トブラッハでショスタコーヴィッチの第五交響曲が演奏される前に、マーラーの交響曲第二番の第一楽章と知られている交響詩「お彼岸」が演奏されている。この楽章が取り出されて提示されて、1891年10月にマインツのショット社へと送った交響詩としての事実を示すグスタフ・マーラーの手紙が紹介されると共に、交響曲の一楽章として構想された可能性も完全に払拭出来ないとプログラムに述べられる。
こうした形での発表への意思があっただろう事と、ハンブルクへと赴任してから「トリスタンとイゾルデ」の初演者でブラームスを補助したハンス・フォンビュローに聞かせた事が確認される。しかしこの名指揮者の講評は熾烈で、「この聞いているものが音楽としても、それなら私には全く理解出来ない。」と言われる。ブラームスは、マーラーを指して矛盾に満ちた言い方で「革命家の王様」と呼んだ。
この挫折が交響曲の完成に時間が掛かった理由と言われているが、ビュロー自身のハンブルクでの葬祭に際して聞いたクロプシュトックの復活賛歌に感動したマーラーは、「雷に打たれたように襲われた。己の精神に、全ては明晰に明確になった。」と言った逸話は余りにも有名である。
マーラーの綴ったプログラムも有名でしばしば引用されるが、こうした信用に価する催し物のプログラムに載っているので、これを訳してみる。この楽曲のプログラムらしきものは、もともと公表されるべきものではなかったというのも知っておくべきであろう。「幾つかの外面的で、全く表面的なこと」として、1896年にマックス・マルシャルクに私信として書き送っている。
「一楽章を 彼 岸 と名づけました。あなたが知りたいと思われるであろうこの対象は、私のニ長調交響曲で埋葬した英雄なのです。…私たちは、愛する人間の墓前に佇んでいます。彼の人生や戦いや苦悩は、最後にもう一度だけ私たちの心の目の前を通り過ぎて行くのです。私たちの日常の戸惑い、地に伏せたもの全ては、蓋のように掻き落とされるのです。そうした刹那が、日常の行いに麻痺して、そうしたものをいつも聞き逃している私たちの心に、恐ろしい声になって襲い掛かるのです。-そして、この人生とは、死とは、何かと言うことなのです。それは永遠を与えてくれるのでしょうか?これは皆不毛の夢なのでしょうか、それともこの人生は、死は、なにか意味を持っているのでしょうか?生きるためには、私たちはこの問いに答えなければなりません。」。
「彼岸」の基となった連鎖戯曲は、ポーランドのロマン詩人アダム・ミツキェヴィチ(1798-1855)による「DZIADY / DIE AHNENFEIER / 葬礼」と呼ばれるもので、キリスト教以前のスラブ・バルト人の春と秋に年二度やってくる伝統的な死者のお彼岸を言うのである。ボヘミア出身のユダヤ人マーラーにとっては、非西欧的でキリスト教を逸脱するこうした文化は特に興味のある素材であったことが想像できる。そうした素材の引用には、旧約聖書における復活の日の意味よりも、彼らを取り巻く環境である土地に根ざした生活観が強く反映している。旧約聖書的な宗教観の反映よりも世俗的な心情が多く語られるのはこうした文化的背景があるからに違いない。またそのポーランド語をドイツ語に訳したマーラーの友人であるジークフリード・リピナーもドイツ語を喋るポーランドのユダヤ人であり、まさにボヘミア出身のマーラーなどと出身文化圏は相似をなしている。
「葬礼」を仏教用語の「彼岸」と読みかえると、はるかにこの曲の主題のあり方がことごとくシックリとして来て、他の交響曲の葬送行進曲との峻別が認定される。何よりも、こうすることでヴィーン古典派からロマン主義音楽を越えての西欧交響曲音楽の伝統としっかりと糸で結ばれる。その点からすると米国のユダヤ人指揮者バーンスタインのあまりに箴言に富んだ解釈や、ユダヤ系指揮者の部分解説的な解釈が誤りであるのが判る。同様に、この交響曲全体への見通しが俄然明るくなる。
ただ、交響詩から交響曲の完成へと向けて一楽章の総譜が既に存在していたとしても、プローべごとに手を加えられていったとトーマス・マンの義理の兄であるクラウス・プリングスハイムが証言している通り、多くの改訂箇所が存在している。またこの交響曲が、前教皇パウロ二世のお気に入りであったと言うのが面白い。当然のことながら原作の、あの世とこの世が地続きとなり、素朴な規範が描かれ、シラーの群盗のような無神論が登場するこの戯曲を楽しんでいたに違いない。
こうした形での発表への意思があっただろう事と、ハンブルクへと赴任してから「トリスタンとイゾルデ」の初演者でブラームスを補助したハンス・フォンビュローに聞かせた事が確認される。しかしこの名指揮者の講評は熾烈で、「この聞いているものが音楽としても、それなら私には全く理解出来ない。」と言われる。ブラームスは、マーラーを指して矛盾に満ちた言い方で「革命家の王様」と呼んだ。
この挫折が交響曲の完成に時間が掛かった理由と言われているが、ビュロー自身のハンブルクでの葬祭に際して聞いたクロプシュトックの復活賛歌に感動したマーラーは、「雷に打たれたように襲われた。己の精神に、全ては明晰に明確になった。」と言った逸話は余りにも有名である。
マーラーの綴ったプログラムも有名でしばしば引用されるが、こうした信用に価する催し物のプログラムに載っているので、これを訳してみる。この楽曲のプログラムらしきものは、もともと公表されるべきものではなかったというのも知っておくべきであろう。「幾つかの外面的で、全く表面的なこと」として、1896年にマックス・マルシャルクに私信として書き送っている。
「一楽章を 彼 岸 と名づけました。あなたが知りたいと思われるであろうこの対象は、私のニ長調交響曲で埋葬した英雄なのです。…私たちは、愛する人間の墓前に佇んでいます。彼の人生や戦いや苦悩は、最後にもう一度だけ私たちの心の目の前を通り過ぎて行くのです。私たちの日常の戸惑い、地に伏せたもの全ては、蓋のように掻き落とされるのです。そうした刹那が、日常の行いに麻痺して、そうしたものをいつも聞き逃している私たちの心に、恐ろしい声になって襲い掛かるのです。-そして、この人生とは、死とは、何かと言うことなのです。それは永遠を与えてくれるのでしょうか?これは皆不毛の夢なのでしょうか、それともこの人生は、死は、なにか意味を持っているのでしょうか?生きるためには、私たちはこの問いに答えなければなりません。」。
「彼岸」の基となった連鎖戯曲は、ポーランドのロマン詩人アダム・ミツキェヴィチ(1798-1855)による「DZIADY / DIE AHNENFEIER / 葬礼」と呼ばれるもので、キリスト教以前のスラブ・バルト人の春と秋に年二度やってくる伝統的な死者のお彼岸を言うのである。ボヘミア出身のユダヤ人マーラーにとっては、非西欧的でキリスト教を逸脱するこうした文化は特に興味のある素材であったことが想像できる。そうした素材の引用には、旧約聖書における復活の日の意味よりも、彼らを取り巻く環境である土地に根ざした生活観が強く反映している。旧約聖書的な宗教観の反映よりも世俗的な心情が多く語られるのはこうした文化的背景があるからに違いない。またそのポーランド語をドイツ語に訳したマーラーの友人であるジークフリード・リピナーもドイツ語を喋るポーランドのユダヤ人であり、まさにボヘミア出身のマーラーなどと出身文化圏は相似をなしている。
「葬礼」を仏教用語の「彼岸」と読みかえると、はるかにこの曲の主題のあり方がことごとくシックリとして来て、他の交響曲の葬送行進曲との峻別が認定される。何よりも、こうすることでヴィーン古典派からロマン主義音楽を越えての西欧交響曲音楽の伝統としっかりと糸で結ばれる。その点からすると米国のユダヤ人指揮者バーンスタインのあまりに箴言に富んだ解釈や、ユダヤ系指揮者の部分解説的な解釈が誤りであるのが判る。同様に、この交響曲全体への見通しが俄然明るくなる。
ただ、交響詩から交響曲の完成へと向けて一楽章の総譜が既に存在していたとしても、プローべごとに手を加えられていったとトーマス・マンの義理の兄であるクラウス・プリングスハイムが証言している通り、多くの改訂箇所が存在している。またこの交響曲が、前教皇パウロ二世のお気に入りであったと言うのが面白い。当然のことながら原作の、あの世とこの世が地続きとなり、素朴な規範が描かれ、シラーの群盗のような無神論が登場するこの戯曲を楽しんでいたに違いない。
のちにビュローの葬儀で「インスピレーションを得る」有名なエピソードは、まさに終楽章まで来ても頓挫していた構想の「復活」なのでもあって、それにも関わらず、この曲の「最終形態」の見事さは、作曲者も「どうやってこうなったか解らない」と言うほど「完結している」と共に、その成立の複雑さは、他の作品にも増して多層的な「意味」を「第2」に与えているようにも思えます。
ユダヤ系ではないメータがイスラエルの団体でヘブライ語で演奏したものを聴いた事がありますが、それでも解る通りユダヤ系の人々が「引っかかる部分」もあれば、バーンスタインにマーラーについての薫陶を受けた日本人、小沢征爾の(私はそのどちらの演奏も好みますが)、しかしそれとは「対極」にあるような、夾雑物無く非常にクリアで「純音楽的」な、見事な演奏を聴けば解るように(二種の録音のうち最初はアメリカの団体、後のものは一人の独唱者を除いて日本の団体)、マーラーのこの曲は極めて幅広く強靭であり、汎世界的です。「彼岸」とは言い得て妙ではないでしょうか。
さあ、「彼岸」は小説を読んでみないと分かりませんが、それほど遠くは無い様に思っています。少なくともメータ指揮のVPOとの録音にはぴったりです。またポーランドには、恐らくドイツのファスナハトに相当する人形流しもあって、これは共産党によって受け継がれたようです。
西欧的な枠組みとそこから食み出す部分の割合の妙が面白いようです。如何に個性を出しながら、伝統の中で違和感を与えないか。小沢の演奏は一時フランスなどで大変受け入れられたようです。私もボストンとの三番は今でも印象に残っています。三楽章について書いたときは、古いバーンスタインNYO盤が模範になっていましたから全く節操が無いです。
交響詩版をブーレーズが録音していると知りましたが、話題つくりという感はどうしても免れませんね。
「引っかかる部分」とはなかなか多層的な「意味」を感じる表現ですね。まあ、拘りたいのは、アドルノではないですがアウシュヴィッツ以後で変わったことです。その前のホフマンスタールやらザルツブルク音楽祭の創立時などの「予感」も含めてですが。