ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

内地巡航〜大正13年帝国海軍練習艦隊

2018-01-27 | 海軍

 

大正13年から90年後の海上自衛隊においても、練習艦隊遠洋航海は
代わりなく行われています。

実習対象が「少尉候補生」から「新任幹部」と変わっても、
江田島での卒業式の後、表門から出航していった練習艦隊が
まず国内巡航を行ったのち、世界一周に向けて船出し、世界の各地で
文化交流や現地の海軍との「グッドウィル・エクササイズ」と呼ばれる演習、
そして「リース・レイイング」なる現地での戦績などでの慰霊式などを行って、
海軍軍人としてのスキルと見識、見聞を深めるという意義に変わりありません。

当時は国内巡航で当時国内であった大連や旅順、そして鎮海(チンフェ)に
まず寄港したのち、本土を廻るというのが慣例となっていたようです。

さて、というところで今日は国内巡航についてです。


■ 杵築(出雲大社)

縁結びの神様が鎮座まします。
誠心込めて詣でたる若人等には嘸ぞや霊験いやちこであろう。

一生懸命「きづき」で変換していたのですが、杵築は『きつき』でした。
朝鮮半島の鎮海からまず九州に戻ってきた練習艦隊は、まず
出雲大社に参拝するために島根県杵築に立ち寄りました。

この鳥居は現在はコンクリート製のものに変わっているようです。

出雲大社が縁結びの神というのは冒頭にも書かれており、
練習艦隊乗員も、「誠心込めて」お参りをしているわけです。
若い独身男性が多いので当然かと思いますが、それにしても
海軍兵学校の練習艦隊なのに

「縁結びの神様なので、一生懸命お願いすれば、
きっと君にも素敵な彼女ができちゃうかもよ?」

みたいなノリなのがほっこりしますね。

「霊験いやちこ」という言葉を見てはて?と思い調べると、

「いやちこ」=灼然

で、「あらたか」の別の言い方なんだそうです。
そういえばあらたかは「灼か」と書きますね。

今口で「霊験いやちこな神様だから」などと言っても、
十中八、九「は?」と聞き返されるのがオチでしょう。

あーこれで一つ日本語の読みに詳しくなった。

稲佐の浜には弁天島といって、現在は豊玉毘賣の命を祀っている岩があります。

現在の弁天島。
左の亀裂が深くなり、明らかにこの90年で岩の形が激変していますね。

■ 舞鶴

舞鶴は飛んで三景の一天橋立に遊ぶ
白砂青松十数町の間涼風を浴びつつ散歩する
爽快なる気分は忘れ難い

島根県から日本海を時計回りで舞鶴に寄港しました。
今でも練習艦隊の国内巡航は時計回りと決まっているようです。

天橋立の海岸沿いに全く建築物が見えません。
今は両岸にぎっしりと住宅が立ち並び町ができています。

天橋立といえば股覗きですが、この慣習には仕掛け人がいて、明治後期に
吉田皆三という人が環境事業の活性化の一端として(つまり町おこし)
喧伝され、観光客を通して広まったものです。

まあ、寿司業界が初めた「恵方巻き」古くはチョコレート会社が仕掛けた
バレンタインデー、それに続くホワイトデーみたいなもんですね。

天橋立は『丹後国風土記』でイザナギが天へ通うために作ったものとされ、
股のぞきを行うことで、天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬
天にかかるような情景を愉しむことができることから考えついたようです。

練習艦隊のみなさんも、皆で股覗きを真面目に行ったことでしょう。

■ 新潟

何処となく古の江戸情調の偲ばれる新潟の市は
新来の我等には一汐なつかしい味を興へる

信濃川と万代橋、米と石油、雪と美人がここ新潟の名物とか。

候補生は石油工業見学の為、新津油田に赴いた。

 

この頃すでに「秋田美人」というのは全国でも有名だったのですね。
なぜここに美人が多く、京都、博多と並ぶ美人の産地となっているかについては
いろんな説があるのですが、日照が少なく色白の肌の人が多い、
という理由以外で面白いのは

「関ヶ原の戦い以降、常陸国(現在の茨城県)の大名佐竹義宣が江戸幕府から
秋田への転封を命じられた腹いせに、旧領内の美人全員を秋田に連れて行ってしまった。
その後水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏へ抗議したところ、
秋田藩領内の美しくない女性全員を水戸に送りつけてきた為、
秋田の女性は美人で水戸はブスの3大産地の1つ(他の2つは仙台と名古屋)になった」

という説ですが、これって・・・・どうなの。

ってか誰がその送りつける女性の人選を行ったんですか。

候補生は新津油田の見学をしたとありますが、江戸時代から平成にかけて
ここでは採掘が行われていたそうです。

この頃には12万klを達成し、名実ともに産油量日本一の油田でしたが、
1996年に最後の井戸の採掘が終了し、油田としての役目を終わりました。

万代橋は現在でも国の重要文化財に指定されているということですが、
明治年間に信濃川に初めて掛かった橋でした。

重要文化財となっているのは1929年(昭和4年)完成と言いますから、
練習艦隊の写真のおそらく直後に取り壊しが始まり、架け替えられています。

白黒写真でわかりにくいですが、橋脚は木で組んでいるもののようですね。

新潟市街。

右に見えているのが信濃川だとすると、現在の新潟駅と川の間の地域でしょうか。
(新潟に詳しくないので適当に言ってます)

それにしてもこの写真・・・随分高いところからですが、何処から撮ったんでしょう。

■ 函館 

聞いてさえ血湧き肉躍るボートレース!!!
海の男の兒にふさわしいボートレース!!!

その火の出るような競漕が波静かな「ウスケシ」の海で行われた

鴎群れ飛ぶ「ウスケシ」の港
楡の若葉に日は溢れ
谷間の鈴蘭の香も揺らぐ

練習艦隊、なんと函館に来てまでカッター競技を行ったようです。

右下はまさに二艘のカッターが「波の火花」を散らして
雌雄を決しているところです。

そして左下、賞品が授与されたところ。
防衛大学校でもカッター競技には皆大変なファイトを燃やし、
全力で勝負に挑むそうですね。(参考:あおざくら)

もちろん幹部学校でも。

■ 大湊

緩やかな傾斜をなす鉢伏山の裾野に大湊が横たわる
淋びたりと雖も我が北海の重鎮!!!

冬季は「スキー」に「スケート」に高適の地である。

 

この頃の習慣として外来語をかっこでくくって書いてあります。
大正13年当時にスキー、スケートって一般的だったんでしょうか。

そういえば昔、ある海軍士官がスキーをしている写真を見せてくれた人が、

「この時代にスキーをやるなんてどんだけ特別階級だったんでしょうね」

とおっしゃっていたのですが、雪や氷があれば手作りの道具でもできるため、
案外庶民的な遊びでもあったのかなと思えてきました。

大湊要港部、現在の海上自衛隊大湊地方隊です。
掲揚台には少将旗が上がっているのが確認されますが、
これは大湊要港部の司令官が少将配置であるからです。

ちなみにわたしが存じ上げている海軍軍人の父上は、
この写真の撮られた10年ほど後に司令官を拝命しています。

宇曽利湖は恐山付近のカルデラ湖です。
グーグルマップで見ると、現在でも湖岸には建物一つもありません。

(しかしそんな土地で営業している”恐山アイス”って一体)

大湊というところにわたしは行ったことがないのですが、恐山が近い、
というだけで北海の要所ながら淋しいところなんだろうなあ、と
冒頭の紹介文を読むまでもなく想像しておりました。

艦隊陸戦隊の上陸とあります。
練習艦隊のことだろうと思うのですが、陸戦隊を臨時結成したとか?

大湊要港部のスキー陸戦訓練、とあります。
雪中訓練というと昔は陸軍、今は陸自の専売特許のようなイメージですが、
何がいつ起こってもいいように海軍の皆さんはこうやってスキーで
陸戦訓練を行なっていたということのようです。

やはり日露戦争を経ての経験から得た教訓でしょうね。


現在の海上自衛隊大湊地方隊は、かつての非鎮守府基地から「昇格」したことになります。
冷戦時代にはもっとも緊張していた基地であり、現在もなお、
日本の北端部の守りを行っている「我が北端の重鎮」であることに変わりありません。

■鳥羽

鳥羽から汽車で一時間宇治山田に着く。
国の鎮めの伊勢神宮に参拝す。

 何事のおわしますかは知らねども
     かたじけなさに涙こぼるる

 

最後のは有名な西行のもので、家族を捨てて修行の旅にでた西行が
伊勢神宮にたどり着き、その神々しさに打たれて詠んだ句です。

陸奥からいきなり三重県に回航、伊勢参拝を行いました。

山田駅前の集合、とキャプションがありましたが、これは伊勢神宮に近い
「宇治山田駅」のことで、当時は単なる「山田駅」らしかったことがわかります。

船ではなく各地に宿を取り、参拝の朝駅集合になったようですね。 

ところで、参拝をするために行進しているこの写真の先頭、
おそらく練習艦隊司令官だと思うのですが、これはおそらく
国内巡航の時のみ艦隊司令を務めた(と判断しているところの)
古川中将には見えません。

この姿形、どう見ても百武中将ではないでしょうか。

 

百武中将はこの時まだ舞鶴要港部司令の職にあったはずですが、
国内巡航で「ここぞ」という寄港地の時には舞鶴から馳せ参じ、
その時だけ練習艦隊司令官を交代して素知らぬ顔で?務めたようです。

 

続く。

 

 

 


「外地」と言う名の日本〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊遠洋航海

2018-01-26 | 海軍

大正13年度帝国海軍練習艦隊、「司令官交代の謎」を追って
ひょんなことから隠されていた(と言うか放置されていた)史実を発見し、
古本屋でのこの写真集との出会いは大変価値のあるものだったと
今更ながら自己満足にふけっているわたくしです。

一度帰国までのエントリを全部作成し、アップする際にチェックし、
その後新しくわかったことや間違っていた箇所を加筆訂正しているのですが、
今回はアップしてから読者の皆様方に問いかけ、アイデアをいただき、
もう一度全てを見直すことで限りなく正解に近づくことができました。

この場をお借りして御礼を申し上げる次第です。


ところで、ひょんなことといえば、最近、我が家のご先祖が
土佐藩士出身の陸軍軍人であったことがわかりました。
海軍でなかったのは残念ですが、わかったことは児玉源太郎と同期で、
児玉が大尉時代には大阪陸軍省で同僚だったという事実です。

今回、ご先祖が児玉源太郎と一緒に写っている写真を発見し、
江ノ島の児玉神社に詣でたことや、日露戦争の勝因の一つとなった
「児玉ケーブル」というべき海底ケーブル敷設について
児玉の功績をここでアップしたのも何かのご縁かと浮かれてしまいました。

この人物のその後もわかっているのですが、予備役となった後、
為政者として地域に貢献し、地元の名士になったようです。

歴史を紐解くことは現在と過去の対話、という言葉がありますが、
写真ひとつが時には過去を解き明かすドアとなるということが、
練習艦隊司令官問題に続いて実感できた不思議な出来事でした。


さて、問題解決のために、キイとなった鎮海要港部での写真を
皆様にお見せするために順序が入れ替わっていましたが、
改めて江田島出港を果たした練習艦隊が、国内巡航に先立ち、
国内は国内でも当時日本であった「外地」に赴くところから始めたいと思います。

「外地」「内地」

今では聞きませんが、終戦までの日本では普通に使われていた言葉です。

「外地」の定義は「大日本帝国における内地以外の統治区域」で、
「属地」と呼ばれることもありました。

具体的には以下の地域を指します。

 

この「関東州」の欄を開いていただければお分かりのように、大連は関東州、
1905年のポーツマス条約で日本がロシアから引き継いだ租借地にあります。 

一応念のためにあえて書き添えておきますと、ポーツマス条約
日露戦争講和条約のことで、アメリカが仲介をして締結されました。

これもお節介かと思いますが、講和内容を記しておきます。

日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。

日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。

ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。

ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、
付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。

ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)
の租借権を日本へ譲渡する。

ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。


これ以降、大連、そして旅順は「日本」となったというわけです。
朝鮮半島についていえば、もし日本が日露戦争で負けていたら、
朝鮮は日本が行ったような「統治」ではなくロシアの一地方として組み込まれ、
勿論今でも独立することはなかったと誰が見ても明白なのですが、
それでもあそこの人たちは、日本に「ひどい収奪支配を受けた」とか言って
いまだにひどい精神的苦痛を受け続けているらしいですね。

そして、日本の中国大陸進出のきっかけは、福島瑞穂()が口を開けばいうように
「侵略」というものではなく、戦争後の条約によってアメリカの立会いで認められた
正式な権利であったということになるのですが、その話はともかく、
赤太字の項目で日本が正式に得た租借地、それが関東州だったのです。

大正13年当時、大連も旅順も租借地になってすでに20年が経過しており、
日本が心血を注いで外地に求めた「理想の都」がすでに形になりつつありました。



【大連】

臼杵(うすき)佐世保を経、平穏なる海上に翡翠の漣を立てて
亜細亜大陸の一角大連港を訪う

豪壮な建物、美しき道路、緑滴る並木、完備せる埠頭、
先ず吾等の眼を驚かす星ヶ浦、老虎灘などに杖を曳いた後、
市の中央大和ホテルの屋上に立ちて全市を瞰下する時、
吾等の胸に去来するものはなんであったろうか

 

冒頭写真は大連の中心部。
放射状の市の中心部広場は実に美しいですが、
これらは皆日本統治となってから整備されたものです。

塔の前の銅像が誰のかはわかりません。

大連に上陸する練習艦隊の士官候補生たち。
埠頭には出迎えの人たちが並び、日本国旗が随所に見えます。

ヤマトホテルは現在でも営業しているということです。
ここにも銅像がありますが、軍人のようですね。広瀬大佐とか?

南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営し、多くの要人が利用した歴史があり、
2階には清朝最後の皇帝溥儀が泊まったという部屋も残されています。

スパイとして中国当局に処刑された愛新覚羅の血を引く川島芳子
ここで最初の夫と結婚式を挙げ、その写真が残っています。

戦艦「大和」がその巨大な艦体をトラック島に停泊させていた時、
彼女は「大和ホテル」と揶揄されていましたが、そのネタ元はこちらです。

大連市の中央通り。

旧横浜正金銀行大連支店(中国銀行大連分行)など、
日本が統治していた1910年代ごろに建てられた欧風の建物で
今も大連市内に残って使用されている建築物はいくつかあります。

アメリカに入植してきたイギリス人が「テムズ川」「ニューロンドン」と名付けるように、
日本も整備した新しい橋に「日本橋」という名前をつけたようです。

そういえば「三丁目の夕日」で「今にこの上に高速道路が走る」と
登場人物が予言していたところ、薬師丸ひろ子のトモエさんが、
戦争前に思いを寄せ合った男性と偶然再会する場所にとても似ていますね。

道ゆく人々も全て和装で、ここは日本だったんだなと思わせます。

日本が租借した遼東半島の「関東州」の大きさは鳥取県と同じくらいの大きさでした。
旅順はその最南端というべき位置にあります。

【旅順】

錨地から眺めると港口の狭いのに今更ながら閉塞隊の苦心を思う

白玉山頂二万五千の霊に捧げるに、若き勇士は何を以ってしたことであろう
赤い夕日の沈む時、上甲板に涼をとりつつ回顧する老雄の感慨や蓋し無量
緑の間にチラツク赤い建物は一寸外国を覗いた様な気を起こさせる

 

旅順というと海軍の閉塞作戦、そして水師営の会談などを思い出すわけですが、
この頃、大正13年はまだ日露戦争から22年しか経っていません。

それはちょうど彼ら候補生が生まれた頃にあった戦争で、
彼らは幼い頃、その武功や英雄伝をおとぎ話のように聴きながら育った世代です。

おそらく彼らは学校の訓育において、広瀬中佐の部下を思う責任感や、
そして勝って驕らず敗者をいたわった乃木将軍の武士道を学んだのでしょう。

そんな彼らが広瀬中佐や東郷元帥と道を同じく海軍を志し、
夢見て入った海軍兵学校、機関学校を卒業した今、
士官候補生としてその戦跡をみる気持ちは如何ばかりであったでしょうか。


練習艦隊が旅順を訪問することになっていたのも、彼らにその地を見せ、
先人の苦労を目の当たりにするとともに、海軍将校の一員であることの
責任を自覚させるというところに目的があったのでしょう。


そして紹介の文中にも窺えますが、この練習艦隊に参加した者の中には
将官から熟練の下士官に至るまで、若き日に日本海海戦、もしかしたら
旅順攻撃に参加したという軍人がまだ残っていたのです。

例えば司令官の百武三郎中将は「松島」「鎮遠」などを擁する
第三艦隊参謀として日本海大戦に参加しています。

水師営の会見が行われた建物を見学です。

20年前の建物ですが、前に石碑を建てて保存してあります。
これはもちろんその後中国側に破壊されたはずです。

 

候補生たちは市内観光に馬車を利用したようです。
三、四人で一台をチャーターすれば、一日観光できたのではないでしょうか。

閉塞作戦を記念する碑も見学しました。
この碑の台になっているのは、ロシア軍が使用した砲台の基でしょうか。

表忠塔というのは白玉山にあります。

戦争が終わってから、東郷元帥と乃木将軍が共同で作ったもので、
材料は日本から運ばれてきた、と説明されているそうです。

旅順港を一望俯瞰できるこの塔は、現在も保存されており、
現地の観光スポットになっているそうです。

中国人は何処かの国のように「日本憎けりゃ杭まで憎い」とばかりに
統治時代のものを測量の杭だろうが桜の木だろうが、なんでも破壊してしまうという
稚気じみた国民ではないので、日本が建てた堅牢な建築物はそのまま使い続けます。

ここも「そんなことがあったから残しておく」という態度で現在でも保存されているのです。

まあ、これが普通だと思うんですけどね。

爾霊山(にれいさん)記念塔

日露戦争が終わった1905年に建て始め、1913年に完成しました。
銃弾形の塔は二〇三高地で拾い集められた弾丸と砲弾の薬莢を
溶かし鋳造して作られたのでこれだけ年月がかかったということです。

そう、ここは二百三高地。
ここを

爾霊山(二百三高地→203→にれいさん\(^o^)/)

と名付けたのは他ならぬ乃木将軍であったそうです。

乃木将軍の二人の息子もここで戦死したことを考えると、
爾(なんじ)の霊の山という字を選んだわけが自ずと見えてきます。

爾霊山慰霊碑も未だに健在で、一世紀を経たその姿を見ることができます。


さて、練習艦隊はこの後、外地の一である朝鮮半島は鎮海に寄港し、
その後内地に帰って本当の国内巡航、「内地巡航」を行うことになります。


続く。


 

 


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜百武中将の司令官交代と兵学校卒業式

2018-01-09 | 海軍

さて、新橋の古本市で手に入れた大正時代の練習艦隊の記念アルバムを
順を追ってご紹介しています。

次に進む前に、わたしは読者の皆様にも推理していただいた、

「艦隊司令官が古川中将から百武中将に変わっていた件」

もう一度整理してみます。
皆様のご意見を見ながらつらつら考えていて、実は
ある可能性を発見したのです。


●まずこの練習艦隊が大正13年に出航をしたことは間違いありません。
13年、14年というのは遠洋航海が14年にも及んだという意味で、

「13年度遠洋航海」を意味することはもはや確定です。

●そして大正13年度遠洋航海の参加艦艇は「八雲」「出雲」「浅間」。

●参加した兵学校の期数は52期です。

wikiにも載っている、つまり海軍に残された遠洋航海に関する正式な記録は

大正13年海兵52期等は古川司令官
大正14年海兵53期等は百武司令官

というものですが、アルバムを見れば一目瞭然。
実際の大正13年遠洋航海艦隊司令は最初から最後まで百武中将一人です。
そもそもこのアルバムには、全行程を通して一切古川司令官の姿はありません。

だいたい司令官が二人いて、前半と後半で交代、などは考えられませんよね。

なお、

●アルバムの揮毫は百武三郎中将のものだけである

●参加名簿の艦隊司令官は百武三郎の名前しかない

つまり、

大正13年度 海兵52期等遠洋航海司令官は 百武中将だった

 

というのが史実であり、現在残っている記録はその訂正を行なわず
間違ったまま残されたものではないか、
というのがわたしの出した結論です。

それでは、なぜそのようなことになったのか。

まず司令官交代の考えられる理由としては三つです。

1、大正13年の艦隊司令だった古川鈊三郎が何らかの事情で行けなくなった

2、百武三郎がどうしても今年参加しなければならない事情があった

3、その両方


実は、この遠洋航海について最後まで精査した今、わたしは
2番、百武中将の事情でこうなったのでは、大胆にも仮定します。

 

アルバムに沿ってご紹介していく過程でそのうちお話しすることになりますが、
今回の遠洋航海のルートは南米からアメリカ、そしてカナダに寄港するのがメインです。

カナダではブリティッシュコロンビアのエスカイモルトに寄港しますが、
一行はここで、かつて練習航海途上、不幸にも病気で命を落とした兵学校19期卒の
士官候補生、草野春馬の現地にある墓所を訪ね、慰霊を行なっているのです。

 

百武三郎は兵学校19期のクラスヘッドとして卒業しています。
その彼が士官候補生として参加した遠洋航海航路途中の悲劇でした。

ここからは全くのわたしの推測です。

 

大正十三年六月。
兵学校五十二期の卒業と国内巡航を一カ月後に控えた日のことである。

百武三郎は大正十四年度練習艦隊司令官に任ぜられたとの知らせを受け、
若き日に駐在武官として欧州に行ったきり、もう一生行く事も無いと思つてゐた
外国を艦隊司令として再び見られることに内心欣喜雀躍した。

「さうだ、『クラスメート』の草野が死んだブリチッシュコロンビヤに行き、
彼の墓参りをする最初で最後の『チャンス』ぢゃ無いか」

百武は客死した「クラスメート」の棺を候補生全員で涙と共に葬り
彼を一人異国の地にに残してきたあの日をまざまざと想ひ出した。

「草野・・・・貴様の墓所に花を供えに行つてやるぞ」

しかし、百武は14年度の予定航路を具に聞くや愕然とした。

東南亜細亜、そして豪州だと・・・・。

一生に唯一度、艦隊司令官として遠洋航海に出ると云ふのに、
嗚呼痛恨の極み、一年違ひで北米廻りでないとは!!

・・・否。

俺たちが士官候補生として遠洋航海を行なつたのと
今年の練習艦隊の『コース』は、ほぼ一緒だと聞く。

それなら、今年行けば善い。来年でなく、今年行くのだ。

さうだ、古川に今年の司令官を交代して貰へばいいのだ。

幸ひ古川は俺より二期学年も下だからなんとかなるだらう。

彼奴が四号の時に俺が修正した事も多分なかつただらうと思ふ。(笑ひ)
頼めば快く今年の艦隊司令を代わつて呉れるに違い無い。

きつと・・・・・。

 

んな風に考えた百武中将は、クラスメートの眠っている墓所を訪ねる、
というこれ以上ない「行かねばならぬ理由」と、古川より二期上のクラスヘッド、
という立場を強権的に生かして(笑)出航間際に
無理やり司令官を交代してしまったのでは?というのがわたしの推理です。

どうでしょう。
え?まるで司馬遼太郎並みの針小棒大な創作だって?


百武は古川とは同じ中将といっても二学年上というだけでなく、
佐賀藩士出身で、二・二六事件のあとは鈴木貫太郎に代わって侍従長を務め、
後に天皇陛下の第三皇女、和子内親王の教育係を行なった、
というくらいの超エリート軍人ですから、いかに理不尽な願いでも
申し出を断ることは周りもできかねたのではないでしょうか。

しかし、謎はもう一つあります。
直前に急遽変更になったとはいえ、なぜその後も書面は書き換えられなかったのか。
そしてそのまま今日までその情報が残されているのか。


これも推測ですが、百武中将のゴリ押しが本当に出航の直前だったため、
司令官の交代が急で、
辞令とかそれに伴うお役所仕事をゼロからやり直す暇もなく、
書面上は「13年度古川中将」のままで百武中将が実質司令官となったのでは?

そして練習艦隊は出航してしまったので、書類は結局書き換えられず、
のちの歴史にも
変更前の記述が残っているのではないでしょうか。


この推理がもし、万が一当たっていると仮定すればですが、
艦隊司令の突然の交代申し入れは、ことに事務方にとって

大変な迷惑でしかなかったにも関わらず、結局海軍は
百武中将の無茶な希望を叶えてやったということになります。

それも、書面を変更せずにしれっと人間だけすげ替えてしまうという
今なら考えられないようないいかげんなやり方で。

だとすれば、海軍というのは建前は建前として、なかなか粋な計らいをする、
”情を汲む組織”であったといえますし、百武ほどの軍人であればこんな無理も通る
「隙のある」組織であったということもできるかと思います。


もちろんこの一連の推理はあくまでもわたし個人の判断に基づくものですので、
どなたか司令官交代と文書の整合性について、何か史実をご存知でしたら
ぜひご教授いただければ幸いです。

 

さて、練習艦隊の第一歩は海軍兵学校の卒業式から始まります。
(一緒に参加する海軍機関学校の卒業式については写真や資料がないので
お話しすることができないわけですが、今はさておきます)

それにしてもこの冒頭の写真は一体・・・・。

江田島に行ったことのある方なら、これが大講堂の裏門に近い出入り口、
例えばこの頃ならかしこき辺りの方々が出入りになられるところを
現在の「レストラン江田島」のある建物の前から見たところ、
とおわかりいただけると思いますが、それにしてもフォーカスが無茶苦茶です。

建物にはもちろん、手前の柳の葉にもピントが合っていない不思議な写真。
しかもこれがページいっぱいの大きなものです。


「偉大なる海を想い、渺茫たる太陽を憧憬せし若人の
華やかなる活動の舞台は将に展開せんとす
見よ、江田島の湾内に浮かぶ練習艦隊八雲浅間出雲の三艦
希望に輝く初夏の空、恭しくも聖上陛下第三皇子高松宮殿下を
御同窓として戴き祝福されたる若人の門出
輝く軍艦旗の下にたちて、江田島よ、さらば!」

わたしは幸運にも昨年度の幹部学校卒業式に出席していますが、
同じ江田内に「かしま」をはじめとする自衛艦が浮かんでいたのを思い出します。

煙突からは黒煙を噴き出しているという船の姿形の違いはあれど、
あの光景を知っている目には、この白黒の写真から実際の空気の色まで想像できます。

練習艦隊は卒業式をを目前に、江田湾で壮途への出航をいまかと待っています。

そして大講堂での兵学校52期の卒業式が行われました。

大正一三年七月二十四日

山階宮武彦王殿下の御台臨を辱ふし
古鷹山下海軍兵学校に於て卒業式挙行さるる


52期の卒業式は真夏に行われました。
写真で玉座におられる山階宮武彦殿下は、父君の菊麿王に続き兵学校46期卒、
皇族として初めて海軍航空隊に所属し、「空の宮様」と異名をとった殿下です。

経歴を見ていて驚いたのですが、この前年の大正12年の関東大震災で
山階宮家の鎌倉別邸にたまたま滞在中であった武彦王は
初子懐妊中の妻佐紀子妃を建物の倒壊によって亡くしているのです。

wikiには、その結果、武彦王は精神を病み開かずの間にお籠りになった、
ということが書かれているのですが、この時には少なくとも海軍軍人として
こうして人前で儀式を行っておられます。

ちなみに当時殿下は二十六歳、薨去された佐紀子妃はまだ二十歳でした。

武彦王はこの翌年の1925年(大正14年)3月には、民間航空振興のため、
練習費を徴収しない飛行機搭乗者養成機関、『御国航空練習所』
を建立しておられます。

この写真の直後には早くも後添えをお貰いになる話が出たということですが、
その縁談も王の病状が原因で破談になったということです。


尚、52期クラスヘッドは入江籌直ですが、戦史にはその名前を残していません。
源田実は17番、淵田美津雄は108番の成績です。

卒業式を終え、大講堂から表門に敬礼しながら退場される高松宮殿下。
殿下が赤痢にお罹り遊ばすのはこの2ヶ月後の9月です。

どうも殿下は卒業後、国内巡航には最初から参加されなかったようです。
つまり11月の横須賀からの遠洋航海に参加するつもりをされていたのが、
9月に病気になって、参加が取りやめになった、ということではないでしょうか。

卒業後、皆は「伊勢」など練習艦にランチで乗り込んでいくのですが、
殿下のランチだけは一応表玄関から卒業していったものの、どこかで乗り換えて、
一度は都にお戻りになったということではないかと思われます。
ランチの天蓋の下には、遠目にもそうとわかる殿下の制服姿が確認できます。

あ、ということは赤痢は卒業後罹ったということに((((;゚Д゚)))))))

練習艦隊の軍艦に乗り込んで「帽振れ」をする候補生たち。
この頃の軍艦の艦体というのは海面からほぼ垂直にそそり立って見えます。

そして「帽振れ」は今よりずっと、なんというかフリーダムな雰囲気ですね。
今は自衛隊では登舷礼で並ぶ位置にマーキングして美しく整列するようですが、
これを見る限り、帽振れの最中も手すりを掴んで舷側に鈴なり状態。
少なくとも当時は今ほどかしこまった儀礼ではなかったように見えます。


この後、大正、昭和と時代が進むにつれ、帽振れは徐々に儀礼化してゆき、
今の形に落ち着いたのではないかと思われます。

もっともこの頃の軍艦は、候補生が一列に整列して並べる形状ではなかった、
ということなのかもしれませんが。

 

さて、江田島を旅立った士官候補生を乗せた練習艦隊は、まず国内巡航、
国内の寄港地を周る訳ですが、この頃の国内巡航には今では存在しない
「外地」が含まれていました。

中国大陸、そして朝鮮半島です。

 

続く。


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜淵田美津雄を探せ

2018-01-08 | 海軍

今風にいうと大正13年度遠洋練習航海、当時の名称で
帝国海軍練習艦隊の遠航アルバムを手に入れたので、それをここで
ご紹介していくことにしました。

なお、平成29年度遠洋練習航海の航路と重なっている寄港地については
水交会で行われた練習艦隊報告会で艦隊司令真鍋海将補が紹介された
スライドの写真などを活用してお話ししていくつもりです。

前回は艦隊司令官の名前がアルバムと違っているということで
その謎を解き明かそうとしてみましたが、やっぱりわからないので断念。

今日は練習艦隊参加艦艇とその乗組員、参加した候補生の写真を紹介します。


まず、軍艦「八雲」の乗組員総員写真です。

たくさんいすぎて後ろの人は顔が全く確認できませんが、
それではこうやって目立ってやろうとばかり、
マスト横で変なポーズをしている人がいますね。


軍艦「八雲」はドイツから輸入した装甲巡洋艦で、1900年から就役し、
日露戦争に参戦したあとは練習艦の代名詞のようにもなっていました。
その後、老体に鞭打って大東亜戦争にも対空砲専門で参加をしています。

そして戦没を免れて生き残ったあとは、近距離専門の復員業務に携わり、
ここでも触雷などに逢うこともなく無事にその一生を全うしました

 

冒頭画像は軍艦「浅間」総員の写真。
主砲に座って得意そうに腕組みをしている水兵さんたちを拡大しました。

写真を撮るときに動いてしまい、顔がブレてしまった人がいますね。

みんな20歳前後、もしかしたら十代が多いのかもしれません。
こうして特にセイラー服や下士官姿の青年を一人ずつ見ていると、
当たり前ですが、そのまま今の海上自衛隊の海曹海士にいそうな顔ばかりです。

この写真は1924年に撮られたものですから、彼らは今の海士のひいお爺ちゃん世代。
確実に全員がこの世にいないのが何か不思議な気がしてきます。




「浅間」も「八雲」と同じく装甲巡洋艦で、戦後まで生き残っています。

イギリス製で、なんども天皇陛下が座乗されるお召し艦になっており、
もし高松宮殿下のご参加があったなら「浅間」に乗り組まれていたに違いない、

とわたしは予想したのですが、その後、参加候補生名簿を見て驚きました。

あったのです。

「浅間乗り組み候補生」の最初に「宣仁親王」のお名前が。

アルバムが作成されるということは、その時点でもう練習航海は終わっていたはずですが、
写真はともかく、なぜ殿下の御名前が参加名簿から消されなかったのか・・・。

まあ、理由はわかりますが、何だか配慮申し上げすぎて変なことになってますね。

 

さて、第一次世界大戦で派出されたメキシコで座礁、その後広島湾でまた座礁、
(こちらは当直将校のミス)とご難続きの「浅間」さんでしたが、
大東亜戦争では幸い最後まで生き残りました。

「浅間」に乗った少尉候補生の中には福地周夫(ふくちかねお)の名前があります。

福地は「陸奥」運用長を拝命直後、大動脈瘤と誤診され、療養のため退艦したことで
その直後におこった謎の爆沈事故から逃れたという強運の持ち主です。

また福地大佐は珊瑚海海戦において被弾した「翔鶴」において、運用長として
冷静な判断による的確なダメコンを行なった、ということを評価され、
当時帰国して講演会をしたそうですが、その時肝心の艦隊主要指揮官幕僚は
「あの」ミッドウェイ海戦に備えた図演のため一人も参加していなかったという・・。

こうして後から知ると何という歴史の皮肉なのでしょうか。

軍艦「出雲」総員写真です。

「出雲」は日露戦争の殊勲艦で、あの上村艦隊の旗艦として
蒜山沖海戦ではロシアのリューリック号を撃沈し、
さらには海上の敵兵を救助したことでも有名になりました。

日本海海戦では「磐手」とともに連合艦隊のしんがりで活躍しています。

そんな「出雲」ですが、その後第一次世界大戦ではメキシコ動乱に
警備艦として派出され(集団的自衛権の行使というやつですね)
帰ってからは装甲巡洋艦の類別のまま練習艦に採用されていました。

この写真の頃には一等海防艦に種別変更されています。

「出雲」の右舷側もアップにしてみました。
一人お立ち台に立っている水兵がいますが、ここは
この時代の軍艦の信号兵のポジションでしょうか。

波が高い時にここに立つのはむちゃくちゃ怖いと思うんですけど。

しかし、海軍の団体写真では誰一人歯を見せたりしてませんね。

「八雲」の准士官以上です。

准士官とは下士官出身で士官に準じる待遇を受けるもの、という定義で、
この頃にはそれまでの上等兵曹から兵曹長という呼称に変更されていました。

写真を見ると年配の軍人はほとんどが口髭を立てています。
この頃の流行りでもあったんでしょうね。
海上自衛隊では髭は先任伍長、というイメージがありますが、
オフィサーで髭を生やしている人は見たことがありません。

右から5番目は艦長の鹿江三郎大佐ですが、足の揃え方といい、
視線が明後日を向いていることとい、どうも緊張感がないような・・・。


「浅間」の准士官以上です。

「浅間」の撮影の日は運悪く雨が降っていたようです。
軍人は傘をささないという習慣がありましたから皆は平気だと思いますが、
写真屋さんはさぞかし苦労したことでしょう。

この写真を見る限りかなりの雨が甲板を濡らしています。
こういう雨の中で撮られた海軍の団体写真はあまり見たことがありません。

よく見たら上階で何やらお仕事をしている水兵さんがいますね。

雨が降っているので信号旗のラックにカバーでもかけているんでしょうか。
作業が写真に写ってしまうのは構わなかったのでしょうか。

「出雲」の准士官以上。
手すりに幕が貼られています。

現代の自衛艦も、出国、帰国行事の時にはこのような白幕が貼られます。
「出雲」は着々と出国行事のための準備中だったのかもしれません。

それにしても「出雲」はこの時就役して26年たっているはずですが、
さすがの日本海軍、手入れが行き届いて主砲はピカピカ、ペンキは塗りたて。

これも全て出国行事に合わせて万全の補修を施したのでしょう。

「八雲」に乗り組む予定となった士官候補生たち。
兵学校の短いジャケットからもうすでに士官用の長いジャケットに変わっています。

「八雲」に乗り組んだ少尉候補生の中には、後年真珠湾攻撃の飛行隊長となった
淵田美津雄、「神風特別攻撃隊」の命名者となった猪口力平がいます。

猪口力平の顔まではわかりませんが、あの!淵田大佐なら、
きっとどこにいるかわかるに違いない!

とわたしは半ば確信を持って全員の顔を熟視して探してみたのですが、
最上段に立って非常に目立っている二人のうちの左側、

この人淵田さんじゃないですかね。
遠目に見た方が淵田美津雄っぽく見えるかもしれませんのでお試しください。

なお、少尉候補生の名簿は、どうやら成績順らしく、「八雲」の2番目に

内藤雄(たけし)大佐

の名前があります。
兵学校卒業時の成績は236名中6番、クラスでも昇進がトップグループだったため、
福地周夫が少佐の時、もう中佐で、小沢治三郎を補佐する参謀になっていました。

戦闘機に進んだ源田とともに「戦闘機の源田、爆撃機の内藤」として知られ、
海軍爆撃術の体系化に功績があった士官搭乗員です。

しかし優秀で、連合艦隊司令官古賀峯一の参謀にまでなったことが彼の死を早めました。

昭和18年4月。
古賀長官と共に内藤が乗り込みダバオに向かった二式大艇は
その途中で行方不明になり、撃墜されたと後に認定されました。

この「海軍乙事件」で、内藤は死後1階級昇進し大佐に昇進しています。

 

こちらは「浅間」の士官候補生たち。

先ほどの水兵さんはカバーをかける仕事を終わったようですね。

それから、左手の舷門のところに鳥打ち帽をかぶった一般人が
ちょうど仕事を終わったのか退出していくのが写り込んでいます。


それから、一人なぜかこの雨の中サングラスをかけている候補生が・・・。
目が腫れているかなんかで見せたくなかったんでしょうか。

しかし皆キリッといい顔をした青年ばかりですね。

そして「出雲」の士官候補生たち。
この写真のどこかには少尉候補生時代の源田実が、小柄な体躯ながら
ぎょろりと鋭い眼をレンズに向けて写っているはずです。

この真ん中の人・・・・どうですか?

また、この「出雲」には、のちに日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、
その技量と統率力から「陸攻の神様」「 海軍の至宝」と言われた

入佐俊家少将

も乗り組んでいました。
常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも信頼を受けた指揮官でした。

入佐は1944年(昭和19年)、小沢治三郎中将のたっての指名を受け、
第六〇一海軍航空隊司令兼空母「大鳳」の飛行長となりますが、
その後マリアナ沖海戦で「大鳳」が爆沈した際に戦死しました。

戦死後は二階級特進し、海軍少将に任ぜられています。

続いて、練習艦隊絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊の写真。

この写真の司令部付きというのはおそらく従兵のことではないかと思われます。
士官の世話を身近で行う従兵は気が利いて頭の回転が早く、
しかも清潔感のある人物しかなれなかったので、それだけにその後の出世も早かったとか。

最後に、軍楽隊の皆さんをアップにしてみました。
自衛隊の練習艦隊音楽隊は各音楽隊からの志望で結成されているそうですが、
この頃はどうなっていたのかはわかりません。

さあ、これで練習艦隊全部隊の紹介を終わりました。
それでは次回からいよいよ航海の写真をご紹介していきましょう。

まずは江田島での卒業式、江田湾出港からです。


続く。


大正13年度 帝国海軍練習艦隊〜遠洋航海アルバムとの出会い

2018-01-06 | 海軍

ある日TOが「OLD IRONSIDES」という洋書を買ってきてくれました。

この「オールド・アイアンサイド」(鉄の横っ腹)は他でもない、
ボストンで見学し、ここでも長きにわたってお話ししたアメリカの
「ナショナルシップ」、コンスティチューションの今昔について
リタイアした海軍軍人が書いた写真入りの英語の本(1963年発行)です。

写真を撮っていて初めて気がついたのですが、JFKが前書きを書いています。

「私の小さな時の海軍にまつわる最初の記憶は、チャールズタウンの
USS「コンスティチューション」を見に行ったことだった(以下略)」

「新橋の駅前で古本市が始まってたのでとりあえずこれを買ってきてあげたよ」

「うわ、嬉しいー!ありがとう」

「海軍兵学校の写真集なんかもあったよ」

「それ買ってきてくれればいいのに」

「でも高かったし、そもそも要るかどうかわからなかったから・・・。
来週いっぱい古本市やってるみたいだし、行ってみたら?」

 

ちなみに「オールド・アイアンサイド」は「安かった」そうです。

というわけで、週明けに早速新橋駅前のロータリーに並んだテントの
古本市に足を運びました。

たくさん本屋が出ているので、その中からTOのいう遠洋航海の写真集とやらが
一体どこで売っているのかわかるだろうかと大変不安を感じたのですが、

「そういう系統の本を扱っているところは一部だから」

という言葉を思い出し、一通りざっと回遊してみました。

すると、向こうの方から存在を主張するかのように、あるいは
見つけてくださいと言わんばかり目に飛び込んできたきた一冊の古びた本。

 

「これだ」

わたしは思わず口に出して独り言をいいました。

元は白かったと思われる縒った紐を四、五本ずつ束ねて製本した
布表紙に金文字で

「大正十三 十四年 練習艦隊巡行記念」

と書かれています。

手に取ってみると、中をめくってみられないように
本はビニールで包んでセロテープできっちりと止めてありました。

「すみません、これ中見せてもらえますか」

お店の人に声をかけて、中を見ました。

大正13〜14年の遠洋航海といっても、果たして大枚をはたいてまで
わざわざ買う価値があるものなのだろうか。

もし中を見て、全く興味を惹かないようなら潔く諦めよう、
そう思ってページをめくると、

「軍艦八雲」「軍艦浅間」「軍艦出雲」

というおなじみの軍艦の名前、そして候補生の名簿からは

「猪口力平」「淵田美津雄」「源田実」

の名前が目に飛び込んできました。
それを確認するなり、
わたしは「これください」と頼んでいました。

店の人は、

「これは出版された本じゃなくて航海に参加した人しかもらえなかった、
つまり出版されたわけではないのでものすごく価値があるものですよ」

と言いながらも、こんな古本を5分もかけずにお買い上げになったのが
女性であったことに少し驚かれたようで、

「・・なんか本でも書かれるんですか?」

としみじみ聞いてこられました。

まあ、仕事が物書きで、資料に必要という事情でもなければ
古本にポンと3万円も出すのは奇矯な部類に属するかもしれません。

「いえ、興味があるだけなので・・・もし他にこんな系統
(海軍関係)があれば見てみたいですが」

そう言って他のお店を物色しているとそこで見つけたのが「海軍兵学校名簿」。
もし成績順になっていれば買おうと思って中を見せてもらっていたら、
(あいうえお順だったので購入を断念)さっきの本屋さんが後ろから忍び寄ってきて、

「あのー、こんなんありましたけど」

見せてきたのは

「軍艦香取聖戦記念写真集」

おっ!とまたしても目を輝かせたわたしの様子を見るなり、

「さっき買ってくれたからこれ五千円値引きしますよ」

大変商売上手な本屋さんでした。

 

というわけで、ほとんど衝動買いした練習艦隊記念アルバム、
せっかくですのでここでご紹介していきましょう。

というか紹介したい。紹介させてください。

 

 まず、練習艦隊司令官の百武三郎海軍中将の筆による

「内省実行」


という書が最初のページに出てきます。
海軍兵学校をクラスヘッド、恩賜の短剣で卒業した百武は海軍大将で予備役となり、
二・二六事件の後負傷した鈴木貫太郎に代わって侍従長を務めました。


そんな人物ですので、当たり前に達筆です。
バランス、墨のカスレ、省略、デフォルメ、全てが芸術的。

このころは今より「書は人なり」が生きていたのです。

このページを見て、練習艦隊司令官が二人いるのにはて?と思い、
次に『大正十三、十四年』と書かれているのに首をひねりました。

ウィキによると、

【大正13年度練習艦隊】

司令官古川 鈊三郎海軍中将
兵学校52期、機関学校33期、経理学校12期
「出雲」「八雲」「浅間」

【大正14年練習艦隊】

司令官百武三郎中将
兵学校53期、機関学校34期、経理学校13期
「磐手」

それなら両中将が同じ写真集におさまっているのはなぜなのか。

アルバムを見ていくと、実際の艦隊司令官は百武中将で、古川中将はいません。
しかし写真の上3人は右から「出雲」「八雲」「浅間」の艦長。
(下3人は右から先任参謀、軍医長、機関長)

実際にも参加艦艇は「出雲」「八雲」「浅間」の3隻で間違いありません。

どう見ても、大正13年度の練習艦隊司令(古川)と14年度の艦隊司令(百武)
の名前が入れ替わっているのです。

わたしはいきなり難問に直面し、うーんと唸ってしまいました。

ちなみに名簿に載っている少尉候補生の期数は52期。
考えても調べても、この違いを埋める発見はついに現れません。

しかし唸っていてもラチがあかないので、とりあえず写真集を具に見ていけば
何事かわかるかもと思い直し、先に進むことにしました。


アルバムの最初には高松宮宣仁親王のお姿がありました。

高松宮親王は海軍兵学校予科を経て兵学校52期に入学しましたが、

「無試験で入学できる皇族子弟は他の生徒より
知的・体力的に劣らざるをえなかった。
宣仁親王の予科入学に際してはレントゲン検査も含め
健康管理に万全の準備が整えられていたが、凍傷になったため
他の生徒とは異なる厚手の作業着が用意された」wiki

兵学校跡である現在の第一術科学校の坂を上っていったところには
高松宮のために作られた一軒家があります。

一般の学生は余暇を「下宿」で過ごすことになっていましたが、
平民の家が殿下を受け入れるわけにもいかず、ということで
殿下が週末を過ごすための別邸が殿下入校が決まってから建てられました。

それまでにも皇族の方々の在校を仰ぐことはありましたが、
の度は畏れ多くも天皇陛下のご子息の初めての入校とあって、
全てにおいて特別扱いがあったことがこの一事からもうかがえます。


さて、アルバムにそのお写真があるものの、高松宮親王は兵学校卒業して
少尉候補生になった9月、赤痢を罹患し遠洋航海参加を断念されることになります。

健康に万全の注意を払ったはずなのに、嗚呼、文字通り殿様育ちの殿下は、
あっさりと赤痢なんぞにお罹り遊ばしてしまわれたということになりますが、
一体その直接の原因は何だったのかがとっても気になります。

考えたくはないですが、何か下賎なものでもこっそり買い食いされたとか・・・。


しかしここだけの話ですが、練習艦隊司令部は殿下の参加が叶わぬとなった時、
実は内心ホッとしたのではなかったでしょうか。

殿下が乗艦されるとなると、司令部、幕僚から候補生、下々のものまで
殿下の一挙一動に神経を払わなくてはなりませんし、寄港地の側も気を遣います。
迎え入れる方も大変ですし、おそらく専用のスタッフが一個小隊必要になってきます。

何より航海中に万が一の事態が起こり怪我や事故、病気などということでもあれば、
下手したら関係者の首が一つならず飛ぶことにもなりかねません。

当時の医療では航海中の不慮の事故や病気に対応するにも限界がありましたし、
実際に遠洋航海中死亡して異国の地に葬られた候補生もいたという時代です。

今回の遠洋航海では、そんな不幸な候補生の墓にお参りをするという行事が
スケジュールに組み込まれていたくらいでした。

病み上がりの殿下を1年近い航海に連れ出すのはあまりに双方に負担が大きく、
畏れながら不参加になっていただき助かりました、というのが本音でしたでしょう。

司令官と各艦艦長、及び幕僚の艦上での記念写真です。

百武司令の左が浅間艦長七田今朝一大佐、一番左が
八雲艦長鹿江三郎大佐、一番右が出雲艦長である
重岡信治郎大佐らしいことはわかりました。

この頃の軍服はまだ変更前の、ウィングカラーシャツのダブルスーツです。
今現在の海自の制服はこちらに近いとも考えられますね。

そして、しつこいようですがもう一度思い出してください。
ここには古川中将の姿はありません。


現在の資料には残っていないけれど、何かの事情があって
14年度の練習艦隊司令古川中将が参加できなくなり、
仕方ないので司令官だけ百武中将と交代した。

古川中将の写真が掲載されているのは、一応敬意を表して、ということで、
実は古川中将は翌年の14年度の司令官を務めたのでは・・・?

というのがこれまでのところのわたしの推理です。

というか、結局最後までこれを覆すような発見はなかったわけですが、
もしどなたか
この事情を解き明かすか実際のところをごぞんじであれば
ぜひ教えていただきたく思います。

 

続く。



海底に斜めに突き刺さる伊58潜水艦〜海没処分潜水艦調査

2017-12-04 | 海軍

イベントが重なって喉風邪をひいてしまい、まだ本調子ではないのですが、
知人よりこんなイベントがあると聞いて聴講してきました。

五島列島沖合に海没処分された潜水艦24艦の調査

海底に斜めに突き刺さる伊58潜水艦ー

ラ・プロンジェ(フランス語で”潜水”の意味)深海工学会という団体が
独自に行なっている海底調査についての報告で、内容はタイトル通り。

終戦後、日本海軍が保有していた艦艇は潜水艦も含めそのほとんどが
廃棄処分になりました。

「長門」が水爆実験(クロスロード作戦)でその生涯を終えたのは有名ですが、
日本の技術を結集した伊、呂、波型の潜水艦は五島列島沖、
戦艦大和が眠る地点からそう遠くない海底に沈められたことがわかっています。

当学会はこの現場を探索し、現代の科学で可能になった探索データをもとに
それらのアイデンティファイを行なっている団体です。

もちろん国からも一切支援が出るわけではないので、全て寄付金から
活動資金をまかなっており、そのため
幾度となくこうした公開の場で
その進捗状態と活動そのものを広報しているというわけです。

というわけで、講演の行われる横須賀の記念艦「三笠」にやってきました。
ここに立つのはずいぶん久しぶりのような気がします。

最初に来た時にこの「軍艦の碑」の写真を撮って、そのことについて
ログをアップした日、東日本大震災が起きました。

それからしばらくの間掲載をストップしていたのもずいぶん昔のことに思えます。

前回来た時(米軍基地のフェスタの日だったかな)にはなかった案内。
なんとご親切にも30分コースと1時間コースのご提案です。

今日の講演は中甲板艦首にある講堂で行われます。

ところで、これまで何度か来て気づかなかったのに、今日、
ラッタルを上ろうとすると、どこかにセンサーがあるのか
「ホーヒーホー」とサイドパイプの音が鳴り響いたのには驚きました。

乗客全員に東郷平八郎元帥になった気分を味わってもらおうという趣向です。

講堂のある艦首側に向かって歩いて行く途中に建造当時の甲板あり。
(巾広い部分)と言われましても・・・どこのこと?

砲撃中の砲郭の実物大模型も健在です。
ちなみにこれらの砲は全て模型です。

時間があったので中甲板展示室も少し見学しました。
軍神広瀬中佐が使用していた柔道着。

測距儀も、わたしはここで見たのが最初だった覚えがあります。

なんと、最新式の海戦ゲームが導入されておりました。

三笠に乗ってバルチック艦隊と戦ったりするわけですか。
じゃ東郷ターンを使わずに勝てるかどうか、などというシミュレーションも楽しめるんだ。

艦内には外国人観光客(白人系、多分ロシア人)が結構いて、彼らが
楽しんでいたのがバーチャルゴーグルをつけて行うゲーム。

時間があればちょっとやって見たいと思いました。

まず最初に代表理事の浦環氏が(男性です)調査結果を淡々と報告されました。
つまり海底に眠る潜水艦をスキャンして解析し、それが
なんなのかをこれまでの研究から特定して行く過程、その結論に至った理由などです。

本講演のタイトルにもなっていた「海底に斜めに突き刺さっている」伊58の画像。
ほぼ半分が海底に突き刺さっているわけですが、一体どういう経過で
このように直立することになったか想像を巡らすだけでワクワクしてしまいます。

呂号50は鎮座している状態です。

これらのスキャンのために器具を曳行したりする作業を行なった日本サルベージの船。

この日はニコニコ動画の生放送も入っていました。
以前にも海中のカメラ画像をインターネット衛星を通して配信したことがあります。

初めて知りましたが、過去の探索の様子は、当時生放送でたくさんの人が鑑賞し、
その調査結果に注目していたということなのです。

海没処分にされた潜水艦は全部で24隻。
皆ひとところに次々と廃棄したらしく、こんな感じで海底に散らばっています。

そして、演者は代わり、どうやって艦名を特定していったかの詳しい説明が続きます。
もし興味がおありでしたら、ニコニコ動画でご覧ください。

建造時に残された写真を解析し、艦橋の形、窓、穴が空いている場所など、
沈んでいる潜水艦と照合して特定していくのです。

大変な仕事ですが、わたしにはこういうことに夢中になる気持ちはよくわかります。
さぞかし楽しんでやっておられるんだろうなと思いました。

各艦の細かいアイデンティファイについては、当日会場で販売されていた
資料集に事細かに載っています。

さて、次にこの探索を行ったガジェットについての説明が
技術者の立場から行われました。

スキャニングの方法は大まかな方から三通りあります。

まずどこにあるかの初期的な探索を行うための方法。
船を当確海域に走らせて海底を上からスキャンします。

水深が20mくらいならかなり鮮明な画像が得られますが、200mとなるとこう。
「潜水艦らしきものがある」という感じですね。

潜水艦の場所が特定できたら、ソナーを船で曳航し、
横からのスキャニングを行う方法でアプローチします。

しかしここまででは各潜水艦の特定をするほどの情報は得られません。
そこでROV(遠隔操作型の無人潜水機)を投入して詳しい画像を得ました。

これで伊58、呂50が特定できたというのが「←今ここ」なのですが、
これらの報告を聞いていて思ったのが、特定を阻む要素、つまりその艦体が
なんであるかを見極めるのを阻害している原因の一つとして、

「漁網が絡みついて」

という文言がほとんどの艦に当てはまるくらい出てきたことです。

漁網というのはそんなにあちこちに絡みつき、放置されるものなんでしょうか。

この後一番右の勝目純也氏(潜水艦関連の著書多数)が
特定された潜水艦についての戦歴などを説明されました。

項目を箇条書きしておきます。

●昭和21年4月1日に米軍によって五島沖で廃棄処分された潜水艦は24隻

●日本海軍の潜水艦の歴史は明38〜昭20までの40年

●その間海軍が保有した潜水艦は241隻

●実戦に参加したのは3年8ヶ月、154隻参加し127隻が戦没

●戦果は艦艇撃沈13隻、撃破撃破8隻、船舶撃沈撃破220隻

●戦没艦127隻中114隻が全員戦死、戦死者総数10,817名

●兵学校60〜70期の配置別戦死率78.1%(飛行機70.9% 水上艦40.5%)


「潜水艦は撃沈されたら全員が運命を共にする」

というのは、当ブログでも常々書いてきたことですが、勝目氏は
そのことにより一層悲劇性を感じる、とおっしゃっていました。

五島沖で処分された潜水艦たちは消耗率の高い潜水艦の中でも
奇跡的に生き残り終戦を迎えた「強運艦」だったというわけです。

伊号第36潜水艦(横須賀、2代目艦長は神戸商船大出身)

伊号第47潜水艦(佐世保、回天特攻金剛隊多々良隊を発進)

伊号第53潜水艦(呉、アンダーヒルを撃破)

伊号第58潜水艦(横須賀、橋本以行艦長、回天戦でリー撃破)

呂号第50潜水艦(三井玉野、揚陸艦1隻他撃沈)

このように戦果を多数挙げてもいます。

この後

「まとめ 日本の潜水艦の伝承は継承されている」

として、2016年の2月に海上自衛隊で行われた
日本国潜水艦運用100年、海上自衛隊潜水艦部隊創設60周年の
式典の様子、そして先日の「しょうりゅう」進水式の写真が紹介されました。

せっかくですのでわたしが進水式執行者の呉地方総監部から送っていただいた
生写真をここぞとばかりに掲載させていただきましょう。

潜水艦を建造する技術を持っている国は世界でも少なく、
それを戦前からほぼ途切れることなく続けてきたということは
日本のものづくりの底力とその継続力を表しているというお話でした。

最近しかし、製造業の現場に不祥事があいつぎ、日本人の原点である
ものづくりの心が失われつつあるのではないかという危惧もある、
というようなお話もありました。

今後のプロジェクトとして、舞鶴湾の海底にある呂500と、
日本郵船の大洋丸についても探索を行うそうです。

艦内の通路に壁全面を使った艦艇のモデルコーナーが設えられていました。
前には見た覚えがありませんので、最近新しく設置されたようです。

後半のパネルディスカッションでは、高校生らしき男性が、先日
ポール・アレン氏の調査チームがスリガオ沖で「山城」を発見したことの
感想を求めていましたが、主催の浦氏は

「こういう調査はどこも補助が出るわけではないので、寄付金に頼るか
ポール・アレンのような大富豪が道楽でやるしかない。
こういう人がこういうことをやってくれるのは大変ありがたい。
日本にはポール・アレンのような人がいないので、
我々の活動に賛同された方はぜひ寄付をお願いしたい」

と訴えておられました。

同学会では、今後全24潜水艦を詳細画像の撮影と特定を行い、
2年後くらいには

「24潜水艦記念バーチャルメモリアルの構成」

を目指しています。
そして最終的にはそこから

「戦争のない世界の実現」

に結びつけていきたい、ということを謳っておられます。
皆様ももしかしたらそうお感じなるかもしれませんが、
正直わたしのようなプラグマティストには、即座に真顔で

「いやそれは無理だろう」

としか言えない飛躍的かつ実現不可能な目標です。

(というか、バーチャルメモリアルの構成を戦争のない世界に
どう繋げていかれるおつもりなのかそのメカニズムに大変興味はあります。
講演でどなたかが『潜水艦を作る技術力と保有していることは抑止力であり
戦争を起こさせないために有効だ』と言っておられたので、おそらく
お花畑的イマジン的なストーリーを思い描いての文言ではないでしょう)

まあこれも穿った見方をすれば、戦時、軍事遺産を保存しようとすると
必ず「軍国主義の復活」とか「いつかきた道」、「軍靴の足音」が
見えたり聞こえたりする特殊なバーチャルリアリティが体験できる方々に向けての
「魔除けの呪文」というところなのかもしれません。

ともあれ、こんな活動を通して歴史を次世代に残そうとする
プロジェクトに興味を持たれた方はぜひニコニコ動画をフォローして、
彼らの活動に賛助をぜひお願い致します、と主催者に勝手に成り代わって
ここでお願いしておきます。

HPによると、Tシャツも販売しているということです。

ラ・プロンジェ深海工学会

 

 


「翠嵐の長迫 英魂を祀る」〜第四十七回 呉海軍墓地合同追悼式

2017-09-26 | 海軍

昨日は予定になかったのについ思うところを語ってしまいました。

unknownさんの「防衛の主権を握られているは言い過ぎだ」というコメントには、
わたし個人の現状理解という見地からは全面的に賛同します。(おい)
あれはあくまでも

「英霊の皆様から、彼らの大義に照らして見た場合」

を忖度して代理で述べたものであるとご理解いただければと思います。

憲法で手足を縛られ、ポジティブリストでしか動けない防衛軍、自衛隊をもち、
その分他国の軍隊に駐留してもらって周りに睨みをきかせてきたが故に保たれてきた平和。
このことそのものを、国のために命を捧げた方々はどう思うのでしょうか。

「そこに主権はない」

そうおっしゃるとは考えられませんでしょうか。

もっとも、もしそういうことを目の前で言われたとすると、
現代に生きるわたしとしても、彼らにこんな言い訳をすることでしょう。

「そうなったのも全て日本が戦争に負けたから。
防衛体制も、それを律する憲法も全て占領下で構築しなければいけなかったから。
しかしその後歩んできた70余年を鑑みると、
日本の選んだ道は
必ずしもベストでなかったにせよ、
考えうる限りのベターでした」


だからこそ、それをさらにベターにするために、保守派と呼ばれる人々は
自主憲法の制定と、戦後レジームからの脱却を悲願としているのだと思います。

ちなみに、この国では保守派が改革を目指し、いわゆるリベラルが現状固持に執着するという
社会学的に見て実に不思議な構造となっています。
日本は未だにダラスのいう「ワンダーランド」からまだ抜け出していないのかもしれません。



さて、次に主催である公益財団法人、呉海軍墓地顕彰保存会の委員長、
県知事、呉市長の追悼の辞が終わり、続いては近隣にあり、
ボランティアで清掃も行うという長迫小学校の児童が
3名代表で追悼の辞を読み上げました。

この日購入した呉海軍墓地誌「海ゆかば」の冒頭には
第三十四回の合同追悼式の写真が掲載されていますが、それによると
長迫小の児童が「ついとうのことば」を数人で読み上げる、というのは
例年の慣いになっていることでした。

「長迫小学校の児童はいつもこの公園で楽しく遊んでいます」

に始まり、児童が月に一度、学年ごとに公園の清掃を行っていること、
6年生である彼らは今72年前の戦争について勉強し、語り継ぐことができるよう
取り組んでいる、と続きました。

「呉には海軍工廠があったので繰り返し空襲を受けたこと、
広島、長崎に投下された原子爆弾のこと、そこでたくさんの人が大切な命を失い
愛する家族や友達と引き裂かれたことを知りました。

どんなに辛かったことでしょう。苦しかったことでしょう。
考えるだけで胸がとても苦しくなります」

「戦争はとても悲しいこと。戦争は決してしてはいけないことだと思います」

そして、映画「この世界の片隅に」について、作者は戦火を生き抜いた
祖父への思いをきっかけにこの作品を描いた、として、
映画の延長線上に現在の「わたしたち」の平和な生活があることを思うと、
戦争で亡くなった人々、焼け野原から日本を復興させた人々を誇りに思い、
かけがえのない日常を守ることの大切さを強く感じる。
今この瞬間にも戦火に倒れ家や命を無くしている人たちがいると知るたびに、

「こんなことは絶対に無くさなくてはいけない。
世界中の人々が笑顔で暮らせる未来を作らなければならないとと心に誓うのです」

 

もちろんその通りです。

わたしも子供が学校の先生に推敲してもらって読み上げる弔辞にまで
あれこれとツッコミを入れるほど野暮ではございません。
だ、それではどうしたらいいか、という彼らの言葉には
少し複雑な気持ちで考えこんでしまいました。

「世界の出来事を知り正しい考えを持って平和について考え、
伝えていこうと思います」

子供たちが純粋な心で信じているほど、「正しい考え」とはなんなのか、
何が正しく何が間違っているかを突き止めることは簡単なことではありません。
ましてや彼らがその弔辞の中で言っていたように、

「新聞を読み、ニュースを見」

るだけでは、とてもその正解に近づけるとも思えません。
しかしながら、それも彼ら自身がいずれ気づいていってくれることでしょう。

そう期待するのは、彼らがインターネット時代に生を受け、
情報を与えられるものからでなく自分で選択することのできる時代に生きていくからです。

この合同慰霊式において47年前から代々小学生がここで弔辞を述べてきました。
「海ゆかば」の冒頭写真に残っている第三十四回慰霊式の子供たちは今25歳です。

その世代の青年たちが、世界情勢にしても歴史の真実にしても、
新聞とテレビだけから情報を収集しているわけがありません。

この日弔辞を述べた子供たちは、彼らの先生たちなどよりもずっと柔軟な心で
メディアリテラシーを獲得し、よりグローバルな視点から歴史と世界情勢を学び、
さらには戦争と平和について考えるようになってくれるはずだ、そうあってほしい。

わたしは彼らの一生懸命な朗読を聞きながらそう考えていました。

続いては追悼吟詠です。

もののふの勲(いさお)は永遠に霊碑(いしなみ)が
文字に刻みて 伝え護らん

至誠一貫 燦乾坤 しせいいっかん けんこんにさんたり

無限忠肝 靖国源 かぎりなきのちゅうかん やすくにのみなもと

蓋世功名 誉不朽 がいせのこうみょう ほまれはくちす 

翠嵐長迫 祀英魂 すいらんのながさこ えいこんをまつる

という「追悼の詩」が尺八と詩吟で奏楽されました。

第四十三代呉地方総監、池太郎海将が参拝と献花を行います。

続いて儀仗隊による敬礼、そして弔銃発射が行われます。
ここで、「命を捨てて」が呉音楽隊によって演奏されました。

命を捨てて

掃海隊の殉職者追悼式など弔砲を発射する場合は
「葬送式の場合」に準じて、頭の8小節を速度を早く毎発射後直ちに
演奏するという方法が取られましたが、今回は三回の発射のみでした。

この曲を聴かれると、明治25年にはこの曲の原型が礼式曲として
宮内庁によって作曲されていたことに驚かれるのではないでしょうか。

昭和4年には海軍が「命ヲ捨テテ」、陸軍は「吹ナス笛」という曲を
弔銃弔砲発射の際には演奏していたという記録があります。
(参考:谷村政次郎著 海の軍歌と禮式曲

今日でもその頃からの伝統を墨守しているのが海上自衛隊なのです。

ちなみに弔銃発射時は写真を撮りませんでしたが、

終わってから撮ったこの写真の手前に写っているテントの結び目が、
綺麗なもやい結びなのに感心しました。

続いて遺族代表、来賓、そして自衛官の順で献花を行います。
わたくしも来賓の末席を汚す身として献花をさせていただきました。

自衛官はこの日夏の礼装で臨みます。
これが冬服より帝国海軍の第二種軍装に酷似していることも、
英霊の方々への気遣いではないか、とわたしは密かに想像していました。

平均年齢70歳のコーラスグループ「コーラス丘の上」と
呉赤十字奉仕団本通り分団の合同演奏、

追悼歌「長迫の丘」(潮路はるかに)

が行われました。
昔の軍歌のような曲調で、英霊の皆様方には大変親しみやすいのでは、
などと考えながら、2コーラス目からは一緒に歌いました。

呉海軍墓地には大正3年に別の場所に建立された

看護の碑 「呉海軍看護合葬碑」

もあります。
合葬されている27名の氏名などは全く今日ではわからないそうです。

呉地方音楽隊による追悼演奏が行われました。

「同期の桜」

「巡検ラッパ」

「海ゆかば」

「行進曲 軍艦」

の四曲です。
海軍の英霊を慰めるための曲を四曲選ぶならこれしかない、
という究極の選曲と言えましょう。

音楽隊のコンサートの最後に盛り上がって拍手をしながら聴く
「軍艦」とこの日の「軍艦」は、同じ音楽隊の演奏でありながら
全く異なって聴こえました。

そして「海ゆかば」。

この調べに思わず涙が込み上げるのは、平成26年の練習艦隊が
ソロモン諸島で収容された戦没者のご遺骨を「かしま」から退艦させる際、
奏楽されていたのを聴いて以来のことになります。

その時晴海埠頭で感じたように、「海ゆかば」の調べが流れる長迫の
緑なす木々のそこここに、わたしは英霊の存在をありありと感じました。

 
追悼電報の披露のあと、遺族の代表が謝辞を述べられました。
この方は戦没者である海軍中尉の長女の夫、という方で、
義父であるその英霊の戦歴を詳細に紹介しておられたので、
それをここに記しておきます。
 
呉海兵団入団
第4艦隊勤務
第2艦隊勤務
横須賀航空隊教官
霞ヶ浦海軍航空隊教官
連合艦隊司令部付
 
横須賀鎮守府第一特別陸戦隊第二中隊小隊長
セレベス島カカスに落下傘による戦闘降下を敢行
チモール島クーパンに落下傘による戦闘降下敢行
 
つまりこの方の義父は第一特別陸戦隊、「海の神兵」だったわけです。
昭和17年2月に行われた海軍落下傘部隊の降下は大きな戦果をあげ、
セレベス島、クーパンのどちらにおいても占領に成功したので、
その年の海軍記念日に連合艦隊司令長官山本五十六大将から
感状を授与されています。
 
このころは怒涛の進撃で連戦連勝だった日本軍ですが、次第に
アメリカ軍の物量作戦に敗色を深めていったのはご存知の通りです。
 
落下傘奇襲部隊も「翼なき落下傘部隊」となり、地上戦において
本来の『陸戦」を行うことになったのですが、この海軍中尉も
昭和十九年八月二日、テニアン島における敵との交戦中戦死しました。
 
その時31歳だった海軍中尉には、6歳の長女を頭に三人の子がありました。
 
「ここ長迫の海軍墓地に眠る英霊は、
新生日本の魁となられた尊い御霊であります」
 
この方は、決して「戦争のない平和な世界を築いていくのが死者への恩返し」
などという具体性のない(さらに言えば実現性も薄い)空虚な言葉を
弄すことなく、

「全国から集まった遺族の皆様とともに未来永劫、
十三万余柱の御霊をお護りいたします」
 
とただ静かに述べられました。

その言葉が胸に響いたのは、もちろんわたしだけではなかったのでしょう。
すべての人々がその言葉に心から耳を傾けために、長迫の丘はしんと静まり返り、
この時期には不思議なくらいたくさんの蝉の声だけが響いていました。
 
 
遺族代表謝辞が終わると、国旗と軍艦旗が降納されました。
降納中は写真が撮れないためご了承ください。
 
 
降下した国旗と軍艦旗を、海曹海士が二人一組でたたみ、
それを腕章をつけた当直?士官が見守ります。
 
まず横に二つ折りをして・・・・、
 
 
それを縦に三つにたたみます。
 
 
小さな長方形まで畳んだら、それを対角線でもう一度折り、
片手で掲げて持てるように三角にたたみます。
 
これらの所作も海上自衛隊においては旧軍からの伝統を受け継いでいるのでしょう。
我々の誰もそれを確かめることはできませんが、おそらく百年後の海上自衛隊も、
(そのころはどういう名称になっているのでしょうか)同じ旗のもとに
「軍艦」を奏で、追悼には「命を捨てて」が死者の魂に捧げられるのに違いありません。
 
 
式典が終了した後、会場の希望者はすべてが献花をすることができたようです。
たくさんの白菊がそのために用意されていたということですね。
 
 
おまけ*
 
海軍陸戦隊らしき軍装をした人がいました。
周りの人には彼の姿が全く見えていないようでありますが、
つまりこれって見て見ぬ振りをしているだけなんだろうな。
 
 
終わり。
 
 

「軍艦旗」掲揚〜第四十七回 呉海軍墓地合同追悼式

2017-09-25 | 海軍

呉市街から休山新道を北東に登っていくと、傾斜地に
長迫公園、旧海軍墓地があります。

海軍兵学校の同期会で元兵学校生徒だった方々とここに訪れ、
上から下まで写真を撮ってここで紹介したこともあるわたしにとって、
ここで年一度行われる合同追悼式の出席が叶ったことは大変な光栄でした。

10時半からの開式ということで、羽田初0700の始発に乗り、
空港で朝食をとってから現地へ。
公園の前の道は狭く、こんなことでもあると人の乗せおろしも大変です。

公園にはその後友人と一度、撮りそびれた写真のために来ましたが、
その時には公園にはほぼ誰もおらず、深閑としていました。
今日は開始までまだ30分以上あるにもかかわらず、すでにこんなに人が!

テントで来賓受付をすると、そこで控えていた中学生の女子が、
赤いリボンを胸につけ、席まで案内してくれました。
近隣の中学(多分和庄中)のボランティアのようです。

近隣住民や自衛隊、そして近隣の学校の生徒は、率先して
この長迫公園の清掃などを普段から行なっているということです。

時間があったので、戦艦「大和」の碑の辺りまで行ってみました。
時代を感じさせる「軍艦大和」と刻まれた額に入った「大和」の写真が
白百合と白い石楠花、千福などのお供え物に囲まれて置かれています。

「大和」の慰霊碑のところからふと上を見上げると、
潜水艦戦死者の慰霊碑前に白い礼装で立つ自衛官の姿があります。

呉地方総監部の潜水艦隊の幹部たちが慰霊式をしているようです。

碑に「潜水艦戦死者慰霊碑」と読めますが、現地で購入した
慰霊碑の便覧と戦死者名簿を兼ねた冊子

「海ゆかば」

には、潜水艦戦死者慰霊碑の記載がありません。
さらにネットを検索したところ、平成三年と比較的新しく建立されたもので、
戦没潜水艦35隻、潜水艦の戦死者三千余柱を合祀した碑であることがわかりました。

先日の呉音楽隊の呉での演奏会の時、隣同士に座り、開演までの少しの間
潜水艦のお話を聞かせていただいた司令がおられるに違いありません。

席に戻ろうとしたら、儀仗隊がスタンバイしていました。
海曹が各自の服装と装備を点検してまわっています。

呉音楽隊もスタンバイ中。

慰霊式台には国旗と軍艦旗が掲げられ、その前には
戦死者の霊に手向けられた白菊が美しく活けられています。

大小の白菊を使った、白菊の咲く丘に竜胆や向日葵が咲いている
風景画のような飾り付けには、呉の人々のこの慰霊式に対する
深い関心と畏敬の気持ちが表れているようでした。

この白菊もそうでしたが、この日のわたしは特に居並ぶ慰霊碑について
当ブログで語るために戦歴を調べたという思い入れのせいか、
少しのことで感情がリミッター解除されてしまい、
感極まっておりました。

受付そのものは0830から始まっていたそうですが、
1000(ヒトマルマルマル)に正面の鐘で時刻を表す
四点鐘(カンカーン カンカーン)が鳴らされました。

鐘を鳴らしているのも中学生のようです。

1025には総員着席し、1030には
時刻を表す五点鐘(カンカーン カンカーン カーン)
鳴らされて、式典が開始されました。

公益財団法人「呉海軍墓地顕彰保存会」の委員長は、
式辞の中で、

「戦死された英霊よ、願わくば天上からここに降りて我らの慰霊を受けられんことを」

(記憶ママ)

と述べられましたが、時鐘の点打を聞きつけて、「降(くだ)ってきた」
英霊もあるいはいるやもしれない、とわたしは密かに思っていました。

儀仗隊の入場です。

式典次第をアナウンスする声が、

「国旗・軍艦旗掲揚」

と言ったとき、わたしは思わず心の中であっと声をあげました。
見れば配られた式次第にもちゃんと「軍艦旗」と書かれています。

十六条の旭日旗は、海軍時代は軍艦旗とされていましたが、戦後になって
海上自衛隊の旗を決めるときに、米内光政の親戚である米内穂豊画伯が、
旭光をモチーフにした新しい旗を依頼され、

「黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、光線の配合、
これ以上の図案は考えようがない」

という主張のもとに全く旧軍時代と同じ意匠を提出したことにより、
結果として全く変わらない旗を使い続けているということになっています。

ただし、その名称は「自衛隊旗」であり「軍艦旗」とは全く別のもの。

のはずだったのですが、ここではこれをまさに「軍艦旗」と呼んだのです。


米内画伯と、さらにそれを認めた当時の吉田茂首相の英断もしなかりせば、
例えばこの海軍墓地における今日の慰霊祭にはどんな旗が翻っていたのか。

海軍英霊の慰霊のために旧軍艦旗を揚げることは、今の自衛隊に果たして可能だったか。

歴史のIFは言い出せばキリがありませんが、少なくともこの点に関しては
神の配慮とでもいうべき完璧なる偶然(画家と施政者が誰であったかという)の結果、
自衛隊で現行使用中の十六条旭日旗を
堂々と?海軍追悼式に掲げることができるのです。

時鐘の音を聞きつけた英霊がこの日天から降(くだ)ったとして、海軍墓地に翻っているのが
他ならぬ旭日軍艦旗であることは、彼らの魂をいかに慰めることでしょうか。

海軍墓地が最初にこの長迫に生まれたのは、明治23年3月22日でした。
当時は葬場上屋及び番舎をもち、

「海軍葬儀場」

と呼ばれていたそうです。
墓地だけでなく、ここで葬儀も執り行われていたということですね。

ちなみに戦前はほとんど個人墓が中心であり、例えば
昭和2年の呉鎮守府による埋葬規則を見てみると、

「埋葬は准士候官以上は親族より指令長官に出願、海軍兵学校生徒と
下士官兵は所轄長もしくは海兵団長より建築部に協議せよ」

「甲乙丙丁の四等に区別し、
甲=将官 乙=左官、尉官、特務士官、候補生
丙=准士官、海軍兵学校生徒 丁=兵 と埋葬する」

「死刑に処せられたるものは建築部長に区割りを相談」

というなかなか興味深い記述が見られます。

死刑にされた者でも海軍墓地に葬っても良いというのは、
一度でも海軍の釜の飯を食んだものに対する温情でしょうか。

 

さて、終戦とともに荒廃していたこの地でしたが、戦後になって
軍艦や部隊の生存者が中心となってここに慰霊碑の建立が進みました。
実はここにある慰霊碑で、戦前にあったものは個人墓を除けば

「厳島」「比叡」「広丙(こうへい)」「天龍」
「高砂」「矢矧」「早蕨」「深雪」「吉野」

などの軍艦慰霊碑、そして

「上海事変」「第四艦隊事件」

の慰霊碑の合計11基だけなのです。
あとは全て戦後のものになります。

かつてこの慰霊祭には、各慰霊碑の前に生存者、関係者が集い、
慰霊碑横の竿に軍艦旗を揚げて、そこから下の広場で行われる式典を見守る、
という光景が見られたものだそうですが、
今日では生存者も減り、
ついに人の集わなくなってしまった慰霊碑も少なくないそうです。

わたしの座っていたところからは軍艦「信濃」の碑がよく見えましたが、
そこに一人のご老人がずっと立っておられました。(冒頭写真)

かつて「信濃」に乗っておられたのでしょうか。

保存会委員長の式辞の後、追悼の辞は広島県知事と呉市長が行いました。

「日本の現在の繁栄は英霊の皆様の犠牲の上にある」

「日本は今武力による現状変更を行うならず者国家に囲まれている」

「しかし強固な意志と団結力、国際協力の元に平和を希求し
戦争のない平和を築いていくことこそ、英霊の皆様に報いる道である」

というようなことが形を変えてスピーチされたと思います。

 

 

先般、国会で河野外務大臣に向かって共産党の議員が
その”ならず者国家”へのアメリカの圧力を非難し、

「両国に軍事的衝突があったら日本に累が及ぶので絶対に避けろ!」 

「アメリカの抑止力は脅しだからすぐにやめて今こそ対話せよ!」

としつこく今更の対話路線を強調(というか強要)するということがありました。
あたかもアメリカが
北朝鮮を一方的に挑発しているような物言いに、河野大臣は

「緊張を一方的にエスカレートさせてるのは北朝鮮である」

「対話を繰り返してきた結果が現状である」

の2フレーズを答弁のたびに繰り返すことで、暗に

「オメーは一体どこの国の議員なんだ」

と共産党議員を批難しておりましたね。

軍事的衝突を避けるには、いかなる武力的圧力に対しても武力で対抗せず、
対話による解決を追求し、さらには相手に対する刺激となることすら避け、
要するにひたすら頭を下げて敵国の機嫌をとるべし、というお花畑的考え方が
右ではなく、政府の取る現実路線の対立軸として存在するのが、
今の日本という国です。



口で「戦争のなき平和」を語るのは実に簡単なことでありますが、
しかしここで国に殉じた英霊を前に、

「戦争のない世界を希求していくのが皆様へのご恩返し」

と言ったところで、実際に本土上空にミサイルを撃ちまくる国が隣にいる現状では、
何か大事なことをあえて見ないふりをしていると思えてなりません。


かつて帝国海軍は、

「座して死を待つことなく相手を先に攻撃することで国を護る」

という言葉の下に真珠湾攻撃を挙行し、それをもって大東亜戦争は火蓋を切りました。

その戦争に殉じた英霊の前で、現在進行形で国土の上をミサイルが飛んでいくのを
指をくわえて(しかも防衛をアメリカ頼みで)見ていながら、口では

「平和を希求し戦争のない世界を」

と言ったところで、英霊諸氏にはその「平和」の意味は到底理解できないのではないか。

「何が平和だ」

「もうすでにお前たちは国土を蹂躙されているではないか」

「大和民族の誇りはどうしたのだ」

彼らの殉じた大義を思うとき、わたしは彼らが今日の我々に投げつけてくるであろう
そんな言葉さえ容易に想像することができます。


そもそも、

「戦争しないこと’だけ’が平和である」

という九条の旗のもとに、他国に国防の主権を握られている、
国家的自己撞着に陥った日本という国の現状を英霊がもし見たら、一様に

「こんな国にするために我らは戦ったのではない」

と怒りを覚えるのではないかとさえわたしは思うのです。


もちろんこういう挨拶をされた来賓の方々を責める意図でそういうのではなく、
さらには責める資格もわたしには全くありません。

わたしもまた、そんな日本で平和の安寧を貪り、たとえミサイルが飛んできていても、
心のどこかで、本土に実際に落ちるわけなどない、さらには戦争など起こるわけがない、
と思いたい、正常バイアスのかかりきった愚者の楽園の住民でなのですから。


続く。




「千登と福」〜千福製造元・三宅本店資料室

2017-08-08 | 海軍


ベエゴマ、おはじき、おままごとセット・・・。
幼いころ、こんなミニチュアの食器セットが欲しくて仕方ありませんでした。

大きくなってアメリカに行ったら、まさに欲しかったものがIKEAにあり、
つい大人買いしてしまったものです。

積み木、ビー玉、おはじき、おもちゃのピストル。
今の子供はおもちゃの銃なんて与えられないんでしょうか。

「ステイション積み木」とは、積み木で線路の周りの町を作り、
おもちゃの汽車を走らせるというジオラマ的おもちゃですが、
それにしてもパッケージの汽車の疾走感が半端なし。

「パイロット」のインク瓶には見覚えがあるなあ。

手前のインクの商品名が「エリスインク」なのが気になる。

満州にあったらしい「奉天醤油」の醤油瓶。

左は海産乾物問屋のパッケージなのですが、よくよく見ると墨で

「結納」「肴料」などの試し書きがされているのに気づきます。
「海産」の横に同じような字体で「海産」「物」の下に「物」など、
箱に書かれた文字を使ってお習字の練習をしていたとみた。

これは実際に三宅本店で使われていたかもしれない電話。
壁掛け式でもないのにダイヤルはなく、ハンドルが付いています。

それから約80年後、コンピュータが市場に出回る世の中に。
相当珍しかったと思うのですが、シャープの製品です。
なんとカセットテープを挿入するタイプですが、まさかこれがデータ?

お値段は横にあるパンフレットによると20万超となっています。
今の貨幣価値でいうと・・・50万円くらい?

さすがは三宅本店、このようなコミニュティルームでは、時々講演会やコンサートなど、
イベントが開かれているのだとか。

酒樽にうまくカムフラージュしたスピーカー。
メッシュの部分も木肌の色に合わせるこだわりようです。

この部屋にも酒造に必要な道具などが無造作に展示されています。

「こういう道具も、実はつい最近まで使われていたりしたんですよ」

左の「千福」ラベルは、よく見ると酒盛りをしているのが全員女性。
そもそも、「千福」という名前は、初代三宅さんの母親である「千登」(チト)さん、
奥さんである「福」さんの名前を一字ずつ取ってつけられたものです。

三宅さんによると、女性の身内の名前を商品名につけるというのは
女性の人権が公的には顧みられなかったこの時代には大変珍しいことで、
女性たちの「内助の功」に感謝し、それをこんな形で表した三宅清兵衛さんは
当時の男には珍しいフェミニストであったということができるかもしれません。

ラベルの「女だけの宴会」もその表れではないでしょうか。

 こんな遺品も寄贈されて飾ってあります。
「千福」の文字が入った徳利は、川本福一という広島の方が、
得意先招待用に所持していた数十本のうちの一本。
残りは全部破損したそうで、残ったこの一本も釉薬が溶けて流れています。
釉薬が溶けるほどの温度とは・・・・・・。


東郷元帥の肉声を収めたレコードがここに!
「連合艦隊解散の辞」ではなく、軍人勅諭が発布されて50周年記念の録音だそうです。

「海と空」という雑誌は5月号で、海軍記念日特別号だそうです。

映画の一シーンに「千福」が使われました。
これ、なんの映画でしたっけ。

こちらにいる士官がなぜか第三種軍装をしているのに、第一種がいるし・・?

状況から見て、大和特攻のシーンではないかと思うのですが。

錦絵のようなタッチですが、実は製作されたのは去年の秋。

呉に昭和20年7月2日空襲がありました。
この時三宅本店の従業員は、海軍消防隊の来援を待つまでもなく
焼夷弾によって起こった火災を「危険を犯して」「毫も撓むことなく」完全鎮火させ、

「軍納酒2500石を確保した」

しかもその後、

「無償で海軍将兵と罹災者に清酒を提供し」!!!!

たことに対し、海軍憲兵隊からこのような感状が出されたものです。
最後の方には

「金一封を添えて賞詞を贈りその労を多とす」

と書いてあるのですが、

「これ、結局感状だけで(金一封なしで)済まされてしまったらしいです」

という三宅さんの重大発言が!

まあ、どこからお金を出そうか鳩首会議しているうちに大きな空襲が二度も来て、
そうこうするうちに原子爆弾が落ち、あれよあれよと終戦になってしまったわけですから、
呉鎮守府だけを責めるのも酷かもしれません。

物産展への出品や鉄道敷設に関する評議員を三宅社長が勤めたということで感謝状。

こちらは昭和7年、軍艦「大井」凱旋記念、とあります。
この凱旋というのが何を指すのかわかりませんでした。

煙突もそうですが、耐火性のある白煉瓦が酒蔵には使用されていました。
呉軍港大空襲では、この「明治庫」「大正庫」の一部だけが喪失を免れました。

終戦後、進駐してきたイギリス連邦軍に占領軍に三宅社長の本邸は接収されています。
きっと洋風の建築で将校が住むのに手頃とされたのでしょう。

同年、明治庫と大正庫を修復し、新しく「昭和庫」が竣工されました。

戦後、「千福」が有名になったのはサトウハチロー氏のあのロゴですが、
このようなマジックインキで書いた字体とともに同社のアイコンにもなりました。

そしてダークダックスの歌。
佐良直美も人気絶頂の頃CM出演していたんですね。

言ってはなんだが、誰得カット。

現在の販売ラインも展示されていました。
この大吟醸「提督」のラベルは、杉山靖樹第28代呉地方総監の書だそうです。

海自関係(特に将官)の方へのご進物におすすめです、とは三宅さんのお言葉。

見学コースとは別のところに物販店があり、ここからはお酒を全国発送することもできます。
ここでいくつかお土産を買い終わった時、三宅さんが

「ここに来たらソフトクリームをぜひ食べてください」

とオススメするので、ゆずと甘酒の二種類あるソフトクリームから
問答無用で甘酒アイスを選んでいただいてみました。

お店の隅には、昔三宅家にあったらしきアップライトピアノに、三宅家の誰かが
練習したのかもしれないドビュッシーの「雨の庭」の譜面が置いてありました。

 

海軍に興味を持って軍港の町呉に訪れる方に、大和ミュージアムも江田島も、
海軍墓地も全て見てしまったら、その次にはぜひ呉海軍御用達であった
千福製造元、三宅本店の見学をされることをおすすめして、シリーズを終わります。

 

 

 

 


米艦隊日本訪問の真実〜千福製造元・三宅本店資料室

2017-08-05 | 海軍

 

「千福」酒造元三宅本店所蔵の海軍歴史資料のご紹介はほぼ終わりましたが、
一つだけ載せ忘れがあったので、上げておきます。

これは明治41年発行の「海軍」という雑誌ですが、この号の特集が

「米艦隊歓迎号」

つまり、アメリカから海軍の艦隊が日本に寄港したので、
歓迎して色々とそれについて述べているというものなのです。

オーストラリアを出発して北に帰る途中で米海軍太平洋艦隊が横浜に寄港するので、
アメリカの親友として日本はこれを歓迎しましょう、という論旨です。

その前に、本号ではアメリカ艦隊について詳しく書いているので、
歓迎の饗宴を開く前によく読んで勉強してね、って感じでしょうか。

今でこそ日米、特に海軍同士は日米安保もあって大変な仲良しですが、
タイマン勝負をした番長同士が河原に寝そべれば自動的に友情が芽生えるように、
戦後に初めて仲良くなったのではなく、このころ少なくとも日本は
アメリカの「親友」を標榜していたらしいことがなんとなくわかります。

然し乍らアメリカは、日本が日露戦争に勝利した瞬間、
その潜在能力に警戒心を抱きはじめ、この艦隊寄港の明治41年ごろには
そろそろこいつ仮想敵にしちゃおっかなーみたいに考えていたはず。

ということは・・・・・?

そう、日本側が無邪気に

「親友である彼らを歓迎しましょう!」

とかいいつつ迎えたこの米艦隊の目的は親善などではなく、

日本への戦力誇示を目的としていました。

 

日露戦争で、特に帝国海軍がロシア艦隊に決して偶然ではない実力で勝ち、
白人国であり世界の支配側であった列強は、大変な危機感を覚えました。

日英同盟を結んでいて、日露戦争においては日本に情報提供していたはずの
イギリスでも、日本海大戦における連合艦隊勝利の知らせに、町中が
まるで誰かの訃報に接したように静まり返ったといいます(孫文談)

そこで、早速アメリカはアメリカ艦隊の世界一周を計画しました。
日本に寄港したのは偶然やついでなんかではなく、その海軍力と国力で、
デビューしたばかりで調子こいている日本を恫喝するためだったのです。

こえーよ、アメリカこえーよ。

 

しかし、日本人も結構したたかで、その意図は十分承知した上で、

「アメリカさん強そう!でも僕ら親友だからね!うふふ」

と恫喝を表面上はスルーして無邪気にはしゃいでみせました。


ちなみにあのチェスター・ニミッツが少尉候補生として乗り込んだ「オハイオ」は
その「日露戦争で勝った日本を恫喝し隊」の第一陣に加わっており、
寄港時にニミッツ少尉候補生は東郷元帥と直に話をしてファンになりました。

のちの米海軍元帥は、戦力誇示が目的の艦隊派遣で日本の元帥に感化されて帰ってきた、
ということになりますが、この時の感激が、のちに日本占領時における
東郷神社や三笠保存への働きかけに繋がっていくのですから、縁は異なものです。

 

さて、今日は「千福」酒造元として、酒蔵ならではの資料を中心にします。

手前の「千福」の瓶は輸出用に英語のラベルが貼ってあるもの。
中身はもちろん当時の酒?

「違います」

看板に描かれている女性が満州娘ですが、三宅本店は
満州にも会社と工場を持っていたということです。

日本が戦争に負けて、会社の資本は全てそのまま帰国を余儀なくされましたが、
その施設は普通にソ連が接収して稼働していたようです。

左は、当時の社員の記念写真であろうと思われます。
右には昭和8年の特別観艦式の記念絵葉書があります。
三宅本店は呉海軍にとって重要な出入り業者であったため、観艦式にも
見物のご招待があったのでしょう。

なんだろう・・・干菓子を作る木型かしら。

千福の広告に混じって、取扱店指定のポスターがあります。
当たり前ですが、日通のマークは現在も同じものが使われています。
会社創立は昭和12年ですが、大東亜戦争中には海軍は運輸業務のことを
「日通」と隠語で呼んでいたということです。

歴史的な資料として、こういうものを保存してくれているというのに感謝です。

進駐軍の利用する米軍向けのPXの店内にあったと思われる鏡には、なんと

「日本人に非課税のタバコを売ることは法律違反です」

と書かれています。
横流し禁止の警告が、なぜ鏡にプリントされているのか・・・・。

酒造会社ですから、酒造りに使われた道具も展示してあります。
せいろのようなものは「室葢」といい、麹を発酵させるのに使います。
風呂桶のようなものは柄杓。

後ろの大きな丸いものも麹の生成に必要なものだったと思います。
(説明を聞いたのですが、海軍と関係ないので忘れてしまいました)

水桶の前にあるのは「綏芬河」行きの汽車にかかっていた行き先プレート。
右上には南満州鉄道、満鉄のMをあしらったマークがあります。

綏芬河市は現在の黒竜江省にある国境沿いの町です。
国境の向こうは・・・・そう、昔はソ連だったんですよね。

陸海軍御用達を大きく謳ったラム酒のポスター。
ここにも描いてありますが、サトウキビが原材料なんですよね。

タバコの宣伝になぜかタバコを吸っているわけでもない美人画。
「ターキシエーエー」というのは当時の高級両切りタバコの銘柄らしい。

千福の醸造工程がわかりやすく描かれています。
左は上が呉、下が満州工場。

特筆すべきはさりげなく「呉鎮守府検閲済み」と書かれていることでしょう。
しかしなんのためにこんなものを検閲・・・?

三宅さんによると、昭和20年代後半のころの写真ではないかということです。

当時はタバコは今ほど悪者にされていませんでしたから、皆が吸っていました。
営業の人などは、吸えなくても手に持って「吸っているフリ」をしていたと聞きます。

上はタバコ盆セット(後ろは弾丸?)、
下段は銀のタバコ入れと灰皿のセットで、海軍マーク入り。

灰皿は日の丸をあしらっており、そこに立っている小さい札?に

「君が代は千代に八千代にさざれ石の」

までが描いてあります。
日の丸に灰を捨てるというのもどうなのかって気もしますが。

レトロなパッケージのコレクションもあって、コレクターには垂涎。
風邪薬六神丸の「トンプク」の箱。

味の素、サクマドロップス、フルーツキャンデーの缶など。


昔の子供用の人形は、兵隊さんや水兵さんをかたどったものがあります。
まあ、外国でもそうですよね(鉛の兵隊とか)。

馬に乗った騎兵、飛行服をきた搭乗員、明らかに明治時代の水兵。
敬礼をしているものが多いですね。

セーラー服を着て日本の旗を持った赤ちゃんに靴を履かせる女の子。

ハーモニカは「ミリタリーバンド」が商品名です。

わかりにくいですが、軍艦の模型は「三隈」。

「蘇生」とはなんだろうと思ったら、「天然カルシウム」だそうです。
カルシウムによって増血ができる、と書いてありますが、そうなの?

続く。



孤独のグルメ(帝国海軍艦長の場合)〜呉鎮守府庁舎の食卓

2017-05-09 | 海軍

入船山博物館、呉鎮守府長官庁舎を見学して出て来たわけですが、
今一度、官舎の洋風建築にあった食卓テーブルに注目してみます。

テーブルや椅子などの家具類は、なんども言いますが進駐していたオーストラリア陸軍が、
引き揚げるときに一切持っていってしまったので、これらの調度類は
小泉和子生活研究所が残された資料などをもとに復元を行いました。

そしてこの日の献立は、海軍料理研究家の高森直史氏が監修し再現されました。

時は昭和5(1930)年9月1日。
軍艦「出雲」の艦上における午餐会のメニューです。

装甲巡洋艦「出雲」はご存知「いずも」がその名を受け継いでいますが、
日露戦争ではウラジオ艦隊を濃霧の中みすみす逃したとして、

『濃霧濃霧とは無能なり』

などと世間から嘲られたあの上村将軍が座乗して蔚山沖海戦に勝利し、
そのときに沈没した敵艦「リューリック」を救助したことでも有名になりました。

この午餐会は日露戦争に勝利した余韻も冷めやらぬころ、
「出雲」艦上で行われたもので、この時の「出雲」艦長は、
蔚山沖で敵を一隻逃したと聞いて伝言板を叩き割る上村将軍を
顔色を変えて見ていた(多分)伊地知季珍(いじち・すえたか)でした。

艦長の伊地知大佐はもちろん、もしかしたらこの午餐会には
上村彦之丞提督ももしかしたら参加していたかもしれません。

うちにある元海軍主計中佐、瀬間喬氏の編纂した

「日本海軍食生活史話」

には、全く同じ日の献立について記載されていました。
高森氏はおそらくこの書を参考にされたのでしょう。

前菜:ソモン(サーモン)とコンソメスープのテリーヌ

スープ::アスペラガース・スープ

魚:蒸したマス

肉:シチュード・チッキン(チキン) 付け合わせ 香草

肉:ローストビーフ クレソン、ホースラディッシュ添え

冷菓子:レモンアイスクリーム

雑果菓:タピオカプリン 黒豆添え

 

こちらフランス語のメニュー。
並べてありますが内容は全く別です。

コンソメスープ

マヨネーズで和えたロブスター

牛肉のエピグラム

アップルパイ デザート コーヒー

エピグラムって・・・風刺詩とかのことなんですがどんな料理?

海軍兵学校に合格した青年たち、特に地方出身の者は周りに

「白いテーブルクロースでお給仕されてフランス料理を食べるんか」

と羨ましがられたのだそうですが、その昔、海軍士官というものは

「軍服を着た外交官」

と言われ、世界各国との交際が必要とされていたため、日頃から
こういう正餐などの席に慣れてマナーを会得している必要がありました。

ほとんどの者が洋食などに無縁だった当時の日本で、海軍士官は
それだけで特権階級でありエリートでもあったのです。

練習艦隊各艦に配乗になると、最初の外国港湾に到着するまでに
候補生達は五、六名ずつ順番に艦長室に呼ばれ、フルコースの料理を
艦長と共にして、テーブルマナーの教育を受けることになっていました。

まだ最初の頃にその順番に当たった候補生は、船酔いで苦しみ、
せっかくの料理をほとんど食べられずに終わることもあったとか。

というか、艦長はこのテーブルマナートレーニングのために、航海中
しょっちゅう(200名のクラスなら40回は)候補生と一緒に
オードブルから始まるフルコースを食べなければならなかったことになります。

 

さて、当時の食事マナーについて書かれた教科書によると、

「客は着席したらまづナプキンをとつて膝の上におき
徐かにデザートナイフを執つてパン皿の縁に取り分け、パンを割るか
或いは小さく恰度軽く口に喰られる位の一片にむしり、
それにバターを塗って食べ、静かに料理の給仕されるのを待つてゐる」

「静かに待ってゐる」

というのがなんかじわじわきます。

なお、下士官もそれらの知識には士官以上に通じていなければなりません。
なぜなら彼らは練習艦隊で艦隊司令部等において外国高官、軍人を
艦内で饗応する場合、従兵を指導してサービスしなければならなかったからで、
そのために彼らもまた食卓の作法を教わり、実習を行なっていました。

これらの教則本から、「やってはいけないこと」を書き出してみます。

● 婦人は自分の席が決まったら遠慮なく着席せねばならぬ
 でないと男子方が迷惑する

レディスファーストも当時の日本にはない概念でした。
女性を先に行かせる、先に座らせる、上着を着せる、こういうマナーは
現代の日本を見る限り、全く伝わらなかったといっていいでしょう。

連れの女性に気を遣うことはあっても、エレベーターで乗り合わせた女性を
先に行かせるような男性は滅多にいません。

ちなみに若き日の山本五十六を見た幼き日の犬養道子氏は

「レディスファーストの身についたスマートな軍人」

と彼を評しています。
特に駐在武官で海外生活をした軍人は皆そうでした。

● 酒を注ごうとした時に客が欲しないと表示した場合は必ず強いてはならぬ。 
 酒に限らずすべて物を強いてはならぬ

昔に限ったことではありませんね。
でも、宴会などでお酒を持ってこられると、飲めないにも関わらず
それを断ることがわたしにはどうしてもできません。

● 塩入れ胡椒入れは少なくとも必ず客二人に対し1組の割合で、 
 食卓につけられているはずであるから、無暗に給仕人を呼び立てたり、
 隣席の客に依頼して取らないようにしなければならぬ
 何を執るにも他人の皿の上を越して手を伸ばしてはならぬ

また、給仕をする側については

● 給仕人は身体及び着衣を清潔にし、動作は懇切機敏を旨とし
会食者をして不快の念を抱かしめるようなことがあってはならぬ。
しかして給仕人は通例冬季においても夏衣をを着用するのである。

給仕人が冬服を着ない理由がこれだったとは・・。

 

さて、映画「日本海大海戦 海行かば」でも描かれていたように、
連合艦隊司令部の艦上における正餐などは司令官附として乗り込んでいる軍楽隊が
食堂(長官公室、司令官公室)の上部あたりの後甲板で演奏を行います。

その際、長官(司令官)が最初のオードブル用のフォーク、ナイフとか
スプーンとかに手をつけた瞬間、将官室従兵が室内からちょっと出て、
後甲板の将官ハッチの入り口から下を見ている軍楽隊員に合図をすると、
間髪を入れず指揮者がタクトを振り音楽が始まる仕掛けになっていました。

映画では下を見ている軍楽隊員が宅麻伸、軍楽隊長が伊東四朗でしたね。

 

また、明治の頃の鎮守府司令官、艦隊司令官の食事中には、中が赤、
外縁が白の「食事旗」という三角旗が前檣の頂上に揚げられていたとか。
なんのために食事中を旗で知らせる必要があったのかという気もしますが、
皆もそう思ったらしく、この慣習はいつのまにか廃止されました。

艦隊の司令長官や司令官(将官)幕僚達と一緒に、公室で食事をします。
鎮守府長官も基本はそうでしょう。

副長以下大尉は士官室。
中尉少尉は士官次室(ガンルーム)。
そして准士官は准士官室で食事をします。

ところが、軍艦、そして特務艦の艦長は、なぜか艦長公室でたった一人、
従兵に一挙一動を見守られながら食事をすることになっていました。

これは辛い。

これはイギリス海軍が発祥で、アメリカ海軍もそうだったということですが、

「軍艦指揮官たるもの孤独に慣れろ」

という戒め?のために定められた慣習であったと言われています。

つまらないからといって従兵と気安く話をするなんてとんでもない。
井之頭五郎じゃあるまいし、ただ黙って孤独にご飯を食べるなんて、
いくらグルメなものをいただいても・・・・いや、たとえ五郎さんだって
箸の上げ下ろしまでガン見されながらじゃ食事を楽しむどころじゃないと思うの。

その点練習艦隊の艦長なら毎日毎日候補生と食事ということになりますが、
毎回のフルコースは、それはそれで壮年の男性には
なかなか辛いものがあるのではないかとお察しします。


アメリカ海軍は現在簡略化でガンルームとワードルームの区別がなくなり、
艦長室、士官室、准士官室という分け方をしています。
イギリス海軍もガンルームがなくなっただけでなく、准士官という階級
そのものが廃止されたので、こちらは艦長室と士官室だけになりました。

しかし、米英海軍ともに、艦長が一人艦長室で食事をするしきたりは
未だに残っています。(昭和60年現在の時点。今はわかりません)

いかに艦長職が他からその権限を侵されることのない孤高の任務である、
と見なされているかということの証明でもあるのですが、
戦後リベラルで、あまりに民主的になりすぎた我らが自衛隊についていうと、
たとえ将来、憲法の改正によって自衛隊が「海軍」となる日が来たとしても、
艦長が一人で食事をすることには決してならないとわたしは思います。

さて、見学が終わり、ちょうどお昼ご飯の時間です。
せっかくなので「呉地方総監の”愚直たれ”」メニューをぜひまた体験するべく、
わたしたちはここからテクテクと歩いて
「利根」に向かいました。

鉄火お嬢さんが誰か呉の人にランチも営業している、と聞いてきたということで、
なんの疑いもなく行ってみたら、閉まっていました orz←鉄火orz←わたし

「利根がダメとなると・・・・」

「ここからなら森沢ホテルが近いですよ」

レストランに行ってみると、メニューに「愚直タレ」など影も形もありません。
お店の人に聞いてみると、「そのメニューはまだ始まっていない」との返事。

観桜会で発表された情報によると、タコの天ぷらに愚直タレをかける、
というものだったのですが、やっぱり昼からタコ天は出さないか。

「夜のメニューだったらあるのかしら」

「そもそもお店の人が知らないみたいですね」


「クレイトンベイホテルの愚直タレうどんなら確実に食べられますよ」

「うーん・・・ここから遠いですし」

「他にどこが提供店だったかって呉監のHPに載ってるのかしら」

「ご自分のブログをみたら早いんじゃないですか」

「そうなんですけどここWi-Fi入んなくて」


なんとか「愚直タレ丼」をやっているロック風街という店に電話してみたら

「愚直タレトンテキ丼は3時からです」

とのこと。

丼物を3時から出すってどういうお店よ。

もうすっかりやる気がなくなったわたしたち、
最後の望みをかけて呉阪急ホテルに移動したのですが、
そもそも呉阪急は愚直タレ指定店じゃなかったのよね。

結局わたしは二度目となる「うみぎりカレー」を食べましたとさ。
やっぱり愚直タレはちゃんと「認定証」を呉地方総監自ら授与し、
それをお店に飾っているところでないと食べられない、ということがわかりました。

 

というところで、長々と語って来た「いせ」佐世保移籍に伴う出航行事と
その前夜の懇親会、呉軍港の艦船ツァーと入船山見学という盛りだくさん企画、
最後の「愚直タレ」以外は全てうまくいき、充実した呉でのひと時を過ごしました。

さて、次に呉に来るときには、どんな体験が待っているのでしょうか。(予告煽り)

 

呉「いせ」移籍に伴う壮行行事シリーズ:終わり

 

 


呉海軍工廠の街と鎮守府長官庁舎

2017-05-06 | 海軍

 

艦船めぐりで呉の自衛艦を堪能したわたしたちは、そのあと
当初の予定通り入船山にタクシーで向かいました。

鎮守府庁舎のある坂の上で降ろしてもらうと、ボランティアの男性が二人、
そこで観光客をキャッチしているらしく?近づいてきて

「45秒だけお時間いただけますか」

うーん、声のかけ方もいわゆるキャッチセールス、いや何でもない。

その解説によると、国立病院前から鎮守府庁舎のある入船山記念館の横の坂道は、
戦艦大和と同じ長さ(269m)あり、この道は「美術館通り」として
「日本の道百選」の一つに選ばれているという話でした。

このモニュメントの左上の「道」というのが「日本の道百選」の印。

ボランティアは、今観光するなら音戸の瀬戸のツツジが見頃、とか、
音戸の渡し船が120mという「日本一短い航路」であることを教えてくれました。

時刻表はなく、そこに行って乗り込むだけ。
対岸から乗るにはただ「呼んで来てもらう」そうです。

ここが入船山記念館入り口。
昔ここに来た時にも写真をあげましたが、何しろ前回から今日までに
カメラもレンズも変わりましたからね。

鎮守府庁舎時代にはここを黒塗りの車が出入りしたと思われる門。
車が通るには狭いですが、昔の車なら通れたのでしょう。

大正三年秋の彼岸、という彫り込みがある門柱には、
できたひびを補強するために金属プレートが貼ってあります。

清心院、玉泉院の菩提の為に、という寄贈。
この意味が前回もわからなかったのですが、どちらもが徳川家の正室であることから、
昔この地にあった亀山神社と関係あるのかと予想します。

神社があったところを帝国海軍が接収し(江田島の海軍兵学校もそうでしたね)、
そこに水交社など建てたのを手始めに、明治25年には鎮守府庁舎が建つことになり、
清心院と玉泉院の菩提を大正年間に弔わなければならない事情が後から生じた、
ということになるわけですが、インターネットではそれ以上のことはわかりません。

入ってすぐ左に、呉市宮原通りから移設した「東郷家の離れ」があります。

東郷平八郎が参謀長だった頃住んでいた家の「離れ」。
宮原の母屋が火事で焼けてしまい、この離れも移築されたものの
放置されて荒廃していたのを地元ロータリークラブの尽力で保存が決まりました。

たった1年7ヶ月、鎮守府の参謀だった頃の東郷平八郎が住んだだけですが、
海軍の街呉にとって東郷さんは「神様」だったわけですからね。

ともかく昔の建物がいろんな意味で残りにくいこの日本においては、
よくやってくれたとロータリークラブの英断には感謝したい気持ちです。

現地にあった看板によると、この離れには東郷元帥の呉勤務時代、
昔は「下女」といったところのメイドである水野たみさんが住んでいました。

現代の日本では下女も女中も禁止用語になってしまっているので、
水野さんのことは「お仕えした」としか説明されていません。

明治頃には接客や雇用者の世話を直接する「上女中」に対し、炊事、掃除、
水回りの仕事をする「下女中」という使い分けはなくなっていましたが、
「坊ちゃん」の「清」のように、女中のことを「下女」という言い方は残っており、

住み込みで家事をする女性=下女

という認識であったことからいうと、たみさんは下女ということになります。

門から続く石畳は、これも移設してきたもので、昭和42年まで
呉市内を通っていた路面電車の敷石です。

右側の大時計は、かつて海軍工廠造機部の屋上に設置されていたもの。
国産初の“電動親子式衝動時計”で、(内部に”親時計”がある)歯車に
ネーバル黄銅(naval、海軍黄銅とも)という耐海水性に優れた材質を用いています。

写真を撮った時がちょうど11時だったので自分の時計を見て初めて
時計が動いていることに気がついたのですが、さすが海軍工廠が作っただけあって、

艦艇兵器用の機械構造を採用した画期的な時計は、
堅牢で現在も定時には地元の小学生が作曲したメロディが流れる仕掛けです。

当時としては画期的な時計であり、呉工廠のシンボルでもありました。

この奥の爆薬庫はギャラリーになっていますが、そこにあった呉海軍工廠通勤時の様子。
いかにも活気にあふれた朝の一コマです。

終戦時には42万人を数えていた全国7位の都市、呉の人口は、
母体となる海軍の消滅により10万人強となり、 その後の進駐軍占領もあって
戦後、色々な意味で呉は苦難の道を歩むことになりました。

長官庁舎の警衛が立っていた番兵塔。

昼夜を問わず立ち続けていた石畳にはくっきりと足の跡が。
前日の雨が窪みに水たまりを作っています。

後ろの塔の床には全く劣化がないので、おそらく警衛が
塔の中に入るということは全くなかったのではないかと思われます。

 

ギャラリーとなっている爆薬庫の絵から、右上、呉軍港の満艦飾。
連合艦隊が入港した時など、このような光景が見られたそうです。

前に来た時も驚いた陶器製の手榴弾。
鉄不足を補うための苦肉の策でした。

外側、内側にも釉薬がかけられ、凝った作りだったようです。
口からはマッチ組成の点火プラグ?が突き出ていてゴムキャップがかけられており、
使用時にはそれを外して添加して投げると数秒後に爆発するという仕組み。

問題はその点火方法なんですが、それもマッチで火をつけるのかなあ。

何れにしても切羽詰まって作られた悠長な武器という気がします。

昭和56(1981)年、呉工廠の砲火工場の跡地の土中から発見された

四十五口型10年式十二糎高角砲

の砲身。
艦砲として妙高型の重巡洋艦「妙高」「那智」「羽黒」「足柄」などに
搭載されていたのと同じ型です。


余談ですが、自衛隊の所有するイージス艦は妙高型から「みょうこう」「あしがら」、
金剛型戦艦から「こんごう」「きりしま」、高雄型重巡から
「ちょうかい」「あたご」を綺麗に?二隻ずつ受け継いでいます。

少なくともこの10年以内に自衛隊はイージス艦を二隻導入する、という話が
少し前に軍事評論家から出ていましたが、そうなった時には艦名は
今まで採用されなかった他の型になることでしょう。

つまり、控えめにいうと、「長門」型の「ながと」と「扶桑」型の「ふそう」。
あるいはもしかしたらもしかして、「大和」型の二隻・・・?

「やまと」型イージス艦「やまと」と「むさし」

→海自の志望者殺到?

・・・・・。

前回入船山に見学に来た時には、数年後の自分が高角砲一つで、ここまで
妄想を展開させる立派なヲタに成長しているとは想像もしていませんでした。

高角砲が展示してある横で入館料250円を支払い、進んでいくと、
石畳の向こうに車寄せのロータリーを儲けた道の奥、
旧鎮守府長官庁舎が姿を現します。

呉のシンボルともなっている現呉地方総監部庁舎、旧呉鎮守府庁舎を設計した
櫻井小太郎の設計によるもので、正面に洋風の公館、奥に和風の居住区を持つ構造です。

国の重要文化財となっており、呉市ではこれを焼失などから守るため、
頻繁に火災を想定した訓練を行なっているということです。

呉鎮守府庁舎の住人となったのは第7代長官となった有馬新一中将から
第33代の金沢正夫中将までの31人です。

金沢中将は5月に呉鎮守府長官に着任し、わずか2ヶ月後にあの呉大空襲で
軍港呉市が壊滅的被害を受けるのを目の当たりにし、さらには
日本の敗戦を受け入れた最後の呉鎮守府長官になりました。

錨と桜のモチーフを取り入れた優美なすりガラス。

内側から見るとステンドグラスは淡いパステルカラーの光を通します。
明治38年に芸予地震で倒壊した長官庁舎を建て直して以来、エントランスのガラスは
一度も破損することなく、今日までこうして変わらぬままです。

見学は洋館をこのように見ながら歩いていき、後ろに接続している和風建築の、
かつてお勝手口であった使用人の出入り口から入ることになります。

途中に屋根付きのこのようなものがありますが、
当時防空壕であったところを埋めたのか、それとも防火用水だったのか・・。

見学者はここで靴を脱ぎ、順路に従って見学していきます。
建物の保存のためには靴を脱がせたいが、正面の洋風建築の方から入ると、
靴脱ぎも下駄箱の設置場所もないし、出入りがあればガラス等に破損の恐れがでる。

ということで、こちらを入り口にすることになったのでしょう。

お勝手だったので、流しとかまどの跡がそのまま残っています。
かまどの跡の上には靴脱ぎと下駄箱を乗せてしまいました。

入ってすぐのところに、1mもない奥行きのスペースとその引き戸がありました。

「こんなところに何を入れたんだろう」

ナチュラルに奥に顔を突っ込んだところ、

「『あきづき』の海曹室で、自衛艦旗の箱をいきなり開けたのを思い出しました」

と鉄火お嬢さん。
そこに何かがあれば、興味から首を突っ込まずにいられない。

この性癖が災いをもたらしたという経験は今のところ幸いにしてありませんが、

好奇心は猫をも殺す。"Curiosity killed the cat" 。

ということわざもあることですし、そろそろ自戒するに越したことはないかもしれません。

 

続く。

 

 



小説「海軍」〜古本で見つけた或る”書き込み”

2017-04-27 | 海軍

映画「海軍」について、昭和18年版と38年版の
戦中、戦後の映画化作品についてお話ししてきました。

ここでやはり原作を読んでおこうと、現代語版を取り寄せたのですが、
どちらの映画でも取り上げられなかった部分が、実はこの小説の
大変大きなパートを占めていることに気がついたので、ご紹介しておきます。

幼い頃から海軍好きで、海軍に入ることを夢見てきた、
主人公谷真人の親友、牟田口隆夫。

視力で海兵の試験に落ち、さらには海軍経理学校も肺炎の痕が残っていて
完全に夢を断たれた彼は、東京で画家の修行を始めます。

しかし、ほとんど当てなく上京し、芽が出る見込みも感じられず、
果ては何を描いていいかもわからなくなった隆夫は、絵を辞める決心をし、
そのままフラフラと電車に乗りました。

ところがその電車を横須賀軍港を通り抜けた瞬間、彼のかつての
海軍ヲタの血が騒ぎ出したのです。 

そして、横須賀中央駅から電車に乗ってきた海軍軍人の姿、
ことに海軍主計の軍章をつけた制服姿の軍人を見て、自分がこれまで

「海軍にはいれないから海軍から逃げていた」

ということを思い知るのでした。
そして彼が逗留していた久里浜で決定的なことが起こります。


隆夫は、艦尾に翻る旗の模様を認めた。
やがて、日を負った艦姿がくっきりしてきた。
長い鉄橋のような、艦体が見えた。マストが見えた。主砲の砲塔が見えた。

(重巡だぞ)

(おや、高雄級らしいぞ!)
彼は胸を突かれたような気がした。
手を拍(う)って、雀躍(こおど)りしたい気持ちになってきた。
高雄級の軍艦こそ、彼が軍人組の一人だった頃、夢に通うほど憧れていた艦だったのである。
新式な重巡として、また、見るから頑丈な、魁偉な外貌が、
どの軍艦の写真よりも、彼の心を捉えていたのである。

そのトン数も、兵装も、速力も、彼は恋人の齢や顔立ちのように、
今でも、心に誦んじているのである。

(高雄級が、おれの目の前を、走ってる!)

「いいなア・・・・・実に、いいなア!」

激しい感動のために彼は口に出して叫んだ。
まるで、青黒い鋼の鎧を着た荒武者が悠々として出陣して行くようだった。

 

その後隆夫は「海事画家」と言われるジャンルの画家、例えば
ドイツの潜水艦艦長出身の画家、クラウス・ベルゲンなどのことを知り、
自分も海軍画家になる決心を固めます。 

ベルゲン作


修行中のある日、隆夫は銀座でよそ見をしながら歩いていた男に
体をぶつけるのですが、なんとそれは谷真人でした。

軍艦「五十鈴」乗り組みの彼は、横須賀に艦が停泊中とあって、
プレーン(背広)で上陸中だったのです。

下宿に誘った真人が、想像だけで描いた伊号潜水艦が航走する絵を見て

「貴様、本当に、立派な腕前になった!」 

と激賞するのに勇気を得る隆夫。
そして、彼は谷少尉の招きで「五十鈴」の見学もさせてもらいます。

横須賀で待ち合わせた真人が、少尉の軍服と白手袋の挙手の礼で迎えるのを
隆夫はうっとりと眺め、じかに見る海軍の香りに陶酔するのでした。

昭和18年版では「先生」の存在は全く描かれず、38年版では黄門様が

「花と裸ばかり描いている、高尾の父親と昔母親を取り合った画家」

として出てくるわけですが、小説では全くそんなことはありません。
この市来画伯が、隆夫の描いた
軍艦の絵を勝手にコンクールに出し、
その画は海軍大臣賞を獲得します。 

 

呉で谷真人と再会し、隆夫は呂号潜水艦の中を見せてもらって大興奮。
さらに潜水学校の敷地にある海底探査用の豆潜航艇を見て、 思わず

「真人!
こんな小さな潜航艇に魚雷を積んで敵の軍港に忍び入ったら、面白かろうね」 

叫ぶその言葉に、真人と案内の少尉は無言で急に眼をそらすのでした。

 

作者の岩田豊雄は、連載に当たって海軍に綿密な取材を行い、
横山少佐の同期である67期出身の軍人に思い出を語ってもらったり、
あるいは第6潜水艇の中を見学させてもらったりしており、
そのことを「海軍随筆」というエッセイにも生き生きと描いています。

牟田口隆夫の妹、エダの描き方も、両作品ともに全く原作と違います。
ツンツンだけで「デレ」も何もないまま終わってしまう戦中作品、
呉に押しかけて「私の全てを取って」( "ALL OF ME"の歌詞通り)
と激しく迫る戦後版の何れとも原作は異なっており、いわば
その二つを足して2で割った状態。

ってどんなだ、と言われるでしょうか。

つまり、原作では兄の隆夫は画家になるために「家出」するのですが、
(戦後版は父の物分かりが気味が悪いほど良く、息子に東京行きを勧める)
家を出ている5年の間にエダはすっかり二十歳のお年頃になり、家族総出で

「お嫁にやるなら谷の真人さんがええ」

ということで衆議一決したというのが原作です。


豹が、猫になってしまった・・・・)

あんなにも女というものは、変わるものかと、隆夫は微笑した。
しかし、妹が真人になんの関心も持たないとしたら、少女の頃に
あんな不思議な敵意を、示すこと同いわけだった。
つまりあの敵意は、強情な好意だったのだ。



(画になるな)

隆夫は、真人が軍刀をエダと父に見せたというその光景を想像してそう思った。
そして、画になる若い士官に、妹が心奪われたのが、いよいよ当然に思った。

(エダの奴、眼が高いよ)

 

再び隆夫が呉を訪ねた時には、真人は下宿を引き払ってしまっており、
代わりに東京に真人からの手紙がきていました。

 

手紙には、その昔中学生時代に『軍人組』として江田島見学をした時、
案内してくれた飛田大尉が、現在少佐になり、
しかも海軍報道部に勤務していることがわかったので、
隆夫のことを画家として紹介しておいた、と書かれていました。

隆夫の夢に、真人は自分のツテを使って道筋をつけようとしてくれたのです。

原作では飛田少佐は「眉目清秀」ということになっているので、
江原真二郎はそこまで考えた配役だったということになりますね。


おかげで、隆夫は海軍嘱託の身分に採用されます。
採用にあたっては、警察が聞き込みに来るという調査を経ていました。

これはある意味当然で、

「画業を全うするために軍艦に乗せてもらったり、
実弾射撃を見たりする手蔓を求めて」

その資格を得ようとしていたのですから。
ここを読んでわたしが思ったのは、

「画業」を「ブログ」に変えると、まんまわたし?

ということなんですが(笑)
わたしが自衛隊の内部に入り込んで?見たものや聞いたことを
ブログにかいているのも、結局今が平和だから、ということになりますね。

いつまでもこんな世の中でありますように。

 

さて、隆夫の「初仕事」は報道班員として演習を取材するために
旗艦に乗り組み、模擬戦等の様を心ゆくまで目に収めることでした。

そしてやってきた、12月8日の朝。
隆夫はラジオを聴き、

ったア・・・やったア) 

そのうちに軀がガタガタ震えてきた。
万感胸に迫って、心も体も、躍り出すのだった。
やがて、彼は首を垂れた。我知らず、天へ祈る心が起きた。
大粒な涙が、ぼたぼたと、床へ落ちた。

(真人は喜んでいるだろな。
そして、どこにいるだろうな。
飛行将校なら、第一線に出て入るかもしれないが、真人は・・)

 

隆夫はすぐさま真珠湾攻撃の絵を宣伝用に依頼されそれを描きあげますが、
その後年も明けた三月になって、
さらに特殊潜航艇の攻撃の様子を
画に仕上げるようにという飛田中佐の命令を受けます。

「君・・・・」

飛田中佐が後ろから呼び止めた。

「は?」

隆夫がふりむくと、潤んだ中佐の眼が、ジッと、彼をみつめていた。

「いや、用ではない・・・」

中佐は、急に、横を向いて、仕事を始めた。

 

隆夫は早速特殊潜航艇の攻撃の画を制作に入りました。
白昼強襲図、そして月の出夜襲図。

第二図の方は、特殊艇が半潜行の状態で、至近距離に迫り、
一人の士官が、アリゾナ型の後半部に高い水柱をあげて命中したのを
確認している画を描いたのでした。

その直後、彼は海軍省発表において、ついにその名前を聞くことになります。

「任海軍中佐湯浅尚士・・・・任海軍少佐谷真人・・・」

 

隆夫は、自分の描いた夜襲の画を、ジッと見つめた。
やがて彼は驚きの声を発した。
ハッチから半身を露わしている士官の軀つきが、真人ソックリだった。
しかも、その姿は、潜水学校の六号艇のハッチから、
真人が軀を乗出した時の印象にちがいないのだ。
隆夫は、知らずして、真人を描いていたのである。 

 

 そして彼は、呉の料亭で真人と一緒に一夕を共にし、
「おす」とか「コーペル」(娘)などという海軍隠語を教えてくれて
快活に笑いあった中尉や、潜水学校の中を案内してくれた少尉が、
真人とともに二階級特進して「軍神」と呼ばれていることに感銘を受けます。


隆夫が唯一不満だったのはエダのことでした。
家からの手紙には、

「エダの縁談も一場の夢となったが、当人も別に悲観している様子はない」

などと書かれているのです。
隆夫は腹立たしく、つい「ちくしょうめ!」などと罵りながら、

(エダがどう想ってるかーそんなことを真人が知らないで、
却って、よかった)

真人は、もう軍神なのだ。
永遠に、二十三歳の海軍少佐であり、また、童貞の英雄なのだ。
あらゆるものが、美しいのだ。
真人を形作るすべてが、美しくなければならないー

 

戦後の映画では、これと同じようなことをその真人本人が
身を捧げてくるエダに言い聞かせてこれを思いとどまらせる、
ということになっていたわけですが。

 

戦後作品で描かれていた海軍葬についても、小説には詳しく書かれています。
実際には九軍神の海軍葬は、昭和17年の4月8日(月命日)
海軍では広瀬中佐以降初めて、日比谷公園で行われています。 

葬列を待つために隆夫とエダは一時間路上で待ち続けました。
時間が来て黒い砲車の上に乗せられた白い柩が通ります。

(真人が行く・・・・真人が・・・・)

閉じた瞼の中に、砲車の上から、真人が、ニッコリ笑って、
此方を見たような、現像が映った。
途端に、隆夫は堪えきれなくなって、大声で、嗚咽を始めた。
それに伝染したように、此処彼処にすすりなきの声が起った。
ただ、エダだけは、泣かなかった。
彼女は、土下座の膝を、キチンと揃えて、微動もせずに、合掌していた。
噛んだ唇は、震えていても、声も、涙も出さなかった。

公園の中で、海軍軍楽隊の”いのちをすてて” の奏楽が起った。

命を捨てて
 

映画では、これがショパンの葬送行進曲になっています。
現在も自衛隊の慰霊式典では、この曲の最初の8小節のあと弔銃発射が行われ、
それが何度か繰り返されるので、ご存知の方もおられるでしょう。 

(おお、真人のお母さんだ・・・・)

彼は、黒い喪服の葬列の中に、小柄な、痩せた躰を俯けた
老人の姿を、目敏く発見した。

やがて、エダが、ヨロヨロして立ち上がった。
ふと、隆夫は、妹の絹靴下の膝頭が、長い土下座のために擦り切れて、
血が滲んでいるのを見た。

 

この後、隆夫は、葬列を見送っただけで鹿児島まで帰るというエダを
東京駅に送っていき、同じ汽車で故郷に戻る
軍神たちの遺髪と遺爪を納めた
白木の箱を抱いた遺族が通るのを
二人で遠くから合掌するシーンで小説は終わります。

 

戦中、そして戦後の映画、そして原作の小説を読んで、
映画というものが到底描ききれないことがあまりに多かったのに
愕然とする思いです。

やはり、文字から想起され想像力によって頭の中に展開するシーンは
商業映画などではとうてい描きつくせるものではないのだなと
改めて知る結果になったことが、そうとは知っていたとはいえ驚きでした。

 

ところでわたしはこの原作をamazonで古本を適当に選んだのですが、
送られて来た小説の最後のページに鉛筆書きで、

60・5・18(土) 

小生を海軍に導きし本

四十三年ぶり再読・涙せり

と書かれていました。
そして、前の本の持ち主が、小説が連載されていた昭和十七年には
中学二年(つまり真人が軍人を志したころ。13−4歳)であったことも、
他のページへの書き込みでわかりました。

この方は、その後この本に「導かれて」海軍に・・・・、
もしかしたら海軍兵学校に入学し、在学中に終戦を迎えたか、
あるいは予科練に行ったのかもしれません。

現在ご存命であれば、 89歳のはずですが、古本屋に蔵書が、
しかもこれほどに思い入れの深い本が売られたということは、
もうすでに前の持ち主は谷真人と同じ世界に行ってしまわれたのでしょうか。

 

ともあれ、この書き込みのある書を偶然手にしたことによって、
小説「海軍」は、ひときわ強い印象をわたしの心に残したのでした。

 

終わり 


 


呉海事歴史博物館「大和ミュージアム」再々々々々訪

2017-04-07 | 海軍

近頃何かと呉方面に用事ができるわたしですが、その間隙を縫って
「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」で
見学をしています。

特に「大和ミュージアム」は、思い出せるだけで4回は観ているので、
これで5回目ということでこのタイトルとなりました。

本日は4月7日。
戦艦「大和」が坊ノ岬沖海戦で戦没した日でもありますので、
大和ミュージアムの展示について取り上げてみたいと思います。 

このカープ優勝の垂れ幕で、いつ頃の訪問かわかってしまいましたね。
この時、大和ミュージアムは、海底に眠る「大和」を
改めて潜水調査したということで、その資料を公開していました。

初代「大和」と小野浜造船所。

6月1日から展示が始まる企画です。
そういえば「大和」の名前を持つ初代の船があったんでしたっけ。

小野浜造船所は神戸にイギリス人のチャールズ・キルビー(左上の人)
が仲間のイギリス人とともに作った造船所で、初代「大和」は
ここで建造されたスループと言われる帆走軍艦でした。

なぜ東郷平八郎の写真があるかというと、なんとこの「大和」の
初代艦長が東郷平八郎中佐(当時)だったからです。

なお、東郷は「大和」艦長就任中に大佐に昇進しています。

常設展示の他に、「呉の人々の生活」みたいな企画展示があり、
撮影は禁じられていましたが、出口に入船山の長官公舎の写真パネルの前で
ここだけは記念写真を撮れるというコーナーがありました。

最初に来た時には常設展示のほとんどが写真可能だとは知りませんでした。
基本的に、個人の遺書や写真以外は撮ってもいいことになっています。

ほぼ実物大の「罐焚き」お仕事中。
これは「金剛」に搭載されていた「ヤーロー式ボイラー」といい、
名前はヤーロー(社)ですが、実はそれを元にして作った「艦本式」です。

ボイラー全体が三角形で「A」の形をしているのがお分かりでしょうか。
この「A」の上部には「蒸気ドラム」、二つの脚元には「水ドラム」があります。

汽罐の仕事は、艦の底の方で、万が一沈没の時には助かる可能性の
全くない職場だったため、そこに勤務する機関学校卒の士官は
肝の座った一種凄みのある人物が多かった、と何処かで読んだことがあります。

今回は、目についたものだけを撮影しました。
これは東郷平八郎元帥が愛用していた懐中時計です。

「オールドスミス&シルバースミス有限会社」という
ロンドンのメーカー製であることがケースに書かれています。

BY APPOINTMENT TO H.M. THE KING 

とも書かれているので、東郷さんが留学していた頃(ビクトリア王朝時代)
ではなく、その後のエドワード7世かジョージ5世の時代に製作されたもの。

つまり東郷さんがうんと偉くなってから購入した品であろうと推察されます。
国費で留学している学生に買えるようなものでもなさそうですね。

手巻きの時計は9時12分40秒を指したまま永遠に動きを止めています。

第6潜水艇についての写真も、わたし的には当時潜水艦ブームだったので撮っておきました。
潜水艦事故で殉職した佐久間大尉と13名の乗員の写真。

事故が起こったのは明治43年(1910)ですが、左上の呉工廠の写真は
5年後の大正5年に撮られています。

皆さん、これが何を意味するとお思いですか?

実は、年鑑によると、この年の夏この事故を起こした潜水艦は
「二等潜水艦に分別された」とあり、
さらに、
名前を「第6潜水艇」とされて除籍になったのは1920年のことなのです。 

ということはつまり、

事故が起こったとき潜水艦は「第6潜水艇」ではなかった

さらに海軍は、

事故で14名が亡くなっていた潜水艇を、その後10年間使用し続けていた

ということになるのです。
今の感覚では、後に乗る乗員の気持ち的にもいかがなものかという気がしますが、
当時、佐久間艦長の事故潜に乗組むのは「名誉」という風潮だったのかもしれません。

(註:この部分についてはコメント欄をご覧ください)

退役後、第6潜水艇は潜水学校に艦体を展示されていましたが、
GHQの命令によって終戦後すぐ解体されてしまいました。

その後船体は桟橋となり、第6潜水艇の潜望鏡プリズムは、現在
海上自衛隊潜水艦教育訓練隊の潜水艦資料室で保存されています。


最初に来た頃には目にも止まらなかったこんな記事も、
あーそうそう、そんなこともありましたねーと余裕でわかってしまう。
こんな時、曲がりなりにも研鑽の結果があったようでちょっと嬉しくもあります。

それはともかく、ここでもお話ししたことのある「友鶴」転覆事件についてです。
現在連載中の漫画「アルキメデスの大戦」では、この事件が取り上げられ、
(友鶴は”峰鶴”とされている)
船の設計をした艦政本部の藤本造船少将の自殺も描かれています。
(ついでに平賀譲先生らしき人がどことなく悪役でワロタ) 

これもブログで掲載したため、図らずも詳しくなってしまった第四艦隊事件。
いずれも間接的に軍縮条約の齎した悲劇であったと言えましょう。 

その軍縮会議の結果に反対するチラシが展示されていました。
なんども来てるけど、こんなの今回初めて気がつきました。


昭和9年ごろ、軍縮会議の結果を受けて、上野の松坂屋で行われた
「海軍軍縮展」なる催しで配られた一般向けのパンフレットです。

なんとびっくり、デパートで軍縮会議に反対するための展示をしてたんですね。

パンフは「英米日」の軍艦保有割合「553」の「5」をハサミで切る水兵、
屑箱に空母や航空機を「捨てて」いる海軍軍人、日本列島を
(当時日本であった朝鮮半島にも日本の旗が立っている)手を繋いで囲み、

外敵から守ろうとする水兵さんたちが象徴的に描かれ、キャプションには

軍縮会議に対する日本の主張

軍備均等権を確立して不公平なる5・5・3を撤廃す
不脅威、不侵略の軍備を目標として兵力を縮小し国防安全感を確保す
そのためには攻撃的兵力(例えば航空母艦)を大削減し、
防御的兵力(例えば潜水艦)を充実す

などと書かれています。

このころ潜水艦は防御的兵力(つまり哨戒が主目的)だからおk、という考えだったのね。


進水式に使われるハンマーと斧はいくつか展示されていましたが、
この時「ちよだ」の進水を見たわたしとしては、空母「千代田」 の
起工式に使われたノミと進水式のハンマーに注目してみました。 

 

さて、潜水調査による海底の「大和」探索の様子は、会場のモニターで
見ることができましたが、当然のことながら撮影禁止でした。

これは喇叭手が使用していた楽器の持ち手部分。
腐食して朝顔の部分が切れてしまっています。 

伝声管と海水ホースのノズル。

バッテリー。
何に使われていたものかの説明なし。 

そして靴底。
どんな人が履いていたのだろう、などとつい見入ってしまいます。


「大和」については、つい最近海底探査の結果が出たということで、
その動画を艦内のモニターで観ることができました。 

山口多聞中将の参謀飾緒。
最高級品で作りが丁寧だったせいか、劣化がほとんどありません。 

写真の上は山口多聞が大佐時代所持していた大日本帝国外国旅券。
昭和9(1934)年6月1日付で在米大使館附武官に赴任した時のものです。

「大和ミュージアム」なので、ちょっとは写真を撮っておこうと思って冒頭のとこれ、
シンボルである「大和」模型も2枚だけ撮りました。

 

前回と違うところは、望遠レンズを持っていたことなので、
兼ねてから気になっていた、「大和」艦上の人をズームして写しておきました。

どうみても海上保安庁職員ですありがとうございます。

「大和」に搭載されていた長官用の内火艇模型。
長官用なので、屋根付きで床には赤絨毯が張られていたそうです。
これは隣の「大和」と全く同じ縮尺で作られています。

実際の「大和」の短艇格納庫は右舷側にあったということです。 

「大和」模型の飾られているところからガラス窓越しに見る「しんかい」。
1969年、日本で初めて作られた本格的な有人深海探査艇です。 

前に来た時にはなかった展示もありました。
これはあの戦艦「ミズーリ」なのですが、この度大和ミュージアムと戦艦ミズーリ博物館が
2015年に姉妹博物館提携を締結したのを受けてのコーナーです。

かたや実際の軍艦(ミズーリ)、かたや大型模型(大和)というのもなんだか
バランスが悪い気もしないでもないですが、
とにかく伝説の戦艦同士。
まずは日米友好ってことで、めでたいですね(適当)

その関係で、まずは「ミズーリ」の砲塔模型が贈られたようです。
わたしは当時「マサチューセッツ」の16インチ砲塔の内部を見て、それについて
エントリを書いている真っ最中だったので、思わず食いついてしまいました。 

砲身側から見た模型。

砲塔とその下の弾薬庫も図解で示されています。

16インチの射撃手順も書かれています。
これについては今日は省略いたしまして、またいずれ、
アメリカで見学した戦艦についてお話しする時に譲りたいと思います。

「ミズーリ」のかつての姿。

そういえば、「ミズーリ」に突入した特攻機がありましたね。
その時の特攻隊員を海軍葬で弔った艦長のウィリアム・キャラハン大佐は、
その後隊司令として第三次ソロモン海戦では旗艦「サンフランシスコ」に座乗し、
夜戦の指揮をとっていましたが、「鳥海」との戦いで艦橋に砲弾が直撃して、
艦長の
カッシン・ヤング大佐共々戦死しました。 

(註*この件についてはわたしが大きな勘違いをしていました。
詳しくはコメント欄をご参照ください) 

さて、そんな感じで駆け足で回り、出て来たところにあったポスター。
その後東京でこの映画を観ました。
呉をよく知る人にはどの場所かはっきりわかるくらいリアルに描き込まれているそうです。

ところで、この映画、韓国でも上映されたというのですが、
韓国人の映画に対する代表的な感想が

「自分たちを被害者として描いていて、日本が加害者であるという反省がない」

というものだったそうです。
北の敵国と戦争中だというのに日本のことしか見てないし、
はっきり言ってもうダメかもわからんね。あの国は。  

というわけで外に出て来ました。
ご存知のように、ここには呉で爆沈した「陸奥」の部分が展示されています。
まずこれが主錨。

右側にあるのはフェアリーダーです。 

公試運転中の「陸奥」。
軍艦旗が美しく翻っているのがわかります。 

なお、現地には「陸奥」のどの部分が現存しているかを示す図があります。

というわけでこれが艦首旗竿。
公試中の写真にもはっきりと見える旗竿がここにあるのです。 

そして主砲身。
爆発によってほとんど被害を受けなかったらしく、傷はありません。 

スクリュープロペラ。
縁が欠けていますが、これは爆発のせいか経年劣化によるものかはわかりません。

何しろ、1943年に爆沈してから1970年にサルベージ会社によって
部分を切断して引き揚げられるまでの4半世紀以上海の底にあったのです。

実際に横に立つとあまりの巨大さに改めて驚く、主舵。

砲身反対側から。

これらはミュージアム外側に展示されていて、道沿いにあるので
誰でもいつでも目にすることができます。
夜にはライトアップもされているようですね。

 

この後わたしはてつのくじら館も久しぶりに見学したのですが、
そのご報告はまた日を改めてお送りします。 

 

 


観桜会 行ってびっくり 初雪見

2017-04-02 | 海軍

海上自衛隊幹部候補生の卒業式を江田島で見届け、
その帰りに大尉殿のグッドジョブで呉地方総監部庁舎内に潜入し、
さらには高田帽子店で記念にミニチュアの将官用正帽を買って帰る、
という一連のご報告がやっと終わったところで、また呉に行ってまいりました。

呉地方総監部主催による恒例観桜会。

旧鎮守府庁舎の後にできた海上自衛隊地方総監部には、昔から桜の意匠を
その印にして来た海軍のシンボルとしての桜が毎年花を咲かせます。
横須賀地方総監部の旧鎮守府長官庁舎(田戸台庁舎)などでも観桜会が
毎年行われ、桜の時期には庁舎が一般公開されるの恒例となっていますし、
海自に限らず自衛隊基地で桜にまつわる基地駐屯地公開をすることもあるようです。

この「観桜会」というイベントそのものが、わたしは海軍時代から鎮守府が
行って来た行事を引き継いでいるのではないかと想像しているのですが、
その行事に今年初めて参加をすることが叶いました。

前日、関東地方ではまだ桜は咲いていない状態だったので、

「これはさすがに西日本でもまだ開花は望めないだろう」

と思いながら、当日、羽田から乗ったANAの機内で、突如機長がアナウンスを始めました。

「皆さま、大変重要なお知らせがあります」

その時には飛行機は雲の上で、飛行にもなんの異常も感じられず、
皆が「?」となったわけですが、続けて機長、

「広島空港上空は大雪のため、着陸ができない可能性もあります。
冬期は着陸を試みますが、それが不可能であった場合引き返し、
大阪空港に着陸することも予想されます」

周りからはなんの声も上がらず、もちろんパニックにもなりません。
さすがはこういう時に冷静な日本人、と感心したのですが、
わたしを含めてほとんどすべての人たちは、これまでの経験値から

まあ最悪の場合を言っているだけでなんとかなるんじゃね?

と考えていたのかもしれません。

真っ白でまるでピカピカ光っているかのような雲の下に入ると、
雪が山々や田んぼをうっすらと雪化粧していっているのが見えます。

明日から4月というのに、雪・・・・だと?

雲を抜けると中央のモニターにすぐに広島空港独特のグライドパスが見え、
着陸は行われるらしいことがわかったと思った次の瞬間、 もう機体は
滑走路に進入し、至極あっさりと着陸を済ませておりました。

このランディングが平常時の一般的な着陸のレベルよりかなり上手かったので、
着地評論家のわたしとしてはこれはなんとかお伝えしたいと思いまして、
ハーロック三世さんのおっしゃっていた

「お褒めのお声があると大変嬉しいものです」

という言葉に励まされる形で、降りる時にCAに生まれて初めて

「ビューティフルランディングだったと機長にお伝えください」

ということに成功しました。
雪が降って着陸しないかもしれない、という事態であったからこそ
こんなことを言うこともできたのかもしれません。 

それはともかく、どうなってんのこれ。
今年は雪のあるところに全く行かなかったし、関東でも雪が積もらなかったので、
わたしとしては今シーズン初めて雪見をしたことになるのですが、
それにしても花見に来て初雪見をすることになろうとは・・・。
(しかもまだ桜咲いてないし)

エアチャイナの飛行機に雪が積もっております。
中国からの観光客は時ならぬ雪にきっと驚いたことでしょう。

階段で待機する係の地上員さん、階段に積もってしまった雪を
手でせっせと払いながら待機していますが、とにかく寒そう。

後で聞いた話によると、前日は暑いくらいの暖かさだったそうです。

ロビーから見える飛行機を皆が盛んに携帯で撮っていました。
なんの混乱もなくいつも通りに無口な乗客たちですが、
一人一人はちょっとしたアクシデントにワクワクしているのでしょう。

この写真では向こうにJALが普通に着陸しております。

この日、飛行機を早めに取ったことから、わたしは一旦
総監部からのお迎えを

「早すぎるので申し訳ないから(来ていただかなくても)結構です」

と断ったのですが、

「控え室も用意してありますし、庁舎敷地にある防空壕跡をお見せします」

というありがたいお言葉に、案の定ほいほいと前言を翻したのでした。
前回車で空港まで送ってくださった大尉殿(仮名)は、今回も

「前回降りられたところで車を停めて待っています」

とおっしゃっていたのですが、空港のロビーで待ってくださっていました。
顔を見合わせるなり、挨拶もそこそこに笑ってしまうわたしたち。

「お花見に来て雪を見ることになるとは思いませんでした」

「呉は雨ですが、雪ではないのでここに来てびっくりしました」

大尉殿も空港に来て雪に驚いたそうです。

確率としては低かったとは思いますが、もし大阪空港に引き返すことになったら、
その時には観桜会の5時半には新幹線でなんとか間に合うとしても、
大尉殿に連絡が取れなくなって彼を右往左往させることになっていたでしょう。

 

空港と呉を繋ぐ高速道路は山間部を走っているので、その間ずっと
このようなまるでスキー場に来た時のような光景を見ながら走りました。

後部シートにまでヒーティングのついた快適な車内から
眺める景色としては、なかなか乙なものではあります。

呉までの一車線道路はほとんどが凍結しかかった雪道で、
皆がのろのろと時速60キロメートルで数珠繋ぎになっている様子は壮観。
この辺りは凍結しやすく、商業トラックや住民などは冬場タイヤを履き替えたりするそうですが、
さすがに4月の声を聞こうとする頃で、皆普通タイヤに戻してしまっていたのではないでしょうか。

そして無事に呉に到着。

大尉殿のいうように雪は降っていませんでしたが、とにかく気温が低く、

スプリングコートにスカートという格好では震え上がるほどです。

とりあえず地方総監部のいつもの(なんて言ってしまう驕り高ぶったわたしである)
応接室に通され、ホッとしていると、総監夫妻が登場。
ご挨拶の後、大変でしたね、とおっしゃる総監に飛行機の着陸について話すと、

「自動操縦のままだったのなら大丈夫だったでしょう」

パイロットというのは一般の人と同じことを聞いても見方が少し違うな、
と思うと同時に、わたしは機長は確かアナウンスで自動操縦から
手動に切り替えるということを言っていたことを突如思い出しました。

「いえ、手動に切り替えるとアナウンスがあったと思います」

「広島空港と岡山空港は地形的に着陸が結構難しいんですよ。
だからあそこに乗り入れる飛行機のパイロットは上手い人が多いです」

なーるほどー。
そう言えば、アシアナ航空の飛行機が着陸失敗して(ローカイザに接触)
機体が破損したという事故があったのもここでしたっけね。
あの時の天候は霧雨だったそうですが、事故原因は機長の判断ミス、
しかし機長は事故直後から行方不明(おい)、
脱出の際、乗務員らによる避難誘導は無く 、さらには全損した機体は
しばらく放置され、日本側が解体作業をしたとかなんとか。

そういう難しい空港なので、アシアナの機長も「ベテランだった」ということですが、
まあ、あの国だし、本当のところどうだったのか・・。

総監夫妻をお待ちするちょっとの間に、前回にはなかった「くらま」の盾を発見!(左端)

呉最終寄港 護衛艦 くらま 平成28年12月5日

先日退役の式典が行われたというニュースを見ましたが、その「くらま」、
佐世保に行く前に最後の呉寄港を昨年の12月5日に行なっていたようです。

各地方隊に寄って最後のお別れをしたんですね。 

室内には呉海自カレーシリーズのレトルトと、シールを集めてもらえる
スプーンとお皿のセットが飾ってありました。

わたしも集めて見たものの、(無理とはわかっていましたが)
この日3月31日をもって第一次ラリーは終了。
4月からは新しいラリーが開始されるということを知りました。
結果としてシールは3枚ゲットに終わりました乙。

総監夫妻は雨天のため呉地方総監部敷地内から変更された観桜会会場である
教育隊の体育館に先に向かわれ、残ったわたしは敷地内ツァーに出かけることになりました。

ご案内くださるのは地方総監部副官の方です。

外はシトシトと降り続く冷たい雨の中、黒い傘と🔦を二本もった副官が
ご案内と、説明もしてくださることになりました。

いやーなんか申し訳ないです。

 

続く。