臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(7月12日掲載・其のⅡ・決定版)

2011年07月16日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]


○  沢蟹を放流すればそれぞれに石を選びて身を隠しけり  (可児市) 豊田正己

「沢蟹たちの素早い動きを表現しつつ、初夏の清流が読める歌に仕上げた」との選評である。
 選者・佐佐木幸綱氏の評言中の前半部は、選評の為に許された104字という限られたスペースの中から17字分のスペースを費やして取り立てて指摘する程の内容とは思われませんが、その内容には不明な点も矛盾点もありません。
 しかし、「初夏の清流が読める歌に仕上げた」という後半部と併せて読むとき、其処にいささかならぬ疑問を感じるのである。
 本作は一首全体の表現を通して、「初夏の清流」の雰囲気が私たち読者にも解るように仕立て上げられていることは事実である。
 しかし、そのことは、選者の佐佐木幸綱氏からわざわざ「初夏の清流が読める歌に仕上げた」と言われてから初めて気付く程の鈍感な鑑賞者は居ないと思われるし、また、山成す投稿葉書の中からわずか十枚を選び、その十首の短歌の中の二首か三首についてしか加えない選評として述べるべき言葉とは到底思われません。
 と言う事は、結局のところ、本作についての佐佐木幸綱氏のご選評、即ち「沢蟹たちの素早い動きを表現しつつ、初夏の清流が読める歌に仕上げた」の一文の全てが、必要の無い文章と思われるのである。
 短歌の解釈はさまざまでありましょうが、本作の作者・豊田正己さんのお気持ちとすれば、佐佐木幸綱氏の選評にあるような事と共に、「沢蟹」たちの素早く的確な動きに、教訓的な、或いは風刺的な何かを感じていて、その何かの感得を私たち読者に期待しているのではないでしょうか?
 北東北地方の教訓的な方言として「がにこらだけ」という言葉が在る。
 その意味は、「沢蟹は自分が背負っている甲羅の大きさと同じ程度の振る舞いしか出来ない」とか「沢蟹は自分が背負っている甲羅の大きさと同じ程度の知恵しか持っていない」といったものであり、第三者の為した振る舞いや配慮などに不満を感じた場合、「がにこらだけだべた=蟹の甲羅だけのことでしょう。だから、それ以上のことは期待しないようにしましょう」などと、不満を感じた者同士が慰め合って、諦めなければならないという思いを確認し合うのである。
 ところで、私が縷々説明した「がにこらだけ」という言葉の意味と、本作中の「沢蟹」の示した行為とは、関わりが在るような無いような関係になっているのであり、本作の作者・豊田正己さんとしては、「沢蟹」たちがとっさに示した「がにこらだけ」の行為から、自分たち人間の処世方法にも通じる何かを感じたのでありましょう。
 〔返〕  沢蟹は“がにこらだけ”の振る舞いで石を選んで其の身を隠す   鳥羽省三
      沢蟹の“がにこらだけ”の振る舞いに選者は何を感じただろう


○  田の蛙狙って蛇が寄って来てその蛇狙い猪も来る  (西海市) 前田一揆

 「レイチェル・カーソンの古典的な名著『沈黙の春』が言う生命の連鎖を思い出させる」との選評である。
 選評中の「レイチェル・カーソン」及び、その著『沈黙の春』についての『ウィキペディア』の記事を、関係者に無断で、以下に転載させていただきます。

 「レイチェル・ルイーズ・カーソン(Rachel Louise Carson, 1907年5月27日 - 1964年4月14日)は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州に生まれ、1960年代に環境問題を告発した生物学者。アメリカ内務省魚類野生生物局の水産生物学者として自然科学を研究した。農薬で利用されている化学物質の危険性を取り上げた著書『沈黙の春』(Silent Spring)は、アメリカにおいて半年間で50万部も売り上げ、後のアースディや1972年の国連人間環境会議のきっかけとなり、人類史上において、環境問題そのものに人々の目を向けさせ、環境保護運動の嚆矢となった。」

 選者の佐佐木幸綱氏をして、「レイチェル・カーソンの古典的な名著『沈黙の春』が言う生命の連鎖を思い出させる」と言わしめた、前田一揆さんによるこの作品こそは、まさしく、“レイチェル・カーソン”が言うところの「センス・オブ・ワンダー」即ち「神秘さや不思議さに目を見はる感性」の然らしむるところでありましょうか?
 とまで、口を滑らせてしまえば、それは誉め過ぎというものでありましょう。
 と言うことは、本作の短評として、選者が「レイチェル・カーソンの古典的な名著『沈黙の春』」を持ち出したのに対して、私は少なからぬ疑問を感じているのである。
 〔返〕  “センス・オブ・ワンダー”をもてわたくしはミスター・ササキの選評を読む   鳥羽省三 
 

○  トロ箱に三角の耳のぞかせて子猫が眠る潮騒の町  (ひたちなか市) 猪狩直子

 「トロ箱」にイワシでも入ったいるかと思って入ってみたのであるが、何も入っていないことを知り、そのうちに眠りこけてしまったのでありましょうか?
 だとすれば、野良猫の世界とは実に暢気なものであり、例えて言えば、三人集まれば所構わずに「みやこのせいほーく」と歌い出す輩の世界のようなものでありましょうか?
 いずれ、上方の猫捕獲業者に捕まえられて、三味線の皮にされる運命が待っているのでありましょうが。
 〔返〕  トロ箱に八本の足絡ませて蛸が蠢く明石の市場   鳥羽省三


○  蓮の葉の浮かぶ水面に幽かなる波立て跳ねる水黽(あめんぼう)の群  (町田市) 高梨守道

 「蓮の葉の浮かぶ水面に幽かなる波立て跳ねる」と、観察が極めて細かいところが買われたのでありましょう。
 それとは別に、「あめんぼう」とは、通常、「水馬」と書くことから推測すると、漢和辞典にしか出て来ない「黽」という漢字に対する興味もあったのでしょう。
 〔返〕  僕らみな生きているから跳ねるんだ水黽だってテニスボールだって   鳥羽省三


○  海峡を知らぬ蝶々一反の植田をこえて畦にやすみぬ  (高槻市) 奥本健一

 今更、事改めて申し上げる必要の無いことでありましょうが、詩人・安西冬衛氏に 『春』というタイトルの詩が有り、その内容は「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」というだけのことである。
 私は、本作を安西冬衛の一行詩『春』へのお饅頭(オマージュ)として読ませていただきました。
 〔返〕  越境を警戒してか板門店南も北も監視厳重   鳥羽省三


○  桑の木を探す男の子は三年生生命(いのち)預かる蚕当番  (逗子市) 荒木陽一郎

 その昔、神奈川県の西部の山寄りの集落では養蚕が盛んに行われていたということですから、その名残りとしての「桑の木」が、今でも原野や畑の隅辺りに生えているのでありましょう。
 一匹の「蚕」の重さは一グラム程度のものでありましょうが、それでも、一匹一匹に「生命」という尊いものが備わって居りますから、その尊い「生命」を守る「蚕当番」の果たすべき役割は重大なのである。
 本作に接して、私は、「今から数十年前、夏休みになって飼育当番の児童が登校しなくなったのに困り果て、校長先生から命じられて鶏の餌遣りをしていた教頭先生が、校舎内の空き地に穴を掘り、飼育中の鶏を全部、その穴に埋めて殺してしまった」というニュースを思い出してしまいました。
 最近の頭のいい教頭先生たちは、そんな馬鹿げたことを遣らないのでありましょうか?

 〔返〕  桑の葉に堆積したる有害な放射物質怖くは無いか?   鳥羽省三
 足柄山の茶葉に福島第一原発の原子炉から放出された放射性物質が堆積しているということですから、逗子市の「桑」の葉にも堆積していない、という保証はありません。


○  チェーンソーを止めれば遥か聞こえくる入牧すらん牛の鳴き声  (三次市) 佐藤昌樹

 「チェーンソーを止めれば遥か聞こえくる」から直接に「牛の鳴き声」に繋がるのでは無くて、その間に、「入牧すらん」という一般的には意味の解らない語句が介在しておりますから、一工夫が必要かと思います。
 「入牧」とは、「ある特定の場所を選び、その地に於いて牧畜業を営む」という意味でありましょうが、其処まで理解が届いている人は少ないと思いますよ。
 〔返〕  エンジンを止めればかすかに聞こえ来るボランティの声牛の鳴き声   鳥羽省三


○  ボランティア初心者我が受け持つは田中さんちの庭の礫(いし)とり  (岩手県) 田浦 将

 「ボランティアは、ただでさえ少ない現地の食べ物を食べ、大便や小便を排出し放題に排出するから、復興の妨げになるだけのことである」との報道も為されて居りますから、何卒、ご注意の程を。
 〔返〕  ボランティア・ベテランたちの心掛け不浄処理に専念すること   鳥羽省三
 

○  万緑の源氏物語ミュージアムまだ恋知らぬ二人子連れて  (富山市) 松田由紀子

 作中の「源氏物語ミュージアム」とは、「京都府宇治市に在る、『源氏物語』の幻の写本として知られる『大沢本』など『源氏物語』に関する資料の収集や保管などを行い、一般向けに展示し公開している市立の博物館」である。
 同館は、1998年に開館されたのであるが、 開館10周年に当たる2008年の9月にリニューアルが為され、国文学専攻の学生を初めとして大勢の見学客を集めている、宇治市観光の目玉施設的な存在である。
 「源氏物語ミュージアム」の在る京都府宇治市と言えば、『源氏物語』の主人公・光源氏が亡くなった後に、その子孫たちによって繰り広げられる実らぬ恋絵巻、即ち『宇治十帖』の舞台となった所である。
 その『宇治十帖』のヒロインは、光源氏の弟であり、宇治に隠棲してひたすら仏道に努める“八の宮”の三人の娘たちである。
 本作の作者・松田由紀子さんは、「万緑の源氏物語ミュージアム」に「まだ恋」を「知らぬ二人」の「子」を「連れて」お出掛けになられたのでありましょうが、その「二人子」中の一人の長女・梨子さんを、“宇治の八の宮”の三人の娘たちの中の長女・大君に、次女のわこさんを、三女の浮舟に擬えていらっしゃるのでありましょうか?
 それかあらぬか、浮舟に擬えられるべき次女のわこさんは、施設内のレストランで食べた、「ガイドブックとおんなじ抹茶パフェ」の美味しさに驚喜し、「京都を食べた上から順に」と、お母さんも顔負けの作品をお詠みになって居られるのである。
 〔返〕  幸多き一世歩めと祈りつつ二人子連れて宇治へと参る   鳥羽省三  
 

○  大地震の余震もややに遠のけりやっと戻りぬ老いの日常  (高萩市) 田中 江

 「大地震の余震もややに遠のけり」という措辞中の、「ややに」という副詞の意味する内容に留意しなければならない。
 即ち、「余震」は未だ続いているのであり、それでも尚且つ、本作の作者・田中江さんは、「老いの日常」が「戻りぬ」と思っていらっしゃるのである。
 〔返〕  この頃は余震は少し遠のくも尚且つ絶えぬ地震の短歌   鳥羽省三