『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

『ダンマパダ 第一章 ひと組ずつ』 より

2009年09月15日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように
 
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う
影がそのからだから離れないように
 
「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った、彼は我から強奪した」
という思いを抱く人には、恨みは止むことはない

「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った彼は我から強奪した」
 という思いを抱かない人には、ついに恨みは止む

実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを持ってしたならば、ついに恨みのやむことはない
恨みを捨ててこそ止む
これは永遠の真理である

「われらはここにあって死ぬはずの者である」と覚悟をしよう
この理を他の人々は知ってはいない
しかし、この理を知る人々があれば、争いは静まる』

(『ブッダの真理の言葉感興の言葉』 中村元訳 岩波書店)



ダンマパダによって説かれているこのお経は

私が最も好きなお経の1つです

悟った人は説かれました

人間というもの、その生き物は

まず最初に心があり、それによって体を使い行動を起こす

その行動・行いによって報いを受けるのである

そして一人一人の行いが重なり合い社会が形成されていく


だから平和で安穏な世の中が営まれるためには

人間の行いを善きものとしていく

そのためには

一人ひとりの

心を

善きものとしていく


平和で安穏な世の中が営まれていくためには

ただそれだけだと

ダンマパダ(法句経)⑪死後への準備

2008年04月18日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『汝は今や枯れ葉のようなものである
 閻魔王の従卒もまた汝に近づいた
 汝は今、死出の門路に立っている
しかし汝には旅の糧さえも存在しない
だから、自己のよりどころをつくれ
すみやかに努めよ
賢明であれ
汚れをはらい、罪とががなければ、天の尊い処に至るであろう』235・236

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)


私は今35歳ですが、20歳の頃が昨日の事のように感じてしまいます
60・70歳を過ぎた人でも20代の頃から気持ちは何にも変わっていない
あっという間に何十年も過ぎてしまった、という話を結構耳にします
平均寿命70歳を軽く超える今の時代でも人生をあっという間に感じてしまうのが世の常なのでしょうか

あっという間に訪れる老いと死
その先に死後の行き先を決める閻魔との出会い
我々がその出会いの瞬間に持って行けるものはただ一つなのです
早めに準備しておいたほうがいいよとのブッダのお言葉です


ダンマパダ(法句経)⑩怨みを捨てることを願うブッダのうた

2008年04月16日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『怨みを抱いている人々の間にあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生きよう。
 怨みを持っている人々の間にあって怨むことなく、われらは暮らしていこう』197

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)


ブッダが説く、まことに尊い仏教徒へのメッセージです

『怨み』とは他人に対しての怒りを常に心に留め続けることであります
無明という幻の大海に住む魚のような存在の私たちは、日々の生活の中で自分の心の中で
右往左往している『怨み』という煩悩にすら気付いていません
そしてその『怨み』が他人を苦しめ、そして自分を苦しめていることに対してもまことに
鈍感で無責任です
『怨み』は間違いなく他人へ連鎖していくものですし、自分の業となってあらわれ、自ら
の未来に不幸を呼び込んでいきます

今受けている境遇は自らの業が創り出した結果であるとあきらめる
そして自らを汚していく煩悩という悪の感情を捨て去り、今という限られている時間を楽
しく生きる
そんな生き方をブッダは勧めてくれているよう思えるのです


ダンマパダ(法句経)⑨わたくし的な浄土真宗流心の清め方

2008年04月09日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『すべての悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心をきよめること、これが諸々のブッダの教えである』183
(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)


七仏通誡偈という仏教の中でも基本であり有名な教えです

悪い事を止めなさい、と言って止めれるものならこの世に警察はいないはずです
善い事をしましょう、といってみんなが善い事をするのならこの世には争い事などないで
しょう
これらを分かっていてもなかなかできないのが世の常です

正しい事を知っているか、知っていないか、がブッダの教えではありません
正しい事をするか、しないか、がブッダの教えです

だから私には無理なんです
毎日酒ばかり飲んでますし…その他諸々

それじゃぁどうしましょうという話なんですが
煩悩がきりなくあふれ出てきてしまう自分だからこそ
その煩悩に気付かせてくれて己を正してくれる阿弥陀さんにすべてを任せるのです

阿弥陀さんの智慧の光に照らされて
我が身の煩悩の影に向き合い

阿弥陀さんの慈悲の命に育まれて
この世のすべての命の大切さを知る

阿弥陀さんが教えてくれた事を忘れずに心に留め続ける事で心をきよめたい
常に忘れないように念仏を唱えようと、思わずにはいられない今日この頃であります

合掌

ダンマパダ(法句経)⑧『骨で城がつくられ・・・』

2008年04月08日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている』150
(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)


ブッダが『人間』という者の本性を、真実の智慧でありのままに観るとこのような表現が
できるのですね
私自身、自分の体を眺めてみても骨・肉・血・老い・死・高ぶり・ごまかしが目に映る事
はありません
しかし骨も肉も血も皮によっておおわれ隠れているだけです
老いも死も、今という時間が未来を隠しているだけです
高ぶりやごまかしという煩悩の悪魔も心の中で出番を待っています

ありのままに自己を見つめて
ありのままに自己を知り
ありのままに自己を自覚する

ありのままに『人間』を観る智慧を教えてくれるまことに有り難いブッダのお言葉です


ダンマパダ(法句経)⑦ どうしようもない私だからこそ

2008年03月27日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らす。しかし自分の過失は隠してしまう。狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目を隠してしまうように。
他人の過失を探し求め、常に怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。彼は煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。
虚空には足跡がなく、外面的なことを気にかけるならば、道の人ではない。人々は汚れのあらわれを楽しむが、修行完成者は汚れのあらわれを楽しまない。』252・253・254

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)


人の過失・失敗・悪い所は見えやすいものです
それとは反対に人の善い所は見えにくいものです

人は自分に都合の善いことを宣伝します
人は自分に都合の悪いことを隠そうとします

人は自分に甘く、他人には厳しいのです

人は外面的なことを第一に気にしますが
人は内面的なことをなおざりにしてしまいます

これらの事はすっぽりと私に当てはまります
そして、これらの事がまことに恥ずかしく、情けなく、軽蔑されるような事であることも知っています
知っていても治すことができない、どうしようもない私だからこそ、このお経がとても身にしみます
放っておけば、どんどんひどく悪い人間になっていく私を、ブッダは善い人間になるようにと、引っ張り続けてくれています


ダンマパダ(法句経)⑥ 悪い友と善い友

2008年03月25日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』

『悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。』78

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)



仏教は人々を、全ての生き物を、世界を平和に導いていく宗教です
生まれによって差別することを厳しく戒める教えです
このようなことを前提に置く宗教が、付き合う人を選べというのです
これは一見差別につながるのではと感じるかもしれませんが、そういう見方はお門違いで

ブッダは人の生まれを差別することはしません
ただ人の行いに対しては注文を付けるのです
それもただ人々が幸せなってほしいとの純粋な思いからです
そういう訳で
『悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。』
と私達に忠告してくれているのですが、この両者を見分けるのは簡単なようで実は結構難しいのです
そこで善い友・悪い友を見分けるためのポイントの一つを言いますと
『慈悲』の心に基づいた行いがある人であるかどうかです
『慈』は相手の幸せを無条件で願う心
『悲』は相手の悩みや苦しみが無くなるように願う心
そのような心が根本にあるかないかです

心静かに目を閉じて人の行為を想いかえしてみて下さい
何の見返りもなしに私のことを心配してくれる
『慈悲』の心を持った人が見えてくるはずです

中には付き合いやすい人にも悪い人がいますし、付き合いにくい人にも善い人がいるでしょう
『慈悲』の心は相手が幸せになっていく為に、見返りなしで、さり気なく、手助けしていく心でもあります
母親が自分のお腹を痛めた子どもを命をかけても守り続けるような
そんな心が『慈悲』の心なのです
そんな心を持った人か、持ってない人か
それが善い友・悪い友を見分ける一つのポイントであるかと思います


ダンマパダ(法句経)⑤

2008年03月22日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』


『たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。
 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法に従って実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することのない人は、修行者の部類に入る。』 19・20
(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)

修行者のために説かれたお経ですが、そこに留まらず様々な分野においても共通して言え
ることだと思います
一つの道に対して学びが進んでいくと、できなかった自分がいた事を忘れてしまい、つい
つい口を出しすぎてしまう事はよくあることだと思います
さらに煩悩の悪魔に心を捕らわれてしまうと、出来て当たり前という自分の基準だけで物
事を観てしまいます

自分の基準で物事を観てしまう煩悩を『慢(まん)』と言います
そこに『怒り』という『自分に都合の悪い物事の対象を避けようとする欲望』煩悩が加わると、他人に対して『いやみ』としか感じることができないことを言ってしまうのです
そこから他人の恨みを買ってしまい、自らを不幸に陥れてしまうのです
親子・嫁姑・夫婦・職場など人間関係が悪くなる場合、原因がその辺にあることが少なくありません
人間関係が貧しくなると、人生はまことに寂しいものになってしまいます

一方で、煩悩に支配されず、思いやりの心で持って他人と相対すれば、相手には『慈悲』の心が伝わります
慈悲の心は煩悩に支配された心をひるがえすこともしばしばです
そうすれば自他ともに思いやりの心が膨らみ、幸福を引き寄せていくでしょう

自分の心を見つめ
悪意・煩悩に気付き自覚し
その心を捨て去って
相手の立場に立って
善意・思いやりを持った行い・言葉で他人と接する

それができない私であり続けるからこそ釈迦如来・阿弥陀如来は私に仏法を与えたのだと思います
真の仏教徒の生き方を教えてくれる有り難いお経です

ダンマパダ(法句経)④

2008年03月21日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』


『物事は心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
車を引く牛の足跡に車輪が付いていくように

物事は心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う
影がその体から離れないように』 1・2
(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)

この世界の有り様がどうなっているかという見方において『唯物論』と『唯心論』があります
『唯物論』とはこの世を構成しているものが『物質』のみであるという見方です
『唯心論』とはこの世に存在しているものは全て『心』の内に有るという見方です
ブッダの死後、ブッダの教えが細分化されて広がりを見せていく中でもそのような極論的な考え方に偏っていったお坊さんたちもいました

ブッダは真理のみが定まった事柄であって、他の物には固定的な観念・概念を持たなかった人のように私は思います
『物質』に対しても『心』に対してもありのままの観察による見方が、このお経に表現されていると思います

今現在ある私の心の有りようが外界に発せられて、他人の心・物質・現象が反応し、私の心に還ってくる
今私にある苦楽・現象はすべて、私の心・行いに基づいた結果であるということなのでしょう

ダンマパダ(法句経)③

2008年03月18日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』

『「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。』62

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)



物事が自分のものである!との『こだわり・執着・思い込み』が苦しみの原因である、
とブッダは説きます
一般的な認識・常識からすれば子供も財産も自己の所有物という考えが出てきても当然
でしょう
しかし仏教的に見れば、自分という存在自体は自分の思い通りになることはあり得ませ

もし自分が自分の物であるならば寿命も病気も全てコントロールできるはずです
しかしそのようなことはあり得ません
自分さえ自分の物ではないのだから、自分の物である子供も財産も自分の物ではありま
せんというのが仏教の基本的な『無我』という真理の教えであります

物事の所有にこだわらず、あるがままに命・事物・現象を尊重することが
『命』という乗り物に乗って人生を楽しく幸せに旅するコツであるかもしれません