『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

禅定・瞑想⑥ 第四の瞑想段階

2009年05月03日 | 修行法 『戒・定・慧』
『第三の禅定の安楽を断ち、苦をも断つことにより、また第二禅において喜びと憂いとが消滅していることから、苦もなく楽もなく、『正念』がもっとも清浄になっている第四の禅定に達してそこにおります。かれは、この身体をば清浄で純白な心をもって満たして坐り、かれの体全身、どこも清浄で純白な心に触れないところはありません』


第四の禅定・瞑想の段階です

色界(物質だけが存在する世界)最後の禅定であり、次には無色界が待っています


心には苦しみの元となる感情はありません

さらに楽しみや苦しみなどさまざまな『感受作用』を超越している状態です

『正念』が隙なく心に働いている状態で、自己に起こる『苦・楽・非苦非楽』の感覚を客観的に観察することができます


我々が呼吸する瞬間瞬間に、生じては消えていく様々な感覚を客観的に観察し支配コントロールできている状態

あらゆる執着・こだわりからとき離れこの世の苦しみから離れた『悟り』が内にあります



禅定・瞑想⑤ 第三の瞑想段階

2009年05月02日 | 修行法 『戒・定・慧』
『さらにまた、第二の禅定の喜びを離れ、正念をもって生活し、安楽を身体で感じ、第三の禅定に達しています。かれはこの身体をば、喜びを離れた安楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく浸透させるのです。かれの体全身、どこも喜びを離れた安楽に触れないところはありません』


精神が一点に集中されていることを客観的に自己の内に気づく『正念』によってふと我に返る

自己の喜びなど内にある『感情』を客観的に感じながら、安楽を感じる

第三の禅定です

『感情』の中の『煩悩・悪魔』を見極め、そこから離れている状態を楽しむ世界です

禅定・瞑想④ 『第二の瞑想段階』

2009年04月25日 | 修行法 『戒・定・慧』
『さらに尋(じん)と伺(し)が無くなることによって、心が清浄で一点に集中(定)され、心の安定より生じた喜びと安楽のある、第二の禅定に達してそこにおります。かれはこの身体をば、心の安定により生じた喜びと安楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく浸透させるのです。かれの体全身、どこも心の安定によって生じた喜びと安楽に触れないところはありません』


心が一点に集中される

これはサマーディーといって、漢訳で三昧とも音訳されています

今でも〇〇三昧といった形で使われる言葉です

一つの対象に心が集中される

頭がスーッとして何とも言えない気持ちよさを感じます

言葉で表現しにくい世界です


心が一つの対象に集中するとはどういうことか

我々坊主はお経を唱えますがそのお経に完全に集中しているときに気持ちよさが訪れます

どんな分野の活動でも何か一つに対して興味が一つに集中した時は何とも言えない楽しさがあります

その極致が『定・三昧・サマーディ』です

そこに至る方法は種々様々です

壁にしろ炎や朝日や夕日など何かの一点・対象を見つめ続けるという方法もありますし、何か一つの概念を念じ続けるという方法もあります

とにかく思考を一つのことで満たすのです


『真理(無常・苦・無我)』で心を満たすことは素晴らしいことです


ここで一つのことに心が集中すれば

『心の安定より生じた喜びと安楽』が自己に訪れます

その状態が第二の禅定の段階です



禅定・瞑想③ 『第一の瞑想段階』

2009年04月25日 | 修行法 『戒・定・慧』
『様々な欲と悪を離れて、大まかな思考(尋)と細かい思考(伺)をまだ伴ってはいるが、欲・悪から離れることによって生じた喜びと安楽のある、第一の禅定に達しています。かれはこの身体を、遠離によって生じた喜びと安楽によって、潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく浸透させるのです。かれの体全身、どこも遠離によって生じた喜びと安楽に触れないところはありません。』


ここから色界に入りますが、色界は欲望の心がない、心の対象が物質だけになる世界です

外界の物質を認識しながらも心は清らかさで満ちた状態です


心にある欲と悪を全部捨てます

欲と悪を忘れればいいのです

もちろん七つの戒めにより、やましさ・後ろめたさが何も無くなっています

そのような欲望の世界から抜け出た状態にある心を楽しみます

例えるならば、絶景の露天風呂に入った後に綺麗な衣服に身をまとった時の体がまことに気持ちがよい状態

そのような気持ちが心に訪れます

ただ『尋』と『伺』が残っています

『尋』とは六つの感覚器官(目耳鼻口体心)が感じるものを意識が認識した瞬間・対象です

『伺』とは尋が心に残っている時間・対象です

落ち着きがなく集中力がない人というのは『尋』が意識の中に次から次に流れ込んでそれに振り回されているのです

そんな人は脳がそういうつくりで物事を長くじっくり続けにくい傾向があるので一つのことを考え続けれる環境をつくる必要があります


座禅で言う『無の境地』になるためにはこの二つを消さねばなりません

その二つを瞑想中に消せれば次の第二の禅定の段階へ行くことができます

禅定⑪

2008年01月13日 | 修行法 『戒・定・慧』

九番目の境地(想受滅・滅尽定)は完全なる覚り『涅槃・ニルバーナ』といいます
それは想(表象作用)と受(感受作用)が無くなった状態です
煩悩を起こし出す元を断ち切った状態になるので、その境地に苦しみが生み出されることはありません
四聖諦の三番目、滅諦・苦しみが無くなった状態です
ここが仏教徒の目指すところであります
人間が現実の生活の中で受ける苦しみを超えた生き方ができる境地、極楽・安楽国・彼岸・浄土など呼び方は様々です
私もそこを目指して日々の修行を重ねているのです


禅定⑩

2008年01月11日 | 修行法 『戒・定・慧』
第八番目の瞑想の境地、無色界最後の境地は
「想があるのでもなく想がないのでもないと観じる境地です」(非想非非想処)
言い忘れましたが七番目の境地は釈尊が出家してすぐ弟子入りしたアーラーラ・カーラーマ仙人が到達していた境地です
そして今回の八番目の境地はその次に弟子入りしたウッダカ・ラーマプッタ仙人が到達していた境地です
その二つの境地をすぐに覚った釈尊
釈尊は六年間の苦行に入る前に実はここまで体得していたのです
あと一つ上の境地に行けば覚ることができたのにその壁をすぐには超えられなかったのです
瞑想は釈尊在世よりもさらに以前から存在していました
(そこから派生した一つとして最近流行っているヨガがあります)
しかしその瞑想法だけでは涅槃・解脱の境地には到達できません
そこで釈尊は、苦行を六年間耐え抜いた後に、自らが発見し覚った永遠不変のこの世の真理を体得した上でここまでに述べてきた瞑想を利用して当時知られていた第八の瞑想の境地を超えていくのです
(釈尊が発見した真理に基づく瞑想は安全ですが、ほんのごく一部で、ただただ誤った知識のもとに瞑想を行って殺人を起こしたり不道徳な行為を行ってしまった怪しく危険な宗教が存在していましたし、もしかしたらまだ存在しているかもしれませんのでご注意を!)
その第九番目の境地は次回に述べたいと思います

禅定⑨

2008年01月08日 | 修行法 『戒・定・慧』

「さらにまた、修行僧は、すべてにわたり、『識別作用は無限である』と観じる境地を超え、『なにものもない』ということを観じる境地に達しています。かれには、以前の『識別作用は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が消滅するのです。そのとき、『なにものもない』ということを観じる境地という微細な真実の心理作用が生じます。そのとき、かれは『なにものもない』ということを観じる境地という微細な真実の心理作用を有する者になるのです。」(無所有処)

我々は生きている以上、様々な物を所有しています
しかしその所有物は、たとえ自分の体でさえも、いずれは(究極的には)死によって手放していかねばならぬ代物です
最初から自分のものではない、所有していない『無所有処』と思えばそれこそ心を束縛するものがない訳ですから、何事にも動じない心境を味わえる
そんな境地が存在するのです
それを味わえる第七番目の禅定・瞑想の境地です


禅定⑧

2008年01月07日 | 修行法 『戒・定・慧』

「さらにまた、修行僧は、すべてにわたり、『虚空は無限である』と観じる境地を超え、『識別作用は無限である』と観じる境地に達しているのです。かれには、以前の『虚空は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が消滅するのです。そのとき、『識別作用は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用が生じます。そのとき、『識別作用は無限である』と観じる境地という微細な真実の心理作用を有する者になるのです。」
(識無辺処)

ここまで来るとずいぶん難しくなってきます
「空無辺処」の場合は空間には限り・きわがない、というところで
「識無辺処」になると心には限り・きわがない、といったところでしょうか


禅定⑦

2008年01月04日 | 修行法 『戒・定・慧』

「さらにまた、修行僧は、すべてにわたり、物質的領域の心理作用を超え、物質的にさまたげるもののある心理作用が消滅して、さまざまな心理作用を考えないことから、「虚空は無限である」と空間の無限を観じる境地に達しているのです。」(空無辺処)

空間に区切り・限りがあると決め込んでしまう自己の固定観念を超えた世界に入ります

ここから無色界に入ります

ここからは物質自体も絶対的に固定した存在ではないという認識の領域です

禅定②下

2007年11月26日 | 修行法 『戒・定・慧』
心という器には五つのふたがあります

① 貪欲のふた
② 怒り・悪意のふた
③ 心が沈む・眠気のふた
④ 心がそわそわする・後悔のふた
⑤ 疑いのふた

この五つのふたがそれぞれの悪感情を心に閉じ込め、心の汚さを保たせるのです

煩悩であり、悪魔であるものです

悪魔はマーラといって(殺すもの)という意味です

マーラという言葉が中国で魔という漢字になり、それに悪を付けて悪魔となったのです

怖ろしい悪魔・煩悩の心を閉じ込めている蓋(ふた)がある、とは面白い発想ですね

仏教界ではその五つのふたを五蓋と言います

これら五つの蓋を心から外しておけば、心の悪感情がとどまらないという事です

そのため、心が静まった状態にして、これらの蓋を外し、それらの感情を捨離します

先に示したお経にあるように

「世間に関する貪欲を捨て(捨)、貪欲の消えた心をもって生活し(離)、貪欲から心を浄めます」

このように、五つの蓋を次々に捨離していきます

そして五つの蓋が無くなって、煩悩が捨離された瞬間『欲界』を超えるのです

欲の世界にいることすら気付かない日常の中で、この欲界を一瞬でも超えれば、ブッダが説いてくれている覚りの大切な意味・素晴らしさが実感できるのではないでしょうか

さらに覚り・涅槃(ニルバーナ)に入る為には三つの世界を超えなければいけません

一番低い世界が、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の住む欲界です

二番目が色界、物質のみの世界です

三番目が無色界、物質も存在しない世界です

このように瞑想の中で欲界を超え、次に色界に入っていきます