『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

『子どもが欲しいもの』を見抜くブッダの智慧

2008年02月21日 | 仏教的 『子育て』
『子どもが欲しいもの』を見極めましょう
『物』を欲しいか、『愛情』を欲しいか二種類あります

愛情を欲しがっていれば、一杯あげて下さい
愛情とは、『無条件に相手の幸せを思う心』です
それを仏教では『慈悲』と言います
子どもは『慈悲』を欲しがっています
『慈悲』をあげられるのは親だけです
あげればあげる程、幸せになります
子どもだけでなく、親も幸せになれるのです
ブッダの言葉に偽りはありません
自分の『無条件に相手の幸せを思う心』を出来る限り与えてあげれば
子どもは最高に幸せです

物を欲しがっていれば、一杯あげてはいけません
物は『欲望』のみを満たします
心の中の『欲望』を過剰に満たしてあげたら
いろんな悪い心が生まれて大きくなっていくでしょう
物を欲しいだけあげれば、子どもは不幸になります
『愛情』以上に『物』をあげることはよくありません
『愛情』以下で程々に『物』をあげられればと思います
『足ることを知る』ことを学ぶことも大切です

子どもは『物』を『欲しい、欲しい』と言いますが
『愛情』を『欲しい、欲しい』とは言いません
「愛情ちょうだい!」なんて言っている子どもを見た事がありません
でも子どもは一杯の愛情を欲しがっています
子どもがどっちを欲しがっているか見えてますか?

あなたの幸せを願うブッダが教えてくれた智慧です     合掌


子育てがわからない人は、仏のフリをして子どもを育ててみたらいかがでしょうか

2008年02月19日 | 仏教的 『子育て』

子育てがわからない人は、仏のフリをして子どもを育ててみたらいかがでしょうか

子どもが喜んでいる時、一緒に喜ぶフリをして
子どもが悲しんでいる時、一緒に悲しむフリをして

でも子どもが怒っている時は一緒に怒るフリをするのは危険です
子どもが怒っている時は落ち着くまで放っておいてあげたらいかがでしょうか
そして落ち着いたら、優しく聴いてあげたらどうでしょうか
なんで怒っていたのかを
そして同情してあげればいいと思います
『そうなのか、そうなのか、そりゃ~大変だったねぇ』と

一緒に怒ってしまったら、『怒り』という感情が育ってしまいます
『怒り』という感情を育ててしまったら、それはそれは恐ろしい事になってしまいます
『怒り』は未来に苦しみのレールをひいていきます
『怒り』は不幸な未来を呼び込みます

それとは反対に
一緒に喜んであげれば、他人の幸せを喜ぶ『慈しみ』という感情が育ちます
一緒に悲しんであげれば、他人の不幸を悲しむ『悲れみ』という感情が育ちます

『慈しみ』『悲れみ』は、すなわち『慈悲』です
『慈悲』の感情を育ててあげれば、それはそれは素晴らしい事になるでしょう
『慈悲』は未来に楽しみのレールをひいていきます
『慈悲』は幸福な未来を呼び込みます

そんな風に、仏のフリをして子育てをしてみたらいかがでしょうか
子育てに迷っている人は

何気ない春風のように
何気ない木漏れ日のように
何気ない仏の智慧の光が幸せを照らしますように

合掌

子育てに迷った時

2007年12月26日 | 仏教的 『子育て』
子どもをどう育てればいいか

途方に迷った時

考えてみてください

子どもは他人です

将来自分と瓜二つになる他人です

そして何があってもあなたを好きで

あなたに信頼を寄せている他人です

あなた次第で

善人にも悪人にもなる可能性のある他人です

子どもに心から怒鳴らなくていい

心から全ての生き物の幸せを願う

あなた自身がそんな人間であろうと努力すればいいだけです

その後ろ姿を見て

あなたの『おかげさま』に守られて

子どもはあなたと瓜二つの

心から全ての生き物の幸せを願う

そんな大人になるでしょう

さすればその大人は世界で最も幸せな人間の一人になるでしょう


合掌

靴・スリッパを並べる、その心

2007年10月11日 | 仏教的 『子育て』

私は保育園のトイレで子ども達によく、スリッパを並べましょう、と勧めています。

なぜその様な当たり前の事を今更、と思われるかもしれません。

そんな細かい事を口うるさく言っていたら、家の姑と同じではないですか、いやらしい。

と言うような声も少しばかり聞こえてきそうな気がします。

しかしこのような基本中の基本の、その意味をしっかりと説明できる人はどれだけいるでしょうか。

この基本の元にある考えは全ての人間が幸せになる為の共通の理ですから、ここで改めて提案してみました。

さて、子どもの心は大忙しです。

1つ終わるとまた次、次から次へ連続して何かをしようとして、落ち着く事がありません。

粘土で遊んでいる最中に

「お絵かきしよう!」

と思い付くとその瞬間、頭の中がお絵かきで一杯になり、時には片付けもそっちのけで、お絵かき道具を取りに行って、お絵かきを始めます。

またある時、大事な事を伝えなければいけないので

「これからお口をチャックして先生の話を聞いてください」

といってから話をはじめても、最初の約束をすっかり忘れてしまって突然想いつくがままにおしゃべりを始めてしまったりします。

これらの行動からもわかるように、子どもは次から次へと心を落ち着かせる事なく、思うがままに活動します。

私はこのような子どもの特徴を批判する気は毛頭ない事を伝えておかねばなりませんが、ここで私が言いたい事、それが最初に提案した「靴・スリッパを並べましょう」という事です。

この事は子どもだけの事ではなく、大人にも共通の大切な事であります。

どうせならば小さいうちからそれを習慣付けておいたらどうでしょうか。

さて、前置きが長くなりましたが「靴・スリッパを並べましょう」の『その心』を述べていきましょう。

それはもちろん、整理整頓しておくのが社会の共通したマナー・礼儀作法だからです、と言うのは少し浅知恵と言わなければいけません。

まあそれだけ解っているだけでもマシかとは思いますが、仏の智慧を学んだ者から言わせると、それだけではもの足りません。

まずは、自分が抜いた靴を次に履く事を考えてみてください。

左右がバラバラで、時にはひっくり返った状態になって玄関に無造作に散らかっていたらどうでしょうか。

まずは自分で靴を拾い直してから、はき始めなくてはなりません。

急いでいる時なんかは一つのイライラする原因になるでしょう。

次に、大勢の人がお客さんで来ている時の事を考えてみてください。

全部が全部、バラバラの状態だったらどうでしょうか。

10人のお客さんならば20個、自分の靴を探すだけでイライラしてくる人もいるんじゃないでしょうか。

学校の内履きや葬式などでこのような状態になっていたら最悪です。

同じような靴ばかりの中から自分のを探すのは一苦労です。

この様に、次に履く自分の為にもなりませんし、大勢の人が混乱する状態も招きかねない、ストレスをつくり出す、その様な状況をつくりだす根本にもなっているのです。

またトイレなどのスリッパはどうでしょうか。

これの根本はまさに、他人に対する思いやりを育てる絶好の機会になります。

自分がトイレを使う時に時にトイレのドアをあけた時の事を想像してみてください。

足を踏み出そうとした時、スリッパがバラバラになって、時にはひっくり返っていたらどうでしょうか。

なんだか不潔な感じがするし、スリッパを履きやすいように並べなければいけないだけで、気分がとても悪くなりませんか?

それとは反対に綺麗に並んでいたらどうでしょう。

その状態が当たり前であるとはなから思い込んでいる人なら何も感じないかもしれませんが、その綺麗に並んでいるスリッパの裏には、前にスリッパを使った人の、次の人が気持ちよく使えるようにという、『思いやりの気持ち』が含まれているのではないですか。

その気持ちを育てよう、その為に、「スリッパを並べよう」と口うるさく言うのです。

子どもには、その都度落ち着いて考えさせてあげる時間を大人が作ってあげなければいけません。

スリッパをひっくり返しながら脱ぎ捨てていく子どもに、

「落ち着きなさい、スリッパを並べましょう。スリッパが並んでたら、次に使う人がとても気持ちいいよ」

と大人が落ち着いて、子どもに話してあげるべきでしょう。

落ち着いて考える心持ち、思いやりの気持ちを養う、更にはストレスを他人にまき散らさない為に、履き物をそろえる意味があるのです。

それはその子が社会に積極的に関わっていける為に、その子が幸せに人生を生きていくのに大いに役立つ事です。

何がよい事で、何がだめな事

2007年10月09日 | 仏教的 『子育て』

子どもに教える時、何がよい事で、また何がダメな事なのか。

これは簡単な様でとても難しい事です。

それでは道徳的な善悪についてはどうでしょうか。

私が言うまでもなく、誰でも解る事であるかと思います。

礼儀を持って人と接する事や、他人の物を取らない事。

他人や社会に迷惑を掛けない事や、嘘をつかない事など。

このような道徳的によい事やダメな事というのが子どもに教える時にそのまま通用すると思われますか。

答えはノーです。

大人がそれまでの長い人生において学んできた道徳というのはいったん頭の片隅に置いておかなければいけません。

大人が認識している道徳をそのまま子育てに取り入れることは歓迎できません。

なぜならば、子どもは道徳的な善悪に付いて無知の状態から出発しているからです。

もしもそのような子どもの立場という点を大人が認識していなければ、子育てにおいて、子どもを導くべき善悪の指針が一方的なものになってしまう危険性があります。

「挨拶をしっかりしなさい」「嘘は泥棒の始まりだよ」など。

その様な環境のもとの育ちでは、その子どもは、将来何かの問題や壁にぶち当たった時に、自ら道徳的に正しい道を見出し人生を歩んでいく力が弱くなるかもしれません。

善悪を漠然と理解していても、なぜよいのか、なぜ悪いのか、という根本的な意味合いが解っていないからです。

私がここで言いたい事は、なぜよいのか、なぜダメなのか、を時に応じて子どもにしっかりと伝えなければいけないという事です。



仏教では『縁起』を大切にします。

それは簡単に言えば、結果には常に原因がある、ということです。

であるから自らの行動に対しても客観的に結果を予測して、その原因を選び取っていく事。

そのことが幸せにつながっていくのです。

これらの教えから導き出される答えはシンプルです。

何がよいのかといえば、根本に思いやりの気持ちを持っているかという事で、何がダメなのかといえば、根本に自分の事だけしか考えていない事です。

思いやりの気持ちが大きければ大きいほど、目に見えなくても多くの人に伝わりその人自身に知らず知らずの内に幸せを呼び込んでいく事になるでしょう。

また自分の事だけしか考えていなければ、善き友はどんどん離れていくでしょう。

全ての人間が思いやりのある心根のやさしい人間に育っていって欲しい、そのための教えでもあるのです、

仏教とは。

子どもが善い事をした時、どう接する? 子どもが悪い事をした時、どう接する?

2007年10月08日 | 仏教的 『子育て』

『子どもが善い事をした時、どう接する?』これは答えが明白です。

思い切り褒めてあげましょう。

褒められたいから善い事をする、と言うのもなんだか違う気がいたしますが、善い事をする事を学んでいく上では大切なことです。

子どもは善悪の判断を人間関係によって学んでいきます。

中国唐代の禅僧・鳥窠道林はこのような言葉を残しています。

「良い事・悪い事は3歳の子どもでも知っている」

やはり人間は善い事も悪い事もある程度意識して行っているのではないでしょうか。

「分かっちゃいるけど止められない」という言葉が流行った時期もありましたが、悪い事はついついやってしまうものなのです。

特に気を付けたいのは子どもが悪い事をした時の関わりです。

子どもが悪い事をした時、怒るのは絶対にしてはいけない事です。

怒るという気持ちは、仏教では『瞋恚』といいます。

人であれ物であれ出来事であれ、その対象を遠ざけたいという心の状態です。

怒るという行為は、一見周りの人を怖がらせる、というイメージがあるかもしれませんが、実はその反対で、怒っている本人がその状況を怖がっていて、その状況から逃げたがっているのです。

それは、あたかもスカンクが危険を感じて、おならの毒をあたり構わずに撒き散らすようなものです。

怒るという事は自他を問わず、ろくな事がありません。

怒るのは絶対にしてはいけない、とすればどうすればいいのですか?と思われるかもしれませんが、簡単です。

叱るのです。

叱る時は常に冷静です。

子どもが行った悪い行為を見守りながらの関わりです。

基本は『どうやって情緒を育てるの?』で書かれている事と同じです。

まず『心を停める』

自分の気持ちに気付き、正直になること。

そして落ち着いて関わってください。

悪い行為を行う事は、仏教では、必ず自分に返ってくると教えています。

結局は自分が損をするのです。

子どもが不幸になる事を望む親はいないと思います。

いるとしたら、親自身が自分の気持ちに正直になれず、自分を大切にしていないからでしょうね。

子どもでも同じで、自分の気持ちに正直になれず、自分を大切にしていない人がいます。

それは悲しい事です。

自分の気持ちに正直になれること。

これは悪い行為を乗り越えて、善い行為を行うための出発点なのかもしれませんよ。

どうやって情緒を育てるの?

2007年10月08日 | 仏教的 『子育て』
子どもの心を安定させてあげる為の基本は、まずは親自身が自分の心を停めることです。

『心を停める』?なんだか変な事を言うなぁ、と思われるかもしれませんが、これは仏教の基本でもあるかと思います。

我々凡夫の心は仏さまと違い、停まる事なく常に動き続けています。

心は常に何かを考えているか、はたまたボーっとしているかでしょう。

『心を停める』とは、今の瞬間の心を見つめなさいという事なのです。

喜んでいる時には喜んでいる事に気付き、悲しんでいる時には悲しんでいる事に気付き、怒っている時には怒っている事に気付く。

自分の心に、その瞬間その瞬間に気付く事によって、冷静に物事に対処できるという事なのです。



例えば、あなたの子どもがお店で欲しい物を見つけた時はいつも買ってもらえるまで泣き暴れる子どもだとします。

そして今日も夕食の買い物の時におまけ付きのお菓子が欲しい、と泣き暴れています。

このような場面に直面したら、あなたならどうしますか?

「うるさい!いつもダメだって言ってるでしょ!ママもう1人で家に帰るからね!」

などと目の玉をむき出しそうな勢いで叱り付けていませんか。

『心を停める』というのは、その様な怒りの言葉が出る前に、怒っている自分に気付きなさいよ、そして心を落ち着けなさいよ、という事なのです。

「うるさい!いつもダメだって言ってるでしょ!ママもう1人で家に帰るからね!」

という様な言葉が出る前に、私は怒っている、と自分に言い聞かせる事で落ち着きを取り戻します。

そして子どもはおまけ付きのお菓子が欲しくてたまらないんだ、じゃあ子どもと同じ気持ちになってあげよう、と見守る気持ちで

「○○ちゃん、このお菓子欲しいねぇ。」と一息置いてから、

「ママね、○○ちゃんにこのお菓子買ってあげたいけど○○だから買ってあげられないの。ごめんねぇ。」

と言って子どもの悲しみを二人で分け合ったらどうですか。

そう言いながら、子どもに考える時間を与えてあげる事で、子どもは自分の悲しみやわがままな気持ちを和らげる事ができるんじゃないですか。

それはまさに、情緒の安定に繋がるのです。



例えば、あなたの子どもがテストの答案を持って来たとします。

前回のテストの点数は50点で今回は60点だったとします。

あなたなら子どもにどのような言葉を掛けますか。


「あんたはやっぱり私の子どもでバカねぇ」①

「何で60点しか取れないの!この次はもっと頑張りなさい!」②

「あんたのお姉ちゃんはもっといい点取ってるよ」③


このたぐいの言葉掛けは、あまり勧められるものではないですね。

①は自信をなくすでしょうし、②はけなされ命令されているように感じるでしょうし、③は比べられ差別を感じるでしょう。

これらの言葉は子どもの感情を逆なでし、情緒を不安定にする言葉です。

ここでもやはり『心を停める』事をしてから関わるべきです。

この子はバカだ、と思っている自分に気づき、そしてこの子は前回より10点多く取ったんだ。

この子は頑張ったんだ、とその子の気持ちに共感して「頑張ったね」「良かったね」一言褒めてあげればいいんじゃないんですか。

子どもは自分を応援してくれている人がいる、と感じる。

それは情緒の安定に繋がりますね。



例えば、子どもがイライラしています。

理由も何もわかりません。

話をしようともしません。

「どうしたの?」と優しく話し掛けても「うるさい!放っておいて!」との返事。

人生は色々な事があります。

「お母さんあなたの事がとっても心配なんだけど。落ち着いて話したくなったら話してね」

子どもは、自分の拠り所が当たり前にあるだけで情緒の安定を保つ事ができます。

親が冷静に子どもに対処すれば、子どもの情緒は安定するものです。