臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(7月25日掲載・其のⅡ・猛暑の折り悪戦苦闘版)

2011年07月28日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

○  地震の歌止めむと思ふも湧きくるは多く地震の歌四月になるを   (仙台市) 坂本捷子

 本作は、「私は『地震の歌』を詠むのは『止め』ようと思うのであるが、その度に私の胸中に湧いて来るのは、あの『地震』があってから既に『四月』も経つのに、未だに『多く』の『地震の歌』が詠まれたり、入選作として紙上に掲載されたりしているという現実である。だから、私は『地震の歌』を詠むことを『止め』ない」といった歌意でありましょう。
 しかし、如何せん、本作は歌意を多くの人々に理解させ得る程には明解ではありません。
 しかも、作者の胸中には、「地震の歌」を詠むのを止めたいという思いが在ります。
 古代中国に、「隗より始めよ」という格言が在ります。
 そこで、先ず、言い出しっぺの坂本捷子さんから、「地震の歌」を詠むのを「止め」ることを始めて下さい。
 何故ならば、地震の犠牲者となった人々や地震で深刻な被害を受けた人々は「地震の歌」を詠むことは殆ど無く、「地震の歌」を詠んでいるのは、被災地に居住していても被害の程度が比較的に軽かった人や、テレビや新聞の報道で被災地の事情を知った人々が殆どと思われ、彼らの詠んだ「地震の歌」の「多く」は、格好の題材を得たとばかりに詠み、地震の犠牲者や被災地の人々を食い物にしているような印象を受けるような作品であり、また、この頃詠まれている「地震の歌」の多くは、“類想歌”や“模倣歌”ばかりであり、短歌の発展や普及にとっては、“百害在って一理無し”という現状を呈しているからである。
 〔返〕  累々と類型歌のみ堆積し読むに耐へざる震災の歌   鳥羽省三