臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

『NHK短歌』鑑賞(坂井修一選・6月17日分・王将守る駒が飛び交ふ)

2012年07月06日 | 今週のNHK短歌から
[特選一席]

○  花終へし桜並木の青葉陰王将守る駒が飛び交ふ  (大分市) 佐野弘一

 桜花爛漫の頃は、屋外での遊びに興じるには風が少し冷た過ぎる。
 そこで、花が散り、葉桜の頃ともなると、町内のあちらこちらの桜青葉の陰で縁台将棋が展開されるのである。
 ところで、一口に縁台将棋と言ってもそのレベルはピンキリであり、「王将守る駒が飛び交ふ」ならまだ宜しいが、「飛車を守れる駒が飛び交ふ」或いは「香車を守る駒が飛び交ふ」という場面も見られるのである。
 〔返〕  葉漏れ日の縁台将棋のきりも無く午前になつてもまだ続きをり   鳥羽省三
      裏店の縁台将棋の果ても無く燭を灯してまだ続きをり


[同二席]

○  百年の屯田開拓語り継ぎどろのき巨木ぼうぼうと鳴る  (北見市) 浅野昭久

 作中の「どろのき(ドロノキ)」は、「ヤナギ科・ハコヤナギ属」の落葉高木であり、別名「ドロヤナギ・ドロ」などとも呼ばれているが、川岸や河川敷などの湿地帯を好んで生え、木質が柔らかいので用材としては殆ど役に立たないことから、このような蔑視的な名称で呼ばれるようになったものでありましょう。
 ところで、本作の作者・浅野昭久さんの居住地は北海道北見市であり、北見市は、一級河川の常呂川及びその支流の訓子府川・無加川などの流域に在るので、「どろのき」の「巨木」が、冬の河川敷の強風に煽られて「ぼうぼうと鳴る」光景を見ることもそれほど珍しくないものと思われる。
 北海道開拓の歴史に関心を寄せている本作の作者は、居住地たる北見市の河川敷や湖沼の畔などに生えている「どろのき」の「巨木」が、北端の地に吹く冷たい風に煽られて「ぼうぼうと鳴る」光景に接し、その激しい風音を、恰も「百年」に亘る「屯田開拓」の歴史の苦労話を「語り」継いでいるかの如く感じたのでありましょう。
 〔返〕  無加川の川面に臨む泥柳屯田兵の労苦を語れ   鳥羽省三
      開拓の苦労話をするごとくドロの巨木のぼうぼうと鳴る  


[同三席]

○  首伸ばし火星の陰の木星を見ているようなキリンの瞳  (岩沼市) 山田洋子

 仙台市の八木山動物公園の「キリン」の首の長さが、せめて東京スカイツリーの高さ程度であったならばまだしも、あの程度の長さでは、どのように遣り繰りしても、「キリンの瞳」に「火星の陰の木星」の姿が映るはずはありません。
 しかし、本作の作者としては、「キリンの瞳」の澄み切っている有様を観ている時には、あの「キリン」は一所懸命に首を伸ばし、澄んだ「瞳」を更に澄ませて、「火星の陰の木星」を「見ている」ように感じたのでありましょう。
 〔返〕  首集め選挙に有利な党名にしようと語らう小沢の一党   鳥羽省三
      ちびっ子のやわら議員も首伸ばし日本の未来を夢見るかしら


[入選]

○  鴎外を傍らにして寝転びぬ我を斑に葉桜の陰  (京都市) 渡邊健紀

 本作を読みながら、不肖・私は、短歌の鑑賞者にあるまじき胡乱な考えに陥ってしまったことを、此処に告白しなければなりません。
 と申すのは、私は本作を「『鴎外』の著書を『傍ら』に置いて『寝転』んだ私の全身を『斑』に染めて『葉桜の陰』が射している」いった意に解しながらも、作中に登場する「鴎外」なる人物は陸軍の軍医総監という役職に在った軍国日本の巨魁であり、彼の著書を側らに置いて寝転んだ本作の作者の全身が「葉桜の陰」によって「斑」模様に染められたとするならば、それは、兵士の象徴たる迷彩服を着ているような状態になってしまったようにも思い、それに拠って、明治の文豪・森鴎外のもう一つの側面・即ち「日露戦争」に軍医として参戦したことを感じ、それと同時に戦争の惨禍をも感じてしまったからであります。
 こうした点については、恐らくは、本作の作者・渡邊健紀さんが予想だにしなかったことであろうと思われ、短歌の深読みの弊害とも申せましょう。
 〔返〕  「森林太郎墓」とのみ刻まれて津島修司の側に眠れる   鳥羽省三 


○  鉄筋の校舎の陰に残りゐる木造校舎の屋根の輝き  (大津市) 坂田紀子

 昭和の遺物たる「木造校舎の屋根」が、「鉄筋の校舎」のそれと比較して、格別な「輝き」を発揮する理由はありません。
 したがって、仮に、作者の眼にそのように見えたとするならば、それは、骨董的な存在に片寄せしているが故の、作者の心理的な錯覚と申せましょう。
 〔返〕  娘らと肩を並べて佇つ時の坂田紀子の顔の輝き   鳥羽省三


○  たから箱を開けるがごとき始業式二年一組三十五人  (各務原市)  堀田桂子

 思うに、公立小学校の教師と思われる堀田桂子先生は、新学期になって新たに担当する「二年一組」の児童たち「三十五人」が、一体全体、どんな顔ぶれなのだろうか?と、心中密かに心配していたのでありましょう。
 ところが、この場面に於いての作者は、そうした心中の心配事をおくびにも出さず、「たから箱を開けるがごとき始業式二年一組三十五人」と、さらりと詠いのけているのである。
 ということは、本作の作者・堀田桂子先生こそは、「期待される教師像」に合致する人物であり、大阪市長閣下とも気が合うような存在なのかも知れません?
 少し“褒め過ぎ”、或いは“ふざけ過ぎ”のような感じのする鑑賞文になってしまったかも知れませんが、その点についてはご容赦下さい。
 〔返〕  児童たち三十五人に母が居て三人くらいはモンペであるかも   鳥羽省三


○  緑陰は我が銀河なり木漏れ日を星屑のごと足に散らして  (新潟市) 長谷川和司

 本作の作者・長谷川和司さんは、「緑陰」に身を潜めて読書中なのでありましょうか?
 だとしたら、長谷川和司さんは、「木漏れ日を星屑」のように「足に散らし」て「銀河」に横たわっている“知性の神”にでもなったような気分に浸っているのでありましょう。
 〔返〕  濡れ縁は我が思索の場葉漏れ日を日がな一日浴びて歌詠む   鳥羽省三


○  二十四人生徒は皆な高齢者古語辞典の陰虫めがねある  (笛吹市) 古村ますみ

 題材となっているのは、かなり古ぼけた「二十四の瞳」ならぬ「二十四人」の「生徒」である。
 その「二十四人」の「生徒」さんたちを相手に、本作の作者・古村ますみさんは、「枕草子鑑賞講座」といった内容の、古典文学講座を開講しているのでありましょうか?
 〔返〕  老いたりと云へども瞳は四十八一語一語を忽せにせず   鳥羽省三


○  草陰にひからびてゆく冒険心とかげのしっぽは小さく光る  (綾瀬市) 高松紗都子

 正直に言って、作者の意図するところがよく解りません。
 思うに、若き頃の高松紗都子さんにとっては、人の気配を感じて「草陰」に逃げて行こうとする「とかげのしっぽ」を捕まえようとすることさえもささやかな「冒険心」であったのであるが、老境に達した今となっては、そのささやかな「冒険心」すら「ひからびて」しまったような気がする、という意味でありましょうか?
 〔返〕  歳ごとに募り行くのは保険心諍ひごとに口出しをせず   鳥羽省三


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