれを守っていく事でそれぞれの集団生活が成り立っているのです。

ところで、皆さんのまわりにこの集団生活を乱している人、いませんか?
ルールを守らずに片付けをしないで散らかしっ放しにしている人、他人の悪い所ばかりを非難する人、わがままによって他人と衝突ばかりしている人など。
考えるときりが無さそうですが、とにかく他人を不快にして迷惑ばかりかけている人です。
このような人たちがまわりにいると、その集団の人間関係がだんだんと乱れていきます。
じゃあその人たちはあまり相手にしないでおこう、まあそうなっても自業自得だ、という発想になる事もあるかと思うのですが、ここで他人に迷惑ばかりかけている人に気づいている人達が忘れてはいけない事もあると思うのです。

それは何か?

みんな違います、という事です。

何が違うのですか、それは、遺伝子が違うのです。
人間として一つの生を授けられた以上、必然的に容姿や性格、能力などが違っているのです。
その違いは当たり前ですが、更には一人ひとり周りの人的環境も物的環境も異なっているのです。
人はそれぞれ、それぞれにあたわった境遇に従い生きているのです。
そして一生を懸命に生きています。
社会的に善人でも悪人でも、自分自身の為に。
人はそれぞれ、自分の人生を生まれる前に、みずから選んでこの世に誕生して来る訳ではなく、自分にあたわった人生を懸命に生きているのです。

であるから、もし自分が『自分の嫌いな人』として生まれていたならば、自分は『自分の嫌いな人』になっていたでしょう。
もし自分が『自分の好きな人』として生まれていたならば、自分は『自分の好きな人』になっていたでしょう。
もし自分が『小泉純一郎』として生まれていたら『総理大臣』になっていたでしょう。
もし自分が『宮崎勤』として生まれていたら『少女連続誘拐殺人犯』になっていたでしょう。
もし自分が『松嶋菜々子』として生まれていたら『人気女優』になっていたでしょう。
などと挙げていけばきりがありませんが、一方的に、その人を非難できないのです。
社会の仕組みにも、少なからずその原因があるのです。
だからといって道徳に反する人たちを弁護する気は毛頭ありません。

私が言いたいのはそれぞれが輝ける可能性を秘めているし、周りがそれを手助けしていけたらと思うのです。
その人の行いは否定しても、人格は否定しないという姿勢が大切です。

阿弥陀経には、蓮の花が「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。微妙香潔。」「青色の花は青色にひかり、黄色の花は黄色にひかり、赤色の花は赤色にひかり、白色の花は白色にひかり」とあります。
この言葉は私達に、それぞれの存在をそのまま認め、皆が輝ける社会を示してくれているのではないでしょうか。

『自分だけが主人公』の社会ではなく、『みんなが主人公』で生きれる社会を模索して止みません。

合掌

子どものための安全基地

2007年09月28日 | 仏教的 『子育て』
安全基地、それは子どもが安心して過ごす事ができる空間です。
この空間はどこかにある特定の場所という意味ではなくて、子どもが心的に感じる安らぎの居場所です。
これは、子どもが情緒的に安定しているかどうかの、1つのバロメーターです。

家の子どもは親の言う事を全く聞かずに、思った事を遠慮せずに話したり、そして我慢する事なくわがままな姿を見せたりして「この子大丈夫かなぁ」と感じる事があるという方はいませんか。
また家の子は喜怒哀楽が少なく、素直でおりこうさんで我慢する事ができて、自慢の子どもだという方はいませんか。

年齢によっても違いますが、今挙げたようなお子さんであるならば、健全な安全基地で育っているとはいえないかもしれません。
情緒の安定を得にくい環境で育っている可能性があります。

前者の場合は、自分で物事をじっくりと落ち着いて考え、その上で行動するという心を育てる為の落ち着ける安全基地がないのかもしれません。
また後者の場合は、自分の健全な欲求でさえ、はねつけられてしまう、絶対的な支配者の基にいる為に、のびのびと自己を表現する心を育てる為の安全基地がないのかもしれません。

子どもは、どこかで自己をのびのびと表現する場所が必要ですし、またどこかで自己を見つめ、自分を自制し、落ち着きを持って行動できる場所も必要です。
どこにいても人が必要です。
色々な感情の人、色々な性格の人を見る事で、多くの事を学んでいきます。
だから親は子どもに、色々な人的物的環境を与えてあげたらいいと思います。
そこで沈没しない為に、親は子どもの為に健全な安全基地、いつでも安心して見守ってくれる安らぎの居場所を提供する必要があります。
そこはわがままを受け止めてくれたり、わがままではよくない事を気付かせてくれたり、喜怒哀楽を受け止めてくれたり、頑張っている時に褒めて勇気付けてくれたりする場所です。

その時その時に応じた健全な安全基地があってはじめて、外界に身を乗り出しても沈没しない船になれるのです。

合掌

子どものための環境

2007年09月28日 | 仏教的 『子育て』

子育ての基本は、子ども自身が納得しながら、他人との正しい関係に自ら気づいていく、その環境を用意してあげる事であるかとも思います。
環境といっても、物質的な環境ばかりではありません。
心的な環境もとても大切です。

心的によい環境とは?という事ですが、これはまぁ、親の関わり方といった所であるかと思います。
個々の子どもに応じた適度な関わり、その時その時に応じた適度な関わりが必要です。
子どもが子ども自身で考えなければいけない時に親の意見を加え過ぎたり、また子ども自身で解決できない時に親がしっかりと関わらなかったりする場合は意外と多いのではないでしょうか。

例えば、与えられた宿題をいつもしようとしない子ども。「ちゃんと宿題しないとダメじゃないの!」と叱られてから嫌々している。
これがずっと続いている状態では、いつか宿題をしなくなるかもしれません。
その子どもは自分をしっかりコントロールできていないのです。しない理由は幾つかあるかもしれません。
勉強が解らないから、面倒臭いから、忘れているから等など。
しかし宿題はしていく意味がある訳ですから、していく事は子どもの為です。

それではどう関わるか。

勉強が解らない子どもには一緒になるべく楽しく問題を解いていく事が必要でしょうし、ただ面倒臭いだけならば宿題・勉強をする意味を納得できるまで教えてあげたらいいでしょう。
忘れている子どもには、していかなかったら困るのは自分だという事を一言言って思い出させてあげ、後は放っておいてあげたらいいでしょう。
適切な心的環境とは、子ども自身が気付くように、親が感情的にならずに第三者的なその時に応じたアドバイスを与える事であるかとも思います。

子育てにおいての言葉・かかわり

2007年09月27日 | 仏教的 『子育て』
どのような言葉・関わりがよいのでしょうか。
先ず自分が伝えうる言葉・関わりは自己中心性に根付いたものだと考えて間違いはないでしょう。
仏教では自己中心性というものを強く否定していきます。
これは自己破滅のもとです。
であるからこそ、子どもに関わる時は、まず一息置く事が大切です。
自分が子どもに対して感じた事をそのまま口に出さずに、自分の心の中で、それを分解してみるのです。

例えば、子どもがおもちゃで遊びたいだけ遊んで片付けず、次に違う事をしようとした時、部屋中がくちゃくちゃの状態になっているのを見ると、感情的になってしまって
「出しっ放しにして置いたらダメでしょ!きちんと片付けなさい!」{
という言葉が無意識の内に出てくる事も多いのではないですか。
しかしどうでしょうか。よく考えてみると、その言葉の裏側には、綺麗にしておくのが正しくて、散らかしておくのはダメな事、というその人の勝手な自己中心的否解釈に基づいているのではないでしょうか。
もちろん環境を綺麗にしておくのはとても大切な事です。
私が言いたいのは、その1つ前の段階なのです。

なぜ綺麗にしておかなければいけないのですか?

それは次に使う時のために、また次に使う人の為にという事があります。
また、物を無くさないために、という意味合いもあります。
更には、整った環境は無意識の内に心がざわつかず、落ち着きを保つ助けにもなるでしょう。
最終的には、計画的なものの考え方にも繋がっていきます。
 
この事を一回一回、子どもと落ち着いて確認していく事です。
その忍耐強さが、子どもに、他人の感情に干渉されずに、落ち着いて考える力の獲得や、自己納得による積極的な行いに繋がっていくのです。
このような粘り強い、一息置いた関わりの中で、人間としての正しい自立に繋がっていく事が多いのではと言いたいのです。

言葉のお守り

2007年09月27日 | 仏教的 『子育て』
人間とは、自らの気づきによって、人格が成長していくものだと思います。私自身の経験から感じる所から言いますと、自分が納得して気づいた事は、自分の心の中で大きく位置付けられ、自分の中で素直におこなっていこうと思えます。

しかし一方的に「○○しなさい」と、命令口調で言われると、なんだか上から下に強制のように感じてしまって、なかなか素直に「分かりました」とうなづけないのです。心に残るのは、従わなければいけないのなら、従わせる方にまわった方が得だ、という勝ち負け心理です。健全な意味での勝ち負けへのこだわりは問題ないと思いますが、身近な人間関係の中での一方的な支配によって生じる敵対心、そこから成り立った関係は『憎しみ』を生み出します。その『憎しみ』は結局はどこかでつけが回ってくる。自らを知らず知らずの内に苦しめていくのです。

子どもの為だと思って言っていた「○○しなさい!」との言葉が、50年後に逆になって子どもから「○○しなさい!」と言われ肩身の狭い思いをしなければいけない現実に苦しんでいる人も少なくないんじゃないんですか。それでは、不幸過ぎます。せっかく手塩にかけてこの子を育ててきたのに、と思っても後の祭りです。それは想像しただけで恐ろしい老後である事が容易に想像できるでしょう。


人と話す時は直前で一度息をのむ。

そして今話そうとしている言葉は、心から相手を思いやる所から出てきたものか確認する。

次に相手が聞いて『憎しみ』を感じず、『好意』を感じるような穏やかな言葉であるよう心がけて話す。


話す前に以上の事をほんの心の片隅に心掛けるだけでも、その言葉は、その人を守り、その人を苦しみから遠ざけ、その人を幸せな人生へと導いてくれる、お守りとなるでしょう。
 

子育て・育児 どんな価値観を育てる

2007年09月26日 | 仏教的 『子育て』
親の価値判断で、善悪、優劣、好き嫌いを子どもにぶつけていくのはどうでしょうか。
これはとても厄介なのです。
なぜかといいますとその価値判断自体がその人そのままになっていて、自分で誤った価値観を持っていても気づかないのです。

最近、虫嫌いの子ども達が多いと感じるのは私だけでしょうか。
特にゴキブリ。
ゴキブリ=殺すという方程式が身に付いている人は随分多いですね。
これはゴキブリにしたら迷惑な話ですよ。
自分達は生きるためにすべき事を、ただ淡々とこなしているだけなのですから。
その行為は実際には我々人間にも大いに役に立っている事でもあるのです。
不衛生な物を分解して我々の環境に貢献してくれているのです。
ただ彼らの糞や死骸などは放置しておくと、アレルギーの原因になるので気をつける必要がありますが。とにかく彼らは我々にとっても必要な存在である事は間違いありません。
しかしその様な正しい理に気づかずに一方的に嫌い、殺す対象に位置付けてしまうのは正しい価値観ではありませんね。
少し大袈裟かもしれませんが、私はゴキブリをやっつけようとする子どもと、やっつけるのをためらう子どもを見たらやっぱり、やっつけるのにためらう子どものほうが正しい育ちを感じますね。

相手の事を思いやる事のできる子どもになってほしい、と願う親が、殺される恐怖を感じながら生きているゴキブリの気持ちに気づいてやれないようでは、相手の事を思いやる事のできる子どもを育てる事は出来ませんよね。
ここで私が言いたいのは、
「生きものを殺してはいけません」ではなく
「無益な殺生はいけません」なのです。

命の大切さ

2007年09月26日 | 
私が僧侶になる前、以前、次のような矛盾に悩む声が聞こえてきた事がありました。
「命は大切だというけど、どんな人だって結局命を奪って生きているではないか」
ごもっともなご意見です。

命は大切だ、と言ったところで、蝿やゴキブリ、蚊や害虫などは、発見されたら殺すべき対象として、一般の認識が定着しています。
また美を表現するに至って草や木、花などは、大胆に切り取り飾る事でひとつのおもむきを生み出し、我々の営みを豊かにする対象になっています。
また我々の命を維持するための食料を得るために、食べる事のできる生き物を、お構いなしに殺生し、それが余れば、いとも簡単に捨ててしまう。
挙げればきりがありませんが、我々は他の存在の犠牲の基に成り立っているのはまぎれもない事実です。

だからといって「命は大切だ」と強く宣言する事は偽善だ。という方程式は成り立ちません。

仏が教える所の真実が見えてくると、まことに不思議な事に、全ての生きとし生ける生きものが素晴らしく、大切に思えてくるのです。
全ての存在に、その存在理由が見えてくる。
その存在が己の事のように大切に感じられ、互いを尊重しあって生きていく。平和な人間存在のあり方が「いのちは大切だ」という所に繋がっていくのです。

蝿やゴキブリは、人間が住む環境において、不要な不衛生な物を分解してきれいな状態に戻し、我々に返してくれます。
害虫なども正しい自然サイクルの基では必要なものなのでしょう。
美を感じるための生花などは、我々に自然の美の感性を養ってくれるでしょう。
必要量の食物の獲得は、食物連鎖を絶妙なバランスで維持していってくれる事でしょう。

仏教では『縁起』といいまして、全ての存在、現象が目に見えない所で繋がっている、自己と他は切っても切れない存在であると考えます。
自分の事が最も大切である我々一人一人が、他者の『自己が最も大切である』気持ちに気づき、お互いに尊重して、仲良く優しく平和に暮らしていく。
その為に「命は大切だ」と強く宣言するのです。
そして平和を願うのです。


合掌