DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

日常的な良心経験(通俗的な良心解意)が実存論的に根源的なものではない!良心の実存論的解釈!ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第2章」「第59節」

2020-01-14 12:16:45 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第59節 良心の実存論的解釈と、通俗的な良心解意」

(10)日常的な良心経験(通俗的な良心解意)が実存論的に根源的なものではない!良心の実存論的解釈!
R 「良心の実存論的解釈」:「良心は、世界内存在(In-der-Welt-sein)の無気味さのなかから関心が叫ぶ呼び声であり、現存在をひとごとでない負い目ある存在可能へ呼び起こす呼びかけである。この呼びかけに応ずる了解として明らかにされたものは、良心を持とうとする意志である。」(289頁)
《感想10》ハイデガーは「無気味さ」について次のように述べている。「この《・・・・のもとに頽落する存在》のうちに、無気味さからの――すなわちここでは《死へ臨むひとごとでない存在》からの――逃亡がうかがわれる。」(252頁)
R-2 「良心の実存論的解釈」について、「通俗的良心解意」の側から異議がある。(ア)「良心の実存論的解釈」は「《呵責する》良心」(良心の《呵責》)(「後ろ向きに(※過去の行為を)《叱責する良心》」)について「没却している」。(289頁)この異議について、ハイデガーは次のように反論する。「とがめる良心(《気がとがめること》《呵責する》良心)とは・・・・たんに過去にむけられた叱責的なものであるどころか、かえって前へむかって示しつつ被投性のなかへ呼びもどすものなのである。」(291頁)
R-3「通俗的良心解意」の側からの異議(イ) 「良心の実存論的解釈」は、「良心の《満足》」について「没却している」。(289頁)ハイデガーの反論:「良心の《満足》」は「良心を持とうとする意志・・・・に対する鎮静的抑圧」であり「いかなる良心的現象でもない」。(292頁)
R-4 「通俗的良心解意」の側からの異議(ウ) 「良心の実存論的解釈」は、「前向きに(※未来に向かって)《警告する良心》」について「没却している」。(289頁))ハイデガーの反論:「警告が可能であるのも、《警告する》呼び声が根本においては現存在の存在可能をめざし、負い目ある存在においておのれを了解することをめざしているからにほかならない。」(292頁)
《感想10-2》ハイデガーは「現存在の存在可能」について次のように述べている。現存在の「不全性」とは、現存在は「おのれの存在可能へ向かう開示的存在」であるということだ。「現存在」は「投企」=「存在可能」において、おのれを「了解」する。(221頁参照)
《感想10-3》ハイデガーは「負い目」つまり「無性」について次のように述べている。現存在の存在としての「関心」は無性(Nigtigkeit)に浸透されている:(a)事実性(被投性)の無性、(b)実存(投企)の無性、(c)頽落の無性。「現存在は現存在であるかぎり、すでに負い目あるものである」。(284-5頁)
R-5 まとめ:「日常的な良心経験が実存論的に根源的なものではない」。(295頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清少納言(966?-1025?)『枕草子』(1001?):①坊さんはつまらぬもの、②くつろぐ女の部屋、③犬を棍棒で叩く、④にくらしいもの! 

2020-01-14 00:46:17 | 日記
(1)「思はむ子を」(4段)
清少納言が言う。「かわいく思う子を坊さんにするのは気の毒だ。なぜなら世間の人が、坊さんを木の切れ端か何かのようにつまらぬものと思っているからだ。」《感想》坊さんが「木の切れ端か何かのようにつまらぬもの」と思われているとは、世の中が清貧とかに価値を置かないのだ。現世利益優先だ。今も昔も、浮き世のならいだ。
(2)「大進(ダイジン)生昌(ナリマサ)の家に」(5段)
「女の部屋を夜、男の生昌が『入ってもいいですか』などと尋ねるのは愚かだ。」「私たち、こんな格好をしているから、駄目に決まってる。」「『さあさあどうぞ』などと、女が言えるわけがない」と清少納言は手厳しい。《感想》今も昔も、男は「くつろぐ女の部屋」を見たりしてはいけないのだ。
(3)「上にさぶらふ御猫は」(6段)
帝が可愛がっていた猫がいた。その猫を翁丸という犬が襲った。帝が激怒し、蔵人に「打ち懲らしめよ」と命じた。犬は棍棒で思いきり叩かれ、顔も腫れあがり半死半生となった。《感想》今の「動物愛護」から程遠い。「畜生」(チクショウ)は悲惨だ。しかしこの時代、人間も権力者によってしばしば撲殺されている。
(4)「にくきもの」(25段)
清少納言が「にくらしいもの」を次々列挙した。(ア)「急の用事のある時にやってきて、長々とおしゃべりするお客」。(イ)「たいしたこともないくだらぬ人が、満面に笑みをたたえて得意げに弁じ立てた様子」。(ウ)「酒を飲んでわめきたてる。」(エ)「なんでもかでも人のことをうらやみ、自分のことについては泣き言を言い、人の噂話ばかりする。」(オ)「人に見つかっては困る場所に、苦心してひそかに迎え入れて共寝した男が、いびきをかいたのは、人の気も知らないでにくらしい。」(カ)「ねむたくてたまらなくて横になったのに、蚊が細くやるせなげにプーンとうなって顔のあたりを飛びまわる。」(キ)「ぎしぎしきしむ車を乗りまわす人」。(ク)「話をしている時に、出しゃばって、いい気になって話の先回りをする人」。(ケ)「自分の現在深い仲になっている男が、以前に関係のあった女のことをしゃべりだしてほめたりする。」《感想》どれも今の時代にも、まったく当てはまる。1000年もたっているのに、何も変わらない。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする