‘Requiescat’ (1853) 「鎮魂の祈り」
By Matthew Arnold (1822-88) 作マシュー・アーノルド
Strew on her roses, roses, 彼女の上に薔薇を撒くがいい、薔薇を
And never a spray of yew! 決してイチイの小枝ではなく!
In quiet she reposes; 穏やかに彼女は死んで横たわる;
Ah, would that I did too! あー、私もそのようでありたい!
Her mirth the world required; 彼女の陽気さは世間が要求したもの;
She bathed it in smiles of glee. 彼女は世間に歓楽の微笑を浴びせた。
But her heart was tired, tired, しかし彼女の心は疲れに、疲れていた。
And now they let her be. そして今人々は彼女をあるがままにした。
Her life was turning, turning, 彼女の人生は変転につぐ変転で、
In mazes of heat and sound. 熱と騒音の迷路の内にあった。
But for peace her soul was yearning, しかし平和を彼女の魂は渇望し、
And now peace laps her round. そして今平和が彼女を抱く。
Her cabin'd, ample spirit, 彼女の囚われた豊かな心、
It flutter'd and fail'd for breath. それは息をつこうと羽ばたき失敗した。
To-night it doth inherit 今晩、彼女の心はまさに継承する
The vasty hall of death. 死の巨大な大広間を。
《感想1》
マシュー・アーノルドの詩は、死の賛美だ。死者(彼女)の生前の境遇・気持ちを推定し、それを前提に、彼女にとっての死の意義を、詩人が勝手に価値づける。詩人は、死が彼女にとって「世間」での「疲れ」からの解放、「魂の安らぎ」を求める苦悩の終了、「囚われた豊かな心」の自由獲得だとする。詩人は死を賛美する。
《感想1-2》
だから詩人は、死者に対して喜びの象徴の薔薇を撒けと言う。イチイは死と悲しみの象徴だから。詩人は、死は喜びだと、死を賛美する。
《感想2》
彼女の死顔が「穏やか」というのは、死の直前、まだ生きている時、彼女が苦悶せず「穏やか」に死んだことを示す。死自身は無であって、「穏やか」等の性質を示さない。
《感想2-2》
あるいは彼女の死顔が「穏やか」なのは、死者(彼女)の生前の境遇・気持ちが悲惨で、それを終わらせた死は良いことだと、詩人が価値づけるからにすぎない。
《感想3》
死自身は無だから、死によって「世間」での「疲れ」から解放されたとか、「魂の安らぎ」を得たとか、「囚われた豊かな心」が自由になったとか、死者(彼女)自身が思うことはない。詩人が、死者(彼女)の生前の境遇・気持ちを推定し、そしてそれを前提に、彼女にとっての死の意義を、詩人が勝手に価値づけているだけだ。
《感想4》
補論:死は主観的には「突然の中断」だ。普段、眠りに落ちるのと同じだ。君が「眠り」を恐れないのは、眠る前に「再び起きる」と予想するから。君が「死」を恐れるのは、死ぬ前に「二度と起きない」と予想するから。この点を除けば「突然の中断」という点で「眠り」と「死」は区別できない。(なお死の場合と異なり、眠る前には「夢を見る」との予想もある。)
《感想4-2》
「眠り」と「死」が同じだと言う君は、悪意ある他者により、「だったら眠らせてやろう、死なせてやろう」と殺される。気をつけろ!だが他者が君に「死ね」と命じ、君を「殺す」権利などない。