『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

愛する人の死

2008年03月23日 | 

『愛する人の死』というものは
『生きる意味』という
大切な、普段見落としがちな、貴重な命の中を生きる意味を教えてくれる

死ねば灰になるが、燃えた煙を通してこの世に存在する様々なもの達の未来につながって働きかけていく

死ねばもう二度と会う事が出来ないが、私たちの心の中でその人の生きた証が、生きた意味が、その言葉が、その思いやりが、力となっていつも私達に働きかけてくれている

仮に、『死』というものを考える時間を1週間として
人生70年とすれば
私達の人生の中の3500分の1の時間
愛する人が自らの死を持って
私達に生きる意味を伝えてくれている

死んだ人が残した生き様の一歩一歩、一言一言が
私達に、どのように人生を生きるかを、教え、考えさせてくれている



『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように
 
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う
影がそのからだから離れないように
 
「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った、彼は我から強奪した」
という思いを抱く人には、恨みは止むことはない

「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った彼は我から強奪した」
 という思いを抱かない人には、ついに恨みは止む

実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを持ってしたならば、ついに恨みのやむことはない
恨みを捨ててこそ止む
これは永遠の真理である

「われらはここにあって死ぬはずの者である」と覚悟をしよう
この理を他の人々は知ってはいない
しかし、この理を知る人々があれば、争いは静まる』

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)



全生命に対し
慈しみ、悲れみを持って生きる

その生き方がまことに
この世界を、人生を
豊かに
美しく
どんな宝物よりも
最も尊いものだと
ブッダは伝え続けてくれている

命と出会う喜び

2008年02月26日 | 

朝目覚めた、その瞬間に

今日出会える
今日しか出会えない一人ひとりに

存在していることが奇跡ともいえる命の中で

今日という時間を
今という瞬間を

共に過ごせることの喜びを感じながら

今日という一日を
今という瞬間を

生きる大切さを
感じることができる人間になれるようにと

ブッダは教えて下さいます


覚りへのすすめ

2007年10月14日 | 
この世に存在するすべての苦しみから解放されことが覚りである

自殺願望を持つ人々、自殺サイトを求める人々、自殺したいと思うほどの苦しみからの解放が仏教の世界にはあります



『 自分を苦しめるものを見つめ

  自分を苦しめるものの原因を見つめ

  自分を苦しめるものが無くなった状態を見つめ

  自分を苦しめるものが無くなる道を歩む 』



気軽に、悩み苦しみを話して下さい


誰が一番大事?

2007年09月30日 | 
自分がされたら嫌な事と分かっていながらも平気で人が傷つく事

をしている人、大勢いますよね。

それは何でなんでしょうか。

それは、その人が自分の事を大切だと思える環境に身を置いた事がないのかもしれません。

自分が心から傷ついた事がないのかもしれません。

そんな大人になってしまっては不幸なので、子どものうちに教えてあげると親切だと思います。

人間は自分が一番大切であるからこそ、自分の気持ちに気付き、そして他人にも同様の気持ちがあり、相手を思いやる事を。

仏典には「誰が一番大切?」という事において、興味深い話があります。

ある王様と妃の話です。


大きな国の王様であるパセーナディ王は、あるとき、マッリカー王妃に次のような質問をしました。

「あなたにとって、最も大切な人は誰ですか」と。

この時パセーナディは妃から甘い言葉を期待していたようです。

しかし妃の返事は予想を外するものでした。

「私にとって、一番大切なのは私自身です。あなたにとって最も大切な人は誰ですか」と。

予想外の質問を受けた王様は、その事をじっくりと考えてみると、妃の言った通り、自分よりも大切な人をどこにも見出す事が出来なかったそうであります。 

その事を、後に、釈尊に尋ねてみると、釈尊の答えは次のような事であったそうです。

「人は己よりも愛しき者を見出す事が出来ない。それと同じように、全ての他の人々にも自己はこの上もなく愛しい。されば、己の愛しい事を知る者は、他の物を害してはならぬ」というものであったそうです。

合掌

命の大切さ

2007年09月26日 | 
私が僧侶になる前、以前、次のような矛盾に悩む声が聞こえてきた事がありました。
「命は大切だというけど、どんな人だって結局命を奪って生きているではないか」
ごもっともなご意見です。

命は大切だ、と言ったところで、蝿やゴキブリ、蚊や害虫などは、発見されたら殺すべき対象として、一般の認識が定着しています。
また美を表現するに至って草や木、花などは、大胆に切り取り飾る事でひとつのおもむきを生み出し、我々の営みを豊かにする対象になっています。
また我々の命を維持するための食料を得るために、食べる事のできる生き物を、お構いなしに殺生し、それが余れば、いとも簡単に捨ててしまう。
挙げればきりがありませんが、我々は他の存在の犠牲の基に成り立っているのはまぎれもない事実です。

だからといって「命は大切だ」と強く宣言する事は偽善だ。という方程式は成り立ちません。

仏が教える所の真実が見えてくると、まことに不思議な事に、全ての生きとし生ける生きものが素晴らしく、大切に思えてくるのです。
全ての存在に、その存在理由が見えてくる。
その存在が己の事のように大切に感じられ、互いを尊重しあって生きていく。平和な人間存在のあり方が「いのちは大切だ」という所に繋がっていくのです。

蝿やゴキブリは、人間が住む環境において、不要な不衛生な物を分解してきれいな状態に戻し、我々に返してくれます。
害虫なども正しい自然サイクルの基では必要なものなのでしょう。
美を感じるための生花などは、我々に自然の美の感性を養ってくれるでしょう。
必要量の食物の獲得は、食物連鎖を絶妙なバランスで維持していってくれる事でしょう。

仏教では『縁起』といいまして、全ての存在、現象が目に見えない所で繋がっている、自己と他は切っても切れない存在であると考えます。
自分の事が最も大切である我々一人一人が、他者の『自己が最も大切である』気持ちに気づき、お互いに尊重して、仲良く優しく平和に暮らしていく。
その為に「命は大切だ」と強く宣言するのです。
そして平和を願うのです。


合掌