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「歴史学的主題化」が「歴史研究の可能的対象」として提示するものは、「かつて現存していた現存在」という存在様相をそなえる!ハイデガー『存在と時間』「第1部」「第2編」「第5章」「第76節」(その1)

2020-04-28 19:04:07 | 日記
※ハイデガー(1889-1976)『存在と時間』(1927)「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第5章 時間性と歴史性」「第76節 現存在の歴史性にもとづく、歴史学の実存論的根源」(その1)

(1)「歴史を歴史学的に開示すること」は「現存在の歴史性」のうちに根ざしている!
A 「どの学問もそうであるが、歴史学も現存在の存在様相のひとつである。」(392頁)
A-2 「歴史学の実存論的根源」を分析することによって、「現存在の歴史性と、それが時間性に根ざしていること」がいっそう明確に照らしだせる。(392頁)
A-3 「現存在の存在は、原理的に歴史的である。」(392頁)
A-4 ただし「歴史学は、なお特別にぬきんでた意味で現存在の歴史性を前提条件としている」。(392頁)
A-5 「歴史を歴史学的に開示することは・・・・それ自体において、その存在論的構造上、現存在の歴史性のうちに根ざしている」。(392-3頁)

《参考1》「この存在者(※現存在)は《歴史のなかにおかれている》がゆえに《時間的》であるのではなく、むしろ逆に、その存在の根底において時間的であるがゆえにのみ、歴史的に実存し、かつ歴史的に実存することができる」。(376頁)
《参考1-2》しかし「現存在は、《時間のなかにある》という意味においても、《時間的》存在者と呼ばれなくてはならないこともたしかである。」「事実的現存在は、暦や時計を必要とし・・・・使用している。」「無生物や生物における自然現象も、やはり《時間のなかで》出会う。」「これらのものは内時的(innerzeitig)である。」(377頁)
《参考1-3》「《内時性》の意味での《時間》は時間性にその根源をもつ」(→次章「第6章 時間性と、通俗的時間概念の根源としての内時性」)ところが「通俗的な立場では、内時性の意味での時間の助けをかりて歴史的なものごとを性格づける」。(377頁)

《参考2》現存在は「誕生と死との《間》にわたる存在者」だ。「誕生と死との間の現存在の伸張(Erstreckung)」を顧みなければならない。」「誕生と死の間の《生の連関》」の「存在論的意味」を明らかにしなければならない。(373頁)
《参考2-2》「通俗的な現存在解釈」によれば、「《そのつどの今》において存在している体験だけが、そのとき《現実的》に存在している。・・・・過ぎ去った体験やこれからくる体験は・・・・《現実的に》存在していない」とされる。(373頁)
《参考2-3》だが「現存在はおのれ自身を伸張する」。「現存在自身の存在がはじめから伸張(Erstreckung)として構成されている」。「誕生と死との・・・・《間》は、実はすでに現存在の存在に含まれている。」「誕生と死というこの《両端》とそれらの《間》とは、現存在が事実的に実存しているかぎりは、現に存在している。」(374頁)
《参考2-4》「被投性と、(逃亡的もしくは先駆的な)《死へ臨む存在》との統一態において、誕生と死とはすでに現存在的な《連関》を形づくっている。」「現存在は関心たるかぎりその《間》を存在している」。(374頁)

《参考3》「歴史とは、実存する現存在の、時間の中で起こる特殊な経歴(Geschehen)である」。(379頁)

(2)歴史学における「主題化」の作業!
B 「歴史学の実存論的根源」を解明することは、「方法的」にみれば、「《現存在の歴史性》にもとづいて《歴史学の理念》を存在論的に投企すること」を意味する。(393頁)
B-2 「学問としての歴史学の理念」の中には「歴史的存在者を開示すること」を固有の課題として引き取ったということが含まれる。(393頁)
B-3 すなわち「およそいかなる学問も、第一義的に主題化の作業によって構成される。」(393頁)
B-4 「開示された世界内存在としての現存在において、前=学問的にすでに知られていたものごとが、この主題化をつうじて、それぞれに特有の存在にそくして投企される。」(393頁)

(2)-2 「歴史学的主題化」が「歴史研究の可能的対象」として提示するものは、「かつて現存していた現存在」という存在様相をそなえていなくてはならない!
C 「われわれが歴史を歴史学的に主題化することができるのは、そもそもいつもすでに《過去》がなんらかのありさまで開示されているからにほかならない。」(393頁)
C-2 「さて現存在の存在が歴史的であるということは、それが脱自的=地平的時間性(※誕生と死との間の現存在の伸張)にもとづいて、おのれの既住性(※過去)において開かれているということである。」(393頁)
C-3 「現存在が、また現存在のみが、根源的に歴史的なのであるから、《歴史学的主題化》が《歴史研究の可能的対象》として提示するものは、《かつて現存していた現存在》という存在様相をそなえていなくてはならない」。(393頁)
C-4 「現存在が世界内存在として事実的に存在するとともに、いつもまた世界=歴史が存在している。」(393頁)
C-5 「まだ《現存して》いる遺跡や記念碑や報告などは、《かつて現存していた現存在》を具体的に開示するための可能的《資料》である。」(394頁)
C-6 「かつて現存していた現存在への歴史的なかかわり」すなわち「歴史学者の実存の歴史性」が「学問としての歴史学」を「実存論的にもとづけている」。(394頁)

《参考4》「世界は脱自的=地平的な時間性にもとづいて、この時間性の時熟にぞくしている。」(388頁)
《参考4-2》「時間性の脱自的統一態は――すなわち、将来と既住性と現在という三つの出動における《脱自》(※動的点としての時間)(※将来と既住性と現在)の統一態は――、おのれの《現》として実存する存在者が存在しうるための可能条件である。」(350頁)
《参考4-3》「現存在という名称を負う存在者は、《明けられて》(gelichtet、《明るくされて》)いる。」「この存在者を本質上明けているものを・・・・われわれは・・・・すでに関心(Sorge)として規定しておいた。」(350頁)
《参考4-3-2》「現の開示態全体(die volle Erschlossenheit des Da)は、この関心にもとづいている。」(350頁)
《参考4-3-3》今や「このように明けられていることの光を理解しようとするならば・・・・現存在の全き存在構成としての関心を、それの実存論的可能性の統一的根拠(※すなわち時間性の脱自的統一態)に関して問いただすよりほかはない。」(351頁)
《参考4-3-4》「脱自的時間性が現を根源的に明ける。」(Die ekstatische Zeitlichkeit lichtet das Da ursprunglich.)「それ(※脱自的時間性)こそが、現存在のあらゆる本質的な実存論的構造の統一性を第一義的に規制する原理である。」(351頁)
《参考4-3-5》私見①:現を《開けておく》《明るくしておく》ことが、普通に「意識」と呼ばれる。ハイデガーは、要するに、「意識」とは時間だと言う。時間は「脱自的統一態」だから動的なものだ。現(das Da)とは、普通に「有」「存在」と言われる。「有」は動的時間において、つまり《脱自》のずれにおいて、「意識」となる。つまり《開け》《明るく》なる。(現の開示態!)
《参考4-3-6》私見②:「意識」とは時間的《脱自》のずれであり、《開け》《明るく》された「有」である。
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駒塚由衣江戸人情噺シリーズ「姫かたり」藤浦敦作(2020/04/27公開):「医者負けた、医者負けた、姫かかたりか、大胆な」!

2020-04-28 13:58:36 | 日記
(1)
暮れの年の市(12/17)(※羽子板市)で賑わう浅草観音の境内。「市ゃま(安)けた、市ゃまけた、注連(シメ)か、飾りか、橙かぁ」の掛け声が飛び交う。お忍びで、どこかの大名家の姫様と伴の侍と老女の三人がやって来た。ところが癪でも起きたのか、急に姫様が苦しみ出した。
(2)
伴の侍は近くの高見見物(ケンモツ)という医者の所へ姫様をかつぎ込む。この医者は強欲で貧乏人は診ず高い診察代を取り、それを高利貸しする悪徳医者。そこへ獲物が飛び込んできた。しかも美しい姫様だ。金ぼけ色ぼけの見物(ケンモツ)は、鼻の下を伸ばしよだれを流す。
(3)
伴の二人を隣室に控えさせ、いざ診察と姫様の体へ手を伸ばすと、姫様がしなだれ掛かってくる。見物(ケンモツ)が絶好のチャンス到来と姫様を抱きかかえると、「きゃ~あれ~、何をする!」と姫様が叫んだ。
(3)-2
何事かと踏み込む侍、「無礼者、婚礼前の姫君をはずかしめるとは何たる所業、不届き千万、一刀両断手打ちにしてくれる」といきり立つ。老女も懐剣をかまえ「殿に申し分けが立たぬ、お前を刺し殺し、私もここで自害する」と迫る。
(4)
命乞いする見物(ケンモツ)に侍は、「手打ちにしてもこのことが外に漏れたら一大事」と金での解決を提案。「金なら何とかなる」と見物(ケンモツ)。お互いの腹のさぐり合いの末、見物(ケンモツ)の首の代わりに三百両を侍に払うことで示談が成立する。
(5)
姫様を守りながら三人は出て行った。しばらくして人気の少ない所へ来ると、三人は「・・・こんな堅苦しいもの・・・」と言って武家風の着物を脱ぎ捨て、小ざっぱりした粋な身形(ナリ)に着替える。三人組は姫を騙(カタ)る悪党一味だった。三人組は、「・・・坊主軍鶏(ボウズシャモ)で精進落しだ・・・」と悠々と去って行った。
(6)
これを見ていた見物(ケンモツ)の弟子、一目散に戻って今の一部始終の有様を告げる。唖然として表へ出て悔しがる見物(ケンモツ)の耳に、「医者負けた(市ゃまけた)、医者負けた(市ゃまけた)、姫か(注連か)、かたりか(飾りか)・・・」の掛け声。
(6)-2
見物(ケンモツ):「うぅーん、大胆(橙)な・・・」

《感想1》古典落語では2人で200両か、上記のように3人で300両の「かたり」。今回、藤浦敦作は上記に一ひねり加え、4人で400両の「かたり」になっている。「かたり(騙り)」は人をだまして金品を巻き上げること。詐欺。
《感想2》なお「ゆすり(強請)」は人をおどして金品を出させること。「たかり(集り)」は人をおどして金品・食事をおごらせること。
《感想3》「市ゃま(安)けた、市ゃまけた、注連(シメ)か、飾りか、橙かぁ」の掛け声を、「医者負けた、医者負けた、姫か、かたりか、大胆な」と聞かせるとは、今の時代、なかなか難題だ。そもそも掛け声を知らない。
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