『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

『便利』の前に 

2009年09月22日 | 仏教的ものごとの見方・とらえ方
『便利』を好み利便性を最優先していく人がこの頃、目立つ

『便利』は『手間』を省ける

楽ちんです

しかし過剰に『手間』を省けば、物事の『道理・理(ことわり)』を学ぶ機会を減らす

『道理・理(ことわり)』を知らなければ『人とのつながり』によって支えられていることに無関心になりがちになる

『人とのつながり』が無関心になれば『希薄な人間関係』になる

『希薄な人間関係』になったら社会を身近に感じない

社会を身近に感じることができなければ

社会を大切にしない

地球を大切にしない

命を大切にしない


『便利』の前に

物事の『道理・理(ことわり)』があって

『人とのつながり』『命とのつながり』があって

その上で『便利』を追求していく

そんな感じがいいような

そんな気がした今日この頃でありました


とってもかわいい訪問者

2009年09月16日 | 修行日記
今朝、我が家にとってもかわいい訪問者が来た

訪れた時間はほんの一瞬

姿形から推測するに

『鳶(とんび)』

忘れた頃に窓のサッシの下の方のわずかなスペースにとまる

鳶は鳶でも巣立ったばかりのよう


ちいさくて

ぽっちゃりして

まるい



訪れたその瞬間

私の心は『喜び』

『躍り上がり』

眼には喜びの液体が染みわたった


そして私に『雑念』が起こった


「デジカメで撮ろう!」と…


カメラを手に取る前にすでに鳶は飛び去ってしまった

写真に残そうとしたばっかりに

最高にかわいい訪問者との時間を

心から楽しむことはできず

『後悔』の『念』が湧いてきた


もし『雑念』を瞬時に消し去ることができたなら

この上ない、その瞬間しか味わえない

素晴らしいひと時になった気がする


ブッダは過去にも未来にもひきずられるな

と教えてくれている

ただその瞬間瞬間に気をつけていろと


画像・映像ばかりに気をとらわれすぎると

その瞬間の

心が通い繋がる喜びを

感じることができないこともあるのでは

と感じた

鳶との出会いでありました


合掌

『ダンマパダ 第一章 ひと組ずつ』 より

2009年09月15日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように
 
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う
影がそのからだから離れないように
 
「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った、彼は我から強奪した」
という思いを抱く人には、恨みは止むことはない

「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った彼は我から強奪した」
 という思いを抱かない人には、ついに恨みは止む

実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを持ってしたならば、ついに恨みのやむことはない
恨みを捨ててこそ止む
これは永遠の真理である

「われらはここにあって死ぬはずの者である」と覚悟をしよう
この理を他の人々は知ってはいない
しかし、この理を知る人々があれば、争いは静まる』

(『ブッダの真理の言葉感興の言葉』 中村元訳 岩波書店)



ダンマパダによって説かれているこのお経は

私が最も好きなお経の1つです

悟った人は説かれました

人間というもの、その生き物は

まず最初に心があり、それによって体を使い行動を起こす

その行動・行いによって報いを受けるのである

そして一人一人の行いが重なり合い社会が形成されていく


だから平和で安穏な世の中が営まれるためには

人間の行いを善きものとしていく

そのためには

一人ひとりの

心を

善きものとしていく


平和で安穏な世の中が営まれていくためには

ただそれだけだと

人生が変わります

2009年09月14日 | 仏教とは
仏教を学べば

必ず

苦しみは軽減します


仏教は

『葬式』

が中心ではありません


むしろ人生という長い道のりを

『幸せ』

に歩むための

生きている人のための

教科書という感じです


『心』

それを取り扱う

もっとも正確で古い教えです


『仏教は心の科学』

と明言した素晴らしいお坊さんがいますが

まさにその通りです


『心理学』は心の仕組みを探る現在進行形ですが

『仏教』は心の仕組みを解明したのです


車で例えて言うなら

『心理学』は車を解体中です

『仏教』は車を解体し終えました

更には最高の車をつくるための方法も教えてくれています

今でいえばプリウスみたいな車です


最高のものが欲しければ

最高の生き方をしたければ

『仏教』を学ぶべきです


『仏教』を学べば

人生が変わります


八正道の二番目 『正思惟』 その③

2009年09月13日 | 修行法『八正道』
③傷つけない


人間として生まれてきた以上、宿命として

食べる

これは必要不可欠です

食べるということは、他の命を奪っているということです

それでは『傷つけない』ということと矛盾してくるのでは?


ブッダの教えを、全ての人々に共有のものとして広めるのであるならば

『傷つけない』ということは

『無益な殺生をしない』

ということです

その『無益な殺生をしない』

という範囲の中に

『傷つけない』ことが入っているのです

自分たちが生かさせていただいている他の生物たちに

尊敬と感謝

そこから互いの命の尊重が見直されるのです


心の中に

『傷つけない』

その念いを持ち続ける

子どもでも知っている道徳を行うことは気分が良くなるものです

これが心を清らかにしていきます

それが悟りを求める者の道です



八正道の二番目 『正思惟』 その②

2009年09月11日 | 修行法『八正道』
『②怒らない』

心はある状況が訪れると、『怒り』を発生させます

その状況とは、自分が『いやだ!』と思ってその場から逃げたいと思った時です

『怒り』は他に対して怒鳴ったり暴言を吐いたりするようなイメージがありますが正確に言うとそうではありません

自分が嫌悪する状況から逃げたくて心が焦りいらだち怖れを感じているからです

通勤中に怒っている人はいっぱいいます

仕事に遅刻したら、上司からの叱責、待遇面のペナルティーが怖くて一分一秒を争っているからです

人は様々な場面で怒り恐れています

自分の欲望・思いがかなえられず苦しみを感じているのです


ブッダはその怒りを制御しなさいと言っておられます

その理由は

様々な苦しみを引き寄せるからです

『怒り』は連鎖します

『怒り』が心の内に滞在していると、大きなストレスになります

『怒り』を送った相手からはどんな形であれ仕返しが返ってくるでしょう

とにかく怒れば怒るほど『苦しみ』が大きくなっていくのです


それとは反対に『怒らない』

『怒らない』人に周囲の人々は安心します

怒らず、穏やかな人には善き噂が期待され、余計な『苦しみ』から守ってくれます

『怒り』がなく欲望を少なくしていくと『楽しみ』が増えます

『慈しみ』という最高の心が生じ育つための土台が心に生じてくるからです

『怒らない』ということは、『苦しみ』を遠ざけると同時に、『楽しみ』を引き寄せてくれるのです

八正道の二番目 『正思惟』 その①

2009年09月10日 | 修行法『八正道』
『思惟』とは『考える』ということです

ですから『正思惟』とは『正しく考える』ことです

ここでの『考える』は広域で、一般においては心が働いている状態すべてが当てはまるのではないでしょうか

(修行が進むと、心を観察・整理できますから全ての心の働きが『考える』とは言えないのですが、修行が進んでいない場合には感情が心全体に根を張っているので、ここでは心が働いている状態すべてを『正思惟』とさせていただきます)

正思惟とは?

①貪らない

②怒らない

③傷つけない

以上の三つです



『①貪らない』の説明

人間の心の根底ではいつも欲しがっています

それはなぜか?

生きるためです

体は生きるために呼吸をし、生きるために飲食します

更には生きる舞台が社会に広がります

自分の身の回りに、自分にとって都合のよい物事をどんどん引き寄せていきます

ひどい場合、お互いさまで自分が生きていけるという感覚・理性を失い、際限なく様々な物事を引き寄せていきます

ブッダは、物事を引き寄せると同時に『苦しみ』も一緒に引き寄せてしまう、という法則を見出しました

欲しい!と考え、物事を引き寄せれば引き寄せるほど荷物が増えて、心が『苦しみ』が多い状態になっていくのです
(荷物が多ければ多いほど、山登りは苦しくなります)

欲しい!ということは奪うということにもつながっていき、恨みを買い、敵を増やしてしまうので『苦しみ』がどんどん大きくなっていきます

欲望に伴って得られたものには、執着の心がくっつきます

執着が発生すると強力な接着剤で所有物を自分の心身にくっつけたような状態になっているので、自分から無理やり話されるとパニックに陥って苦しみもがき回ります

しかし無情にも得られたものは必ず離れていきます

得たものを失えば、それは『苦しみ』です



以上のような思考は『悪思惟』とブッダは見定めました

それと反対の

欲しがらない

欲しがる心、貪り・貪欲から離れる

それが『正思惟』です

心を常に無執着の状態にしてあげる

その心は自由自在な状態です

欲しがることは『苦しみ』を増やすことと見抜き

欲しがることから離れる『離欲』の考え方

更には、足ることを知る『知足』の考え方を心に根付かせ育てていくことが人間には大切なのです



『慈しみ』 スッタニパータ 143-152

2009年09月09日 | お経の紹介『スッタニパータ』
究極の理想に通じた人がこの平安の境地に達してなすべきことは次のとおりである

能力あり、なおく、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ

足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の人の家で貪ることがない

他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない

一切の生きとし生ける者どもは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ


いかなる生物生類であっても、

怯えているものでも、強剛なものでも、

ことごとく、長いものでも、大きなものでも、

中くらいなものでも、短いものでも、

微細なもの、粗大なものでも、

目に見えるものでも、見えないものでも、

遠くに住むものでも、近くに住むものでも、

すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも

一切の生きとし生けるものは幸せであれ


何人も他人を欺いてはならない

たといどこにあっても他人を軽んじてはならない

悩まそうとして、怒りの思いを抱いて、たがいに他人に苦痛を与えることを望んではならない

あたかも母が己がひとりごを命をかけても護るように、
一切の生きとしいけるものどもに対しても無量の慈しみの心を起こすべし

また全世界に対しても無量の慈しみの意を起こすべし


上に、下に、また横に、障害なく、恨みなく、敵意なき慈しみを行うべし

立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、伏しつつも、眠らないでいる限りは慈しみの心遣いをしっかりと保て

この世ではこの状態を崇高な境地と呼ぶ


諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを備えて、諸々の貪りに関する欲望を除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう


     (『ブッダの言葉』 中村 元訳 岩波文庫より)



スッタニパータの中にある『慈しみ』という詩

ブッダが唱えられた数あるお経の中でも私が最も好きなものです

全ての生きとし生けるものが幸せであるようにと願い思いやるブッダの心

そこには必然的に『慈しみ』と『正念』と『知足』が備わっています

このお経を読むたびにブッダの生の息づかいとともその肉声が聞こえてくるような気がします

ただただ、心静かに、味わうお経です

合掌