『みんなのお寺』 ブッダによる幸せの種がまかれた園

宗派を超え、国境を超え、時を超えて、仏教・ブッダの教えの真理に触れる事の出来る幸せの精舎を目指す『お寺』です

心の調律師

2008年03月28日 | 仏教とは

調律師が楽器の音色を調律するように
宗教は人間の心を調律するようなものです

宗教によっては人間の心を壊していきます

宗教によっては人間の心を正していきます

真理に根ざしたブッダの教えは人間の心を正しく整えます
あたかも優れた調律師が楽器の音色を正しく調律するように


ダンマパダ(法句経)⑦ どうしようもない私だからこそ

2008年03月27日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』
『他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。人は他人の過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らす。しかし自分の過失は隠してしまう。狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目を隠してしまうように。
他人の過失を探し求め、常に怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。彼は煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。
虚空には足跡がなく、外面的なことを気にかけるならば、道の人ではない。人々は汚れのあらわれを楽しむが、修行完成者は汚れのあらわれを楽しまない。』252・253・254

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)


人の過失・失敗・悪い所は見えやすいものです
それとは反対に人の善い所は見えにくいものです

人は自分に都合の善いことを宣伝します
人は自分に都合の悪いことを隠そうとします

人は自分に甘く、他人には厳しいのです

人は外面的なことを第一に気にしますが
人は内面的なことをなおざりにしてしまいます

これらの事はすっぽりと私に当てはまります
そして、これらの事がまことに恥ずかしく、情けなく、軽蔑されるような事であることも知っています
知っていても治すことができない、どうしようもない私だからこそ、このお経がとても身にしみます
放っておけば、どんどんひどく悪い人間になっていく私を、ブッダは善い人間になるようにと、引っ張り続けてくれています


ダンマパダ(法句経)⑥ 悪い友と善い友

2008年03月25日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』

『悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。』78

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)



仏教は人々を、全ての生き物を、世界を平和に導いていく宗教です
生まれによって差別することを厳しく戒める教えです
このようなことを前提に置く宗教が、付き合う人を選べというのです
これは一見差別につながるのではと感じるかもしれませんが、そういう見方はお門違いで

ブッダは人の生まれを差別することはしません
ただ人の行いに対しては注文を付けるのです
それもただ人々が幸せなってほしいとの純粋な思いからです
そういう訳で
『悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。』
と私達に忠告してくれているのですが、この両者を見分けるのは簡単なようで実は結構難しいのです
そこで善い友・悪い友を見分けるためのポイントの一つを言いますと
『慈悲』の心に基づいた行いがある人であるかどうかです
『慈』は相手の幸せを無条件で願う心
『悲』は相手の悩みや苦しみが無くなるように願う心
そのような心が根本にあるかないかです

心静かに目を閉じて人の行為を想いかえしてみて下さい
何の見返りもなしに私のことを心配してくれる
『慈悲』の心を持った人が見えてくるはずです

中には付き合いやすい人にも悪い人がいますし、付き合いにくい人にも善い人がいるでしょう
『慈悲』の心は相手が幸せになっていく為に、見返りなしで、さり気なく、手助けしていく心でもあります
母親が自分のお腹を痛めた子どもを命をかけても守り続けるような
そんな心が『慈悲』の心なのです
そんな心を持った人か、持ってない人か
それが善い友・悪い友を見分ける一つのポイントであるかと思います


愛する人の死

2008年03月23日 | 

『愛する人の死』というものは
『生きる意味』という
大切な、普段見落としがちな、貴重な命の中を生きる意味を教えてくれる

死ねば灰になるが、燃えた煙を通してこの世に存在する様々なもの達の未来につながって働きかけていく

死ねばもう二度と会う事が出来ないが、私たちの心の中でその人の生きた証が、生きた意味が、その言葉が、その思いやりが、力となっていつも私達に働きかけてくれている

仮に、『死』というものを考える時間を1週間として
人生70年とすれば
私達の人生の中の3500分の1の時間
愛する人が自らの死を持って
私達に生きる意味を伝えてくれている

死んだ人が残した生き様の一歩一歩、一言一言が
私達に、どのように人生を生きるかを、教え、考えさせてくれている



『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように
 
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う
影がそのからだから離れないように
 
「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った、彼は我から強奪した」
という思いを抱く人には、恨みは止むことはない

「彼は我を罵った、彼は我を害した、彼は我に打ち勝った彼は我から強奪した」
 という思いを抱かない人には、ついに恨みは止む

実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを持ってしたならば、ついに恨みのやむことはない
恨みを捨ててこそ止む
これは永遠の真理である

「われらはここにあって死ぬはずの者である」と覚悟をしよう
この理を他の人々は知ってはいない
しかし、この理を知る人々があれば、争いは静まる』

(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)



全生命に対し
慈しみ、悲れみを持って生きる

その生き方がまことに
この世界を、人生を
豊かに
美しく
どんな宝物よりも
最も尊いものだと
ブッダは伝え続けてくれている

ダンマパダ(法句経)⑤

2008年03月22日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』


『たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。
 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法に従って実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することのない人は、修行者の部類に入る。』 19・20
(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)

修行者のために説かれたお経ですが、そこに留まらず様々な分野においても共通して言え
ることだと思います
一つの道に対して学びが進んでいくと、できなかった自分がいた事を忘れてしまい、つい
つい口を出しすぎてしまう事はよくあることだと思います
さらに煩悩の悪魔に心を捕らわれてしまうと、出来て当たり前という自分の基準だけで物
事を観てしまいます

自分の基準で物事を観てしまう煩悩を『慢(まん)』と言います
そこに『怒り』という『自分に都合の悪い物事の対象を避けようとする欲望』煩悩が加わると、他人に対して『いやみ』としか感じることができないことを言ってしまうのです
そこから他人の恨みを買ってしまい、自らを不幸に陥れてしまうのです
親子・嫁姑・夫婦・職場など人間関係が悪くなる場合、原因がその辺にあることが少なくありません
人間関係が貧しくなると、人生はまことに寂しいものになってしまいます

一方で、煩悩に支配されず、思いやりの心で持って他人と相対すれば、相手には『慈悲』の心が伝わります
慈悲の心は煩悩に支配された心をひるがえすこともしばしばです
そうすれば自他ともに思いやりの心が膨らみ、幸福を引き寄せていくでしょう

自分の心を見つめ
悪意・煩悩に気付き自覚し
その心を捨て去って
相手の立場に立って
善意・思いやりを持った行い・言葉で他人と接する

それができない私であり続けるからこそ釈迦如来・阿弥陀如来は私に仏法を与えたのだと思います
真の仏教徒の生き方を教えてくれる有り難いお経です

ダンマパダ(法句経)④

2008年03月21日 | お経の紹介 『ダンマパダ(法句経)』


『物事は心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
車を引く牛の足跡に車輪が付いていくように

物事は心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う
影がその体から離れないように』 1・2
(ブッダの真理の言葉感興の言葉 中村元訳 岩波書店)

この世界の有り様がどうなっているかという見方において『唯物論』と『唯心論』があります
『唯物論』とはこの世を構成しているものが『物質』のみであるという見方です
『唯心論』とはこの世に存在しているものは全て『心』の内に有るという見方です
ブッダの死後、ブッダの教えが細分化されて広がりを見せていく中でもそのような極論的な考え方に偏っていったお坊さんたちもいました

ブッダは真理のみが定まった事柄であって、他の物には固定的な観念・概念を持たなかった人のように私は思います
『物質』に対しても『心』に対してもありのままの観察による見方が、このお経に表現されていると思います

今現在ある私の心の有りようが外界に発せられて、他人の心・物質・現象が反応し、私の心に還ってくる
今私にある苦楽・現象はすべて、私の心・行いに基づいた結果であるということなのでしょう