『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

みささんへ

2011年01月28日 | 悩み事・質問


こんにちは
お返事ありがとうございます
うれしかったです

先日のコメントの通り
今を意識することで
パニックの克服、さらに
人として成長ができるのではないかと思っております
ヴィパッサナー瞑想の事を知り
すばらしい瞑想だと思いました
もう感情から逃げても辛いだけと実感していましたし
感情の向き合い方を教えていただいたように思います
少しづつ始めているのですが
今まで今を意識してこなかった私は
意識に注目しだすと
すぐに過去や未来に意識が飛んで行くのがわかります
そして多くの執着、不安などが浮き上がってい
ます
その瞑想を長い間していると
その浮き上がって来るものの多さに頭が休まらず、落ち込んでしまったりします
まだまだ感情に巻き込まれてしまっているという事でしょうね…
何か自分の悪い部分がたくさん出てきているようで
パニックの不安とは別の不安で落ち込んでしまいます
このような状態でもそのまま瞑想を続けるのがよいのでしょうか?




ヴィパッサナー瞑想は『気付き』の瞑想でもあります
それも、今の自分に気づいている状態を常に保つための。
みささんは過去や未来に意識が飛んで行くのがわかるということで
結構今に気付いておられるのでは
今の自分の心を自覚するということで確実に最初のステップを踏んでいます

これから大事なポイントは二つです

①『今の自分の姿勢・動き・行動に意識の全てを集中し続ける事』
 妄想・雑念は〈受け流す・考えない〉

②『ストレスを受け入れる』
 ストレスを感じる心は自分が過去において育ててきたもの
 ストレス過敏症になっている可能性もあります
 殆どのストレスは本当はストレスではありません
 他人事のように客観的に冷静に自分のストレスを受け入れ受け流すがポイントです
 

瞑想中、不安をあるがままに、仕方がない事だと受け流すことができないくらい心が支配されてしまうのなら座る瞑想はその都度止めた方がいいと思います
瞑想の説明にブログでは限界があります
後々瞑想会のようなものを行っていきたいと思っておりますので機会があれば参加頂けたらとも思います

質問に対する返事が噛み合っていなかったらすいません
私にとっても勉強になりますので疑問がありましたら何でも聞いて下さい

苦しみを無くす方法

2009年02月01日 | 悩み事・質問
『こだわり』は『苦しみ』を生み出します



『こだわること』

それは『苦しみという荷物』を持ち続けることです


『こだわらないこと』

それは『苦しみという荷物』を捨てるということです



『苦しみ』を無くしたければ

『こだわり』を捨てることです

ヒロさんのお母さんが幸せになりますように

2008年01月06日 | 悩み事・質問


高橋様へ
私のコメントにお答え頂き 有難うございます。
私は広島でいわゆる安芸門徒と呼ばれている浄土真宗の家柄に生まれ育ちました。母親も熱心な信者でした。
元来 人を疑わず 素直な性格から
死後はお浄土に参らせて頂けることを信じて喜んでいました。
ところが 近年認知症になり、以後は言う事が全く異なっています。 《人は死ねばただ灰になるだけ 極楽も地獄も有りはしない》 と いった具合です。
確かに、 死後の世界については 根拠のない事ですが
誰しも 死に直面すれば 心の拠り所を求めたくなるのが人情でしょう。
せっかく信心を頂き 喜んでいても 脳障害者になれば広大無限といわれている仏の力も及ばないものかと思うと・・・
年老いた母が とてもふびんです。
仏教の教えの中では
どのように説いておられるのでしょうか?

認知症になるのも その人が持って生まれた業というもの
 逃れる事ができない、 それほど罪深い人間だったというのでしょうか? あの優しい母がそれだというのなら 私などはとてもとても 浄土に行けることは叶わない身です。

いくらボケ老人となっても 死は怖いものだと思うのですが・・





ヒロさん、
世の中の真理は『無常・苦・無我』です
この世に存在させていただいている以上、誰の身にも悲嘆な状況が襲ってくる可能性は無きにしもあらずです
水は下へ、下へと流れおちてゆきます
もし水が上へ上へと流れていく事があれば、あなたが今感じている悩みを解決する方法があるでしょう
しかしあるがままの現実の苦しみを転じ消し去って安楽にする方法をブッダは教えてくれていません
『無常・苦・無我』というこの世の絶対的な当たり前の真理を、一般世間は『常・楽・我』という無意識的な認識から超える事は出来ません
この世に対する認識力の根底をくつがえす『覚り』を体得しない限り、苦しみは減っていかないでしょう
細かい仏教・浄土真宗の教義ばかりを逐一述べていってもあなたの問題は解決しないことは分かっています
あなたの苦しみを除き去る方法は一つ
あなたが今の苦しみを諦(あきら)めそれを受け入れる事です
それが覚る(諦める)という事かと思います

私にも母はいます
幼いころは絶対的で永遠に母親であり続けてくれる当たり前の存在だと思っていました
しかし最近母も年をとり、白髪になり、しわも増え、肉も垂れ下がり老人への道をまっしぐらです
私が幼いころに抱いていた絶対的な、たくましさは消えています
まさに無常の悲しさです
仏教を学んだ私には、母が命のはかなさ・虚しさの内にこの世の無常に沿って死にゆく未来も容易に想像できます
しかし、だからこそ、今は母に心から優しくできるのです
無常を学ぶ以前には思ってもみなかったいたわりの心で母に尽くすことができるのです

こんな心を込めて伝える事が出来ない、コンピュータの画面上ではヒロさんにブッダの心を『以心伝心』することはできません
けれども
あなたの命が生かされ続けているこの世の瞬間瞬間で無常を感じ続けられてはいかがでしょうか
あらゆる命と触れ合う瞬間瞬間
全ての命があなたに無常の生き方を伝えくれ続けているはずだと
わたくしは思います
雑草であろうと
花であろうと
小さな虫であろうと
食卓にのぼる魚や鶏や豚や牛であろうと
目覚まし時計の代わりにさえずってくれる鳥たちであろうと
あなたを喜ばす人たちであろうと
あなたを悩ます人たちであろうと

極楽も地獄も
別の世界が死後にあるわけではありません
この世で生きる喜びを、熱心な仏教徒なら感じたはず
人を疑わず、素直な性格で、優しいお方なら
多くの人々、生き物に、善き行いをしたはずです
死後は心配ありません
あなたがお母さんから受けた善行(功徳)を
ただただ感謝の気持ちで返してあげれば
あなたのお母さんの幸せは続いていくでしょう

ヒロさんへ

2008年01月06日 | 悩み事・質問



私は55才の男で 仏教についての知識はあまりありませんが
代々浄土真宗の家柄です。
子供の頃は親に連れられ お寺でお説教を聞いていました。
いつも疑問に思っていましたが お寺では誰も質問をしません。 仏教はいくら聞いても疑問がとけません。 なぜ 聞きたい事を教えて頂けないのでしょうか?
こちらのブログでは 質問に答えて頂けるのでしょうか?
質問にお答えできるだけの 力量のある方のご指導願いたい
 それと 管理人様のハンドルネーム 教えて下さい





ヒロさん、コメントありがとうございました
まことに鋭い質問だと感じました
僧侶からの一方的な説教だけでは仏教ではありませんからね
ちなみに私は寺の家に生まれ育ったのではありません
自ら望んで僧侶になったのです
私はとくに原始仏典を中心に仏教を学び
心からブッダが説いた真理に基づいた教えを信じています
私が学んだ仏教でヒロさんの疑問に出来る限りこたえれたらと思っています
名前は高橋といいます
これからも『みんなのお寺』いつでも気軽に利用してください

“正しい宗教”“正しい宗派”とは?

2007年11月09日 | 悩み事・質問


“正しい宗教”って・・何なのでしょうか?

日本には、いくつもの宗派がありますが、
どれが正しくて、どれが正しくない…
なんて?あるのでしょうか。




以下はあくまで私の考えなので参考までにして頂けたらと思います

宗教とは人生において宗(むね)・基本とする教えであると思っています

人間は大概、苦しい時に宗教に頼るわけですが、苦しみも人によって様々です

苦しみを解決したい時には藁にもすがりたくなるのが人間なので、解決する方法を説く宗教なら何でもよくなる場合が多い

だから結果的に大金を巻き上げたり、殺人までするような誤った宗教を信じてしまう人も出てくる

幸せを求めて逆に不幸になってしまう、これは誰の目から見ても正しくない宗教です

幸せを説いて聞いた人が幸せになる事が出来る、これが正しい宗教だと思います

しかしそれだけでは説明不足です

それは幸せの質です

人間の本能的な欲望から来た『幸せ』の目指す所は、無病で長生き、痛い思いをせずに自分の思いに叶った楽しみを味わうといった所ではないでしょうか

現代はまだまだ科学が人間の欲望に追いついていないから、自分たちの力でどうしようもない所は、祈願されたお守りに頼ったり、祈祷、おはらい、占いなど、神様や霊能者などについつい頼ってしまいます

これは苦しみから逃げているだけで、私にとっては正しくない幸せの質です

私が正しいと思うブッダから教えてもらった『幸せ』の質は、

苦しみを知り

苦しみを受け入れ

そして苦しみを乗り越える

その方法・ことわり(真理)を学び、その道を歩む事でもあります

その延長線上に、全ての生きとし生けるものの幸せを心の底から願う事が出来る、最高に幸せな境地も付いてくるのだと思います

そのような崇高な教えが広まれば、多くの人々が自分の外界に思いやりを持つことができる

みんながたがいに思いやり、真の幸せに近づいてゆけると思っています

これを人生の宗・基本とすることで平和に近づくように感じます

これが私が考える『正しい宗教』といった所でしょうか


また宗派についてですが、率直に申し上げますと、私が深く学んだのは一つの宗派だけなので、これが正しくてこれが正しくないとは言い切れません

しかしブッダが生きていた時に説いた教え(約2500年前)は間違いなく正しいと私は思っています

だから私は一番古いお経を中心にブログを書いています

時間と空間を経て、その時代に合わせて仏教は変容してきました

私の見解で、この教えは正しいとか正しくないと感じる事はありますが

仏教が言う所の真理が正確に説かれていれば、まあ、間違ってはいないかなぁと思っています


みんなのお寺への質問

2007年11月06日 | 悩み事・質問


悪口をいったらだめですね。
気をつけます。ぜーんぶ繋がっているから、結局自分のところに帰ってくるんだね。
 でも、気づかないうちに相手がいやな思いをしているときもあるけど、それはどうしたらいいんですか?



『人は、角を立てながら他人を損ない
 人は、他人を損ないながら他人を傷つける
 人は、他人を傷つけながら己を省(かえり)みて
 人は、己を省みながら角を立てることを知り
 人は、角を立てることを知りながら丸くなることを知る
 人は、丸くなりながら苦しみを見つめる時がある
 人が、苦しみを見つめる時正しい宗教を求める
 私が正しい宗教を求めた時ブッダの教えがあった』

私が書いた『角を立てながら』という詩です

自分自身の悪口(あっく)という行為に気づかず角を立てている時

他人を傷つけてしまう

そういったことは気付かずに行っているかもしれませんね

悪口を言って角を立てている事に敏感になる為には慚愧(ざんぎ)の心を育てる事をお勧めします

慚愧(ざんぎ)とは自分が行った悪い行為について恥じるという事です

慚と愧を分けて説明してみますと

慚は内心に恥じる、自分が行った悪い行為に対して自分自身が恥じる事で

愧は外心に恥じる、自分が行った悪い行為に対して人の目に対して恥じる事です

人を傷つけ悪い事をしてもへっちゃらな人っていますよね

その人はこの心が育っていないのです

悪い事をした時に、「申し訳ない事をしてしまった~」と心で感じる気持ちが育つ出発点は自分を大切に思えるようになったときです

私は愛されているんだ

と無上の慈しみの愛情を与えられた人です

子どものうちに母や父、祖父や祖母などから無常の慈しみの愛情を与えられていれば自分を愛することができる人間になることができます

自分を愛することができる人間は無意識のうちに他人の気持ちにも敏感になり、自分が思うところの思いやりを他人にも持つことができるのです

しかししっかりと慈しみの愛情を与えられずに育っている人は、自分を大切に思えませんから、自分を滅ぼしていくような行いや悪い人に近づいていく傾向が強いです

また思いやりの心も非常に少ないので他人に対して悪い事をしてもへっちゃらです

話は少しずれましたが、大切なのは慚愧(ざんぎ)の気持ちを常に持ち、自分が角を立てていることに気付き、それに敏感になり続ける事が大切だと思います

その気付きを肯定的にとらえて、次からは同じ過ちを繰り返さない、その気持ちが最も大切です

また自分を大切だと思えない心を持っている人は自分を慈しんでくれる誰かを見つけるか、また周囲の人がそういった地域社会をつくっていってあげる事です

ブッダは、人の行為を非難しますが、人格を否定することはしません

仏弟子の悪い行為に対し、心の底から懺悔すれば許してくれました

「嫌な思いさせてしまいませんでしたか?すいません」

この一言で自分の心も相手の心もすっきりするものです

Q 仏教の世界では、天候に対してどのように考えるのですか?

2007年10月08日 | 悩み事・質問

仏教では、全てに対して『こだわり』を捨てなさい、と説きます

晴れにも、雨にも、曇りにも、雪にも、全てに意味があると考えます

暑かったり、寒かったり、雨が降ったり、雪が降ったり、それを嫌だと感じるのは自己中心的な意見にすぎません

自己の『こだわり』を捨て、全ての天候を受け入れる

その様な考えを保つことで、世界の美しさ、人間の命の甘美さが感じられる様に思うのです

質問 1

2007年10月01日 | 悩み事・質問
Q

自分が日頃から考えていることですが
人は一体、何のために生きているのでしょうか?
人はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのでしょうか。



みんなのお寺への初めての質問、ありがとうございます

仏教では真理以外を、こうである!と断定することはしません

人は何のために生きているのか?答は一つではないと思います

人が生きている理由は一人一人その理由が違っているでしょう

お金のため、家族のため、恋人のため、自分のため、食べるため、仕事のため等など

一つ確かに言えることは、「生きるために生きている」ということでしょう

生きるための行為、呼吸をすること、飲むこと、食べること、眠ること、環境に合わせて服を着ること、住居を得ること

ほとんどの人は、このような必要最低限の行為を保っていかないと、生きていけないでしょう

あったりまえなことを言うなぁ、と思われるかもしれません

しかしこの当り前な事を一つでも我慢してみてください

当たり前であった事が、実は当り前ではなかった、実にありがたい、奇跡的な事であると気付かされるのではないでしょうか

自分が「生きている」のではなく目に見えない多くの力によって「生かされている」と心から気付いた衝撃的な瞬間が、仏教が言う所の、死を筆頭としたこの世の苦しみからの脱却の第一歩なのだと思います

そして仏教の真理を体得すると、苦しみなき幸福な世界の中で生きてゆける

そこを目指して生きている、これが仏教的な生きる意味だと思います


また仏教では『縁起』を説きます

『全ては繋がっている』といった所でしょうか

人は自らの行いに基づいた所から来て、自らの行いの報いを受けて未来に進んで行くのではと考えています

ブッダは、人はどこから来て、どこへ向かっているか、なんて事の答えはいくら考えても答えが出ない事だからあんまり考えるな、と説かれています

そんな事を考える前に、心をきれいにする為の修行をしなさい、というお言葉が聞こえてきそうです