『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

命の大切さ

2007年09月26日 | 
私が僧侶になる前、以前、次のような矛盾に悩む声が聞こえてきた事がありました。
「命は大切だというけど、どんな人だって結局命を奪って生きているではないか」
ごもっともなご意見です。

命は大切だ、と言ったところで、蝿やゴキブリ、蚊や害虫などは、発見されたら殺すべき対象として、一般の認識が定着しています。
また美を表現するに至って草や木、花などは、大胆に切り取り飾る事でひとつのおもむきを生み出し、我々の営みを豊かにする対象になっています。
また我々の命を維持するための食料を得るために、食べる事のできる生き物を、お構いなしに殺生し、それが余れば、いとも簡単に捨ててしまう。
挙げればきりがありませんが、我々は他の存在の犠牲の基に成り立っているのはまぎれもない事実です。

だからといって「命は大切だ」と強く宣言する事は偽善だ。という方程式は成り立ちません。

仏が教える所の真実が見えてくると、まことに不思議な事に、全ての生きとし生ける生きものが素晴らしく、大切に思えてくるのです。
全ての存在に、その存在理由が見えてくる。
その存在が己の事のように大切に感じられ、互いを尊重しあって生きていく。平和な人間存在のあり方が「いのちは大切だ」という所に繋がっていくのです。

蝿やゴキブリは、人間が住む環境において、不要な不衛生な物を分解してきれいな状態に戻し、我々に返してくれます。
害虫なども正しい自然サイクルの基では必要なものなのでしょう。
美を感じるための生花などは、我々に自然の美の感性を養ってくれるでしょう。
必要量の食物の獲得は、食物連鎖を絶妙なバランスで維持していってくれる事でしょう。

仏教では『縁起』といいまして、全ての存在、現象が目に見えない所で繋がっている、自己と他は切っても切れない存在であると考えます。
自分の事が最も大切である我々一人一人が、他者の『自己が最も大切である』気持ちに気づき、お互いに尊重して、仲良く優しく平和に暮らしていく。
その為に「命は大切だ」と強く宣言するのです。
そして平和を願うのです。


合掌

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