Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アンチのイデオロギー化

2006-10-04 | 
今夏のトブラッハマーラー週間のプログラムを、内容紹介として送って貰ったので、中身を丹念に読んでいる。

この音楽祭の半身である国際マーラー協会の研究発表の場として、生誕百年のショスタコーヴィッチを含む「マーラーとロシア音楽」と、生誕250年の「マーラーとモーツァルト」が本年度の二つの大きなテーマの柱となっていて赤い糸で結ばれる。

その二つ目の柱は、アッティラ・チャンパイ氏が率いる講演の目次などを読むと、マーラーの弟子ヴァルターの「ドン・ジョバンニ演奏」、マーラー演奏家ミトロプーロスの「モーツァルト解釈」が題目となっている。想像するに、グスタフ・マーラーの指揮者としてのモーツァルト解釈や、手を入れたモーツァルトの楽譜が間接的に示されそうな様子である。1942年のニューヨークのメトロポリタン劇場におけるヴァルター指揮のデモーニッシュな表現がキーワードとなっている。しかしどうもこの様子では作曲家の創作への影響にまでの言及には至りそうにない。

十年前ほどにここで初演された友人シェーンベルクがヴェーベルンに指示した室内楽版の「大地の歌」ではなく今回は通常の編成で演奏されている。先日、ヴァルター指揮ヴィーナ・フィルハーモニカーによる1936年の録音をショスタコーヴィッチ全集と同時に注文したので、これについてはポルタメント奏法等の演奏実践などを改めて聞き取ってから、また考察してみたい。

さて、一つ目の柱として2006年の音楽祭の演奏会では、ショスターコーヴィッチの第五交響曲が演奏されている。そのプログラムにあるライナー・ラプシッツ氏によって書かれている楽曲解説が面白い。この曲が1937年11月に初演された状況から、その公式な成功から何を認めるかと言う疑問が呈される。こうして表したいのは、「それ 以 前 の 作 品 に比べて、この曲の無理をしない控えめな見通しの利く音楽に、二重の意味合いや、表現される内容や、音楽的な深い洞察力が決して欠けていない。」とする古典的説明である。当然のことながら見通しの利くテーマ別のメリハリのついた楽曲解説が続く。

二楽章において、本格的にマーラーの作品と対照して「民族風にがさがさとしたレントラーなど、ロシア風に染められたオーストリア交響楽三拍子スケルツォの舞曲的要素は、マーチの中へと転化して、非常事態に作曲家が置かれていると気づかさせる」とする。

「三楽章の弦合唱の慎ましやかな安らぎは、苦悩に揺さぶられる。そこに忍び込むシロフォンの悲鳴は、第一楽章のモティーフであり、第三交響曲で公式にメーデー賛歌と定義されるモティーフであるのは決して偶然ではない。個人の思想と規定されたイデオロギーの中での分裂である。」とする。終楽章の中間部を「善処に向かっての息休めとして、最後には疲労困憊の神格化がなされる。」としている。

亡命音楽家ロストロポーヴィッチなどの大変立派な演奏を聴くとまさにこのままの解釈であり、これはある意味西側で東側のボルシェヴィキ・イデオロギーを聞き取る イ デ オ ロ ギ ー 化 した解釈ではないかと思われる。

こうした意味づけは、鏡に映る像のようなもので右左逆さまな像を容易に結ぶことが出来る。だから同じ像が、ボルシェヴィキ・リアリティーとしても、反共イデオロギーとしても通じてしまう。そしてこうした創作意図があったとしても、それを 音 楽 的 に二重の意味合いを持つものとして解釈できるかどうかの疑問が生じる。(続く)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« モーツァルトを祀り上げる | トップ | 交響詩「彼岸の入り」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿