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千田義光(1943-)「フッサールにおける相互主観性と時間性」:「接触感覚」の特権性!一個の(自他に共有された)自発性(欲望・感情)の出現とともに他なる「物」が他なる「身体」となる!

2021-04-17 13:54:05 | 日記
※新田義弘・宇野昌人編『他者の現象学:哲学と精神医学からのアプローチ』北斗出版、1982年所収

(1)フッセリアーナ第13-15巻『相互主観性の現象学』(1973年):《大いなる一者》たる超越論的相互主観性(《大いなる一者》たるモナド)から流出する諸モナド!
1973年にフッセリアーナ第13-15巻『相互主観性の現象学』が刊行される。フッサールの1905年から1935年に書かれた草稿だ。(249頁)「これらは現象学の全体像をかなり変える」。(250頁)「超越論的主観性は相互主観的存在として解示される」。(257頁)
《感想1》「超越論的主観性は相互主観的存在として解示される」とは、つまり世界は初めから《客観的=相互主観的世界》だということだ。《1個の世界(モナド)》=《大いなる一者》があってそれが、諸モナドに分裂し、さらに個々のモナドは《意識=主観性》としてノエマ・ノエシス的に分裂して《姿を現す》=《現象する》。《1個の世界(モナド)》=《大いなる一者》への通路は《この自我(モナド)》しかない。一者、すなわち大いなる《物+心》、すなわち《大いなる一者》たる超越論的相互主観性(《大いなる一者》たるモナド)から流出する諸モナド!

(2)「発生」の三形式:(1)能動的発生、(2)「連合Assoziation」、(3)「同一化」の受動的発生としての「時間意識」!
フッサールは「発生の普遍的原理」を三形式に分類する。(1)能動的発生。(2)「連合Assoziation」の受動的発生。(3)「同一化」の受動的発生としての「時間意識」。(254-255頁)「不断に湧出する時間の流れ」。(259頁)
《感想2》時間は「湧出」する。湧き出てくる。存在(つまり超越論的主観性=超越論的相互主観性)は、「湧き出る」という形式でのみ存在する。
(2)-2 絶対的自我(超越論的自我)つまり世界は、時間以前の「原事実」だ!(※世界が「無」ではなく「有」であること!)
かくて絶対的自我(超越論的自我)は「非時間的」である。つまり三つの「発生」以前であり、時間的なものから理解されることのない「絶対的事実」、「原事実」だ。(259-260頁)
《感想2-2》《時間を可能にする事態》(ただし「無」でない事態)、それは世界だが、つまり世界は「ある」のであって「無」でない。これが「絶対的事実」、「原事実」だ。絶対的自我(超越論的自我=超越論的相互主観性)つまり世界は、時間以前の「原事実」だ。(※世界が「無」ではなく「有」であること!)

(3)自己の身体を自己自身に対して物として構成するために決定的役割を演じるのは接触感覚である!
「身体論的領域としての第1次性」(262頁)。(※「第1次性」とは超越論的他我と区別される限りでの超越論的自我であるという事態だ。)「身体性によってのみ自我は世界化される」(263頁)。「フッサールによると・・・・自己の身体を《自己自身に対して物として構成する》ために決定的役割を演じるのは接触感覚である。」(264頁)(※「接触感覚」は、「物」の出現において、したがって「身体」の出現において特権的である。「接触感覚」の特権性!)
《感想3》そもそも「物」とは出来事だ。相互に抵抗する(《混じりあうor浸透し合う》ことのない)出来事、《相互に他》である出来事が生じ、その《相互に他》であるそれぞれが「物」と呼ばれる。
《感想3-2》《相互に他》であるそれぞれの「物」の一方のみが自発性(欲望・感情)に従う。この自発性(欲望・感情)に従う一方の「物」(《他》)が「身体」だ。かくて「自我のキネステーゼ的体系」(264頁)としての「身体」!

(4)接触において生じる《相互に他》であるそれぞれが、つまり「物」が、一方で自発性(欲望・感情)によって自己「身体」となり、他方で一個の、つまり「一者」たる(言わば自他に共通の)自発性(欲望・感情)の出現とともに、もう一方の他なる「物」が、他なる「身体」となる!
「物理的物として経験される最初の身体は他者の身体である。」(268頁)
《感想4》そもそも「物」とは出来事だ。相互に抵抗する(=《混じりあうor浸透し合う》ことがない)出来事、《相互に他》である出来事が生じ、その《相互に他》であるそれぞれが、「物」と呼ばれる。つまり《他》が先に発生する。「物」の発生とは《他》の発生だ。身体も「物」だから「物理的物として経験される最初の身体は他者の身体(※正確には他なる《物》)である」。最初に相互的に二つの「他者の身体」(※正確には他なる《物》)が生まれる。
《感想4-2》《相互に他》であるそれぞれの「物」(身体)の一方のみが、自発性(欲望・感情)に従う。この自発性(欲望・感情)に従う一方の「物」が、《自己》の「身体」となる。今や、二つの「他者の身体」(※正確には他なる《物》)の一方は《自己》の「身体」となる。「自我のキネステーゼ的体系」(264頁)としての《自己》の「身体」!
《感想4-3》《自己》の「身体」とならなかった他なる《物》は、いかにして「他者の身体」となるのか?(つまり他なる「物」でなく、他なる「身体」となるのか?)「物」が「身体」となるのは、そもそも「物」が自発性(欲望・感情)に従うからである。(「自我のキネステーゼ的体系」(264頁)としての「身体」!)他なる「物」における自発性(欲望・感情)は、一個の、つまり「一者」たる(自他に共通のor自他への分化以前の「一者」である)自発性(欲望・感情)が成立する時、一瞬に成立する。この時、他なる「物」が他なる「身体」となる。
《感想4-4》《相互に他》であるそれぞれの「物」が成立しているかぎりで、既に「《一個》の(自他に共通の)ノエマ(つまり「物」という意味)」および「ノエシスの本質構造の同型性」が成立している。
《感想4-5》「ノエシス本質構造の同型性」において、「一個の(自他に共通の)自発性(欲望・感情)」が付け加わると、ノエマ(「物」という意味)に、「自我のキネステーゼ的体系」という意味が加わり、他なる「物」は他なる「身体」となる。
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