Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

不思議な言葉の文化的感覚

2009-12-01 | SNS・BLOG研究
言葉の不思議のようなものを感じることがある。それは文化体系が固有している記号論的な意味合いよりも、さらに具体的な生活感覚のようなものがそこに伴うからである。

Aufhoerenという動詞はやはり不思議なのだ。「止む」とか の意味で「始る」のAnfangenと対になる言葉である。ドイツ語の動詞は、幹となる動詞に接頭語がついて似通った動詞群を構成するが、この場合のHoerenの「聞く」の意味は止むの意味には一切関係ない筈である。WIKIにはそのものAufhorchenの「聞き耳を立てる」という言葉が挙げてあって、同じような危険な状況にあってぢちらかといえば消極的に耳を済まして環境を値踏みする行動である。それには、「じっとする」積極的な行為がその前に存在する。つまり止めるのである。

このようにみると如何にもゲルマン民族が狩猟民族で、自らの逸る鼓動を感じながら深い森で獲物の動きにじっと息を潜める雰囲気さえこの言葉が伝える。実際にそれがまたItなどの仮主語によって表現されるときに、使用言語がもつ文化的な意味に彩られるかもしれない。

そうような意味の相違は、モスクワで何十年振りかの「ヴォツェック」の新演出がドレスデンからの引っ越し公演とかで実現したというが、そもそもソヴィエトを代表する作曲家の一人シュスタコーヴィッチなどへの、その1927年のペテルスブルクにおけるこの作品のロシア初演が与えた影響が語られる時も、美学的な相違としてのそれが語られる。

作曲家アルバン・ベルクの弟子のアドルノが認めるように、ビュヒナーの創作自体が大変優れた十九世紀前半の自然科学者的な視線で描かれていると同時に、二十世紀前半を代表するオペラ作曲家ベルクのオペラ化でフロイト的な二十世紀の心理劇の光りが与えられた事は否定しようがない。なにも音楽の形式や調性の相対的な視座を持ち出すまでも無く、そこにおいて鋭く発声される台本の言葉の記号論的な意味につけられた音を受け取るだけで十分である。



参照:
雨がやみました (☆ ドイツに憧れて ~ in Japan ☆)
ヴォッツェック鑑賞 (ワイン大好き~ラブワインな日々~)
そのもののために輝く 2006-11-13 | 生活
瞳孔を開いて行間を読む 2006-10-22 | 音
印象の批判と表現の欠如 2006-03-11 | 文学・思想
意志に支配される形態 2006-01-05 | 音
ある靴職人の殺人事件 2006-01-04 | 文学・思想

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3 コメント

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見える人にはより見えてしまう... (ラブワイン)
2009-12-01 16:41:37
ショスタコも大天才だから、実演を聞いたときの本人の衝撃はすごかったでしょうね。
その割りに彼の「マクベス夫人」はずいぶんとわかりやすく親しみやすい気がします。
先日の東京での同オペラも私を含めて聞き手がどの程度理解できているのか、いささか疑問ではありますが。
クライバー父が初演を指揮し、子のカルロスクライバーが得意だったヴォツェック、彼らの十八番の一連の曲とはかけ離れているようですが、実はそんなことないんでしょうね、優れた芸術家の高い感性においては。
私もベルリンのヴォツェックの映画版がすべてであの抽象化の範囲の演出なら許せますが、あまり余計なことをされると頭くるのは仰るとおりと思います。
此度の東京での新演出は、ベースの舞台が水を張った真っ黒な床?でその上に幅20m、奥行き15m、高さ15mほどの箱がつるされていて、箱の中とその外で芝居が進行していました。
演奏や歌手のレベルは平均的だったので、照明を上手に使った演出は、飽きないで見れる点では良かったです。(バイエルン歌劇場からの借り物なのでご存知かも?)
結局のところ1回限りの実演を見るだけで十分で、音楽に対する新しい発見をしたければ、やはり色々CDを聞くことに尽きるのかな、と私も思います。
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Unknown (ohta)
2009-12-01 20:35:26
 2006 年のスイス映画,Die Herbstzeitlosen を見ていたら,主人公がトランプを投げ出すシーンで「もうやめた」をそう言っていました.字幕はドイツ語のそれしか出ない DVD ですが,スイス方言の話し言葉と字幕のドイツ語とに差があって面白く見ました.

 日本の大学教育では第二外国語の消滅が急速に進んでいて,私がいた大学でもカリキュラムから完全に消えたということです.理解が浅くなっていくのは否めません.

 東京でのヴォツェック公演についてはオーケストラの成熟度に問題があったとの指摘はもちろんですが,聴衆・観客の習熟度にも問題があったことと推量します.
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ハリー、ハロー! (pfaelzerwein)
2009-12-02 03:45:20
ラブワインさん、ハリー、ハロー!嬉しいですね。大体原作がラインヘッセンからハイデルベルクあたりまでの雰囲気を伝えてますから、こうした執拗な音階の使い方も、マリーの歌なども、ヴォッツェックの神経だけでなくて、観客にも残りますね。逆に、それだからこそしっかりと外して「調的な引力から距離をとる効果」が十二分に示されているかと思います。その正反対に医者などの役柄の存在がある訳で、「ルル」がその主役のキャラクターともども、もはやこのコンパクトな枠組みを外してしまっているからの未完であり、シェーンベルクなどがオペラを完成出来なかったのと同じ理由かもしれません。

カルロス・クライバーのヴォッツェックは知りませんでしたが、親父の方は特別に時間を掛けてリハーサルしたようですから、成功したのも頷けます。

名作劇「マクベス」のオペラ化や「ザロメ」なども想起するのですが、こうしたコンパクトな出来上がりは、影響を与えたショスタコーヴィッチや寧ろブリテンの心理ドラマと比較しても、その美学的見識という意味で大分異なると言うのが分かるかと思います。それは、あの時期のヴィーンでしか創造されなかったものでしょう。ワインと同じ本当の一期一会でしょうか。


ohtaさん、カード遊びはまた文化的な特色が強くて「狩人の歌」のような面がありますね。

ドイツ語の問題は、先日日本学を英語で営まなければならなく、ドイツ語学を英語で発表しなければいけない現実が新聞で話題となっておりました。その話を独日協会でしますと、然もありなんで、ドイツ専門家とのコミュニケーション自体が英語を媒介することでしか成立しない経験を皆持っている訳です。

上演回数に比例する習熟度もそうですが教育も異なりこのあたりの曲は五十年前に比べて飛躍的に精緻度があがり、それがまた聴衆の理解度を上げているかと思います。私は手元にドホナーニ指揮のCDを持っていますが、アバド指揮の上演などでも大変充実している印象があります。語学的な理解度にしてもヴァーグナーのだらだらした語りとは大分異なり、分かり易い筈です。例えば、「カプリッチョ」などはその意味から最も通向きで、その内容からしても到底「ヴォッツェック」とは比較にならない理解困難度が日本ではあると思いますよ。
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