『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

仏教からみたADHD

2010年12月26日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
Q 

はじめまして。ADHDと仏教について調べていてたどり着きました。
よろしければADHDとあなたのおっしゃる『集中力』との関係についてのお考えを詳しく説明してください。





質問ありがとうございます

『ADHD』とは

1.不注意(物事に集中することができず、忘れ物が多い)
2.多動性(落ち着きがなく、じっとしていることができない)
3.衝動性(思いついた行動を唐突に行う、順番を待てない)

の特性を持ち合わせた発達障害だそうですね
子どもに関わらず、大人でも持っているもので

遺伝的要因
出産時に生じた障害などによる脳の形態学的な異常
脳内の神経伝達物質(ドパミン・ノルアドレナリン・セロトニンなど)のバランスの乱れなどの機能異常
環境的要因

などが原因だそうで
薬物療法や行動療法や心理療法などの治療法が使われているということですね

私は保育士であり僧侶でもありますから
その両面の知識・経験からの考えで説明させていただきます


『ADHD』は
1.不注意(物事に集中することができず、忘れ物が多い)
2.多動性(落ち着きがなく、じっとしていることができない)
3.衝動性(思いついた行動を唐突に行う、順番を待てない)

が顕著ということですが、このような性質の人は結構そこら中にいるような気もします
『多動性』は大人になると改善されていくと言われているようですが『不注意』や『衝動性』は大人になっても残るということらしいので何だかうなずけます
私自身そうですから



『ADHD』は集中力がないと言われているようですが
仏教からみれば『ADHD』は
集中力がないのではなくて
集中する対象が無意識にめまぐるしく移り変わっているように見えます

私が言うところの集中力、それは
『今の瞬間に気づいていること』
です

集中する対象を『意識』する
集中する対象に『気づいている』

このように集中力を正しく働かせる
それが改善への出発点のように見えます

今に気づく訓練、それと
『環境』を整えれば『ADHD』は目に見えて改善していくと思います


心の検診・精密検査をする方法①

2010年11月18日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
『がんの宣告』
それはそれは恐ろしいものです
突如、そんな状況に陥ったらです
『がんの宣告』は『命の期限』が明記されるようなもので、『がんの宣告』をされたら生きた心地がしなくなるでしょう

しかし自分のことでないと非常に冷静な『人間』は
私達の体の維持と引き換えに『命』を提供してくれている尊い動植物を『消費期限』『賞味期限』で簡単に線引きしてしまいます

他のことはさておいて自分が『がん』であると分かったらどうするでしょうか?
日常生活にどっぷりとつかってしまっているならばそんなことはほとんど想像もしないでしょうが
実際になってみると、それはもう苦しくて藁にもすがりたくなり、ありとあらゆる手段を尽くして『がん』を治そうとするでしょう
早期発見ならば、完治の確率は高くなりますが
発見が遅いと『苦』、でしょうか

当り前な事ではありますが、大切なのは定期的な検診でしょう
大事に至らないために定期健診が義務的に推進されていますし、必然的な事でしょう
そうは言っても『俺なら大丈夫』と思っている人は結構いるでしょうけど…
今日の日本社会の中では『体の病気』に対してある程度の対策は取られています

ところが『心の病気』にたいしてはどうでしょうか?

仏教では『縁起』を重んじますので『体の病気』は『心の病気』からきている場合が少なくないとみます
『病は気から』と書いて『病気』です
『心の病気』を発見・治療すれば『体の病気』は結構防げるのです

そんなこんなでございますが『心』を検診・精密検査するということすら提案する人が殆どいない、というのが現実でしょう
『心』の検診・精密検査なんて出来る訳がないと言う人もいるかもしれません

しかしその方法は存在します
血液検査やレントゲン、CTやMRIなど様々な方法で体の病気を発見するように
『心』の様々な病気を発見する方法が……続く

どこにアイデンティティーを置くかで幸せが決まる

2010年11月09日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
 アイデンティティー

=自己同一性

=自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念



もし自分が津田裕憲であるならば

もし自分が保育士であるならば

もし自分が僧侶であるならば

もし自分が富山県民であるならば

もし自分が日本国民であるならば

もし自分が地球人であるならば

もし自分が仏弟子であるならば


自分は○○である、と心を定めることによって、自分の生き方は違ってくると思う

どこにアイデンティティーを置くべきか?


未熟な段階で一個人におけば自己中心的に陥りがちで…

健全に成熟して一個人におけば気高くたくましい存在になったり…

職業におけば仕事人間になるような…

民族単位で区切れば郷土愛を生んだり、郷土に誇りを持ったり、縄張り意識を持ち排他的になったり、時には侵略的になったり…


とにもかくにもアイデンティティーをどこに置くかでその人の人生は大きく左右されると考えられます


今私にとって必要なアイデンティティーは

地球人であり、仏弟子であります


地球は私にとって唯一無二のかけがえのないよりどころで

地球が壊れてしまったら、地球上の命の中に生かされている仲間たちと共に生きていく事が困難になっていきます


仏弟子でなかったら、私は罪を罪とも思わず、悪行為を積み重ね、正しい理を重んじることなく『人生の目的』を見失い、人生がまっこと苦しくなるでしょう


私は唯ただ『安楽』な世界で生きていたいから

地球人であり、仏弟子で生きていたいと強く思う、今日この頃でございます


合掌


『漢字』は楽しい

2010年01月14日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
漢字を観察すると実に面白いです

毎日そんなに深く考えることなく何気なく使っている漢字

しかし漢字の一つ一つ、更に漢字を構成する一つ一つのパーツをじっくり眺めてみると

漢字をつくった人たちの、その時代の、智慧や心がうかがわれます


人間は心を伝える伝達手段として

『言葉』を創り、それを開発していった

そしてその言葉を、場所や時代を隔てても正確に多くの人々に伝えれるように

文字を創りました

その文字を、さらに視覚的に分かりやすく開発されたのが『漢字』


このような先人たちの智慧や苦労を思うにつけ

『漢字』は実に意味深く…楽しいです


仏教用語で使う数々の漢字の中で『正念』という漢字があります

『正念』は八正道の中にも出てきますがそれは仏教用語の中でもとても重要で

それを表すためのお経があるほどです

その『正念』の中の『念』を分解してみると

『念』
 ↓
『今』+『心』
   ↓
『今の心』

『今の心』とは今の瞬間に心の中でおもっている『こと』です


そんなわけで『正念』の意味は

『今の瞬間の心の中にあることを正確かつ冷静に、気づく』

といった解釈ができるのです


『今の瞬間の心の中にあることを正確かつ冷静に、気づく』ことができているならば苦しいことがとても少なくなり毎日が楽しいものとなるとブッダはおっしゃっておられます


「先生がたくさん宿題だして嫌だなぁ」

「なんで私ばっかり家事育児しなければいけないの!」

「いつもこき使ってばかりで嫌な上司だ!」

「雪搔き大変だから雪降らないでほしい」

等々多くの不満が生活の中にありますが

あるがままをありのままに観察・把握しし、今の瞬間の行い・動きに気づいていれば小さな子どものように毎日を新鮮に感じて楽しく生きていくことができるとブッダは私に教えてくれましたし、その通りでした




このように仏教用語を一つ一つ、じっくりと観察し興味を持って触れるならば

必ず仏さまの有り難い恩恵を授かり、楽しく生かされることができると思います


合掌


ポジションが自覚を、自覚がモチベーションを生み、幸福・成功に至る

2009年10月04日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
人は節目節目でポジションを変えている

それに気づいていない場合がほとんどであるが…


『時間的』には、『初心者』から始まり、経験を積み重ねるごとにそのポジションで『熟練者』に近づいていく

『組織的』に1つの団体に所属すれば、何らか特定の役割を担う

入学、入部、入社、転職、出生、家族などにおいて何らかの役割(ポジション)を担い任されて、その人の成長が促されていく


ポジションが時に応じて変わっている私たちであるが、宗教の根本的な意味合いの一つとして『幸福に生きる教え』を発信していく立場から言わせていただければ、我々人間はこのことに常に敏感であるべきであると思う

なぜならば『地球という社会』を形成していく影響力がまことに大きい我々人間のポジションの認識次第で、我々生命の存続を左右しかねない環境問題が、それが社会問題にもつながり、更には人間形成にもつながって、最終的には一個人の人生の幸福にもつながっていくからである


新しいポジションにつき、そこでうまく活躍して生き残っていくためには自覚が必要になってくる

野球でピッチャーがライトライナーをキャッチすることは出来ないしそんな事をしようとするバカはいません

そこには自分がピッチャーであるという自分の『ポジション』を『自覚』しているからです


『自覚』した後、更にそのポジションで活躍するためには次に『モチベーション』が必要になってきます

ピッチャーはバッタを抑える!というモチベーション(目的)が強ければ強いほど工夫・鍛錬を自らの意思で繰り返し、自然といいピッチャーに成長していくでしょう


人生という舞台では事あるごとに節目節目でポジションが変わっていきます

そこに敏感になり、正しく自覚して、正しいモチベーション(目的)を持つことが、その人の幸福につながっていきます


何かにつまずいていたり、道から外れている人がいたら、さりげなく、思いやりを持って他者を支え見守っていくことをブッダは教えてくれています


『便利』の前に 

2009年09月22日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
『便利』を好み利便性を最優先していく人がこの頃、目立つ

『便利』は『手間』を省ける

楽ちんです

しかし過剰に『手間』を省けば、物事の『道理・理(ことわり)』を学ぶ機会を減らす

『道理・理(ことわり)』を知らなければ『人とのつながり』によって支えられていることに無関心になりがちになる

『人とのつながり』が無関心になれば『希薄な人間関係』になる

『希薄な人間関係』になったら社会を身近に感じない

社会を身近に感じることができなければ

社会を大切にしない

地球を大切にしない

命を大切にしない


『便利』の前に

物事の『道理・理(ことわり)』があって

『人とのつながり』『命とのつながり』があって

その上で『便利』を追求していく

そんな感じがいいような

そんな気がした今日この頃でありました


何によって人生が決まるのか

2009年09月03日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
『何によって人生が決まるのか』


それは

その人が好きなものによって決まるともいえます

その人がカッコいいと感じるものによって決まるともいえます


人は好きなもの、カッコいいと感じるものに

引き寄せられます

吸引されます

追いかけます

自動的にその方向に向かっていくのです


更には、その人が持ち得る『縁』により

周囲の物的環境・人的環境が大なれ小なれ重なって

その人の歩んでいける今の道

今の状況があるのです


だから幸せな人生を歩みたければ

歩ませたければ


本当にいいもの、素晴らしいもの、為になるものを

好きなもの、カッコいいもの、魅力のあるものに

位置づけていく


それが好奇を生みだす、魅力的な社会の形成に繋がっていく


そんな社会を模索していく

そんな社会を創っていく


そんな世界のビジョンが浮かんだ今日この頃です