日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

東北を・・(8)近代建築文化を継承したまち・登米

2012-11-14 17:10:40 | 東北考

仙台藩は1601年(慶長5年)伊達政宗を藩主として誕生した。関が原の戦いの翌年である。
歴史を紐解くと、仙台藩の誕生に伴って登米は仙台藩に組み込まれることになったという。
今さらいうことでもないが、我は歴史に疎いなあ!となんとなくがっかりするのは、多分独眼竜伊達正宗のイメージが強くて、親しみを込めて伊達藩とも言われるというその伊達藩の登米と思い込んでいた節がある。仙台藩という言い方に馴染んでいない。
でもまあそんなことはさておいて、410年を経た現在の登米には、長い歴史の一時期を記憶した明治時代の建造物が幾つも残されている。

例えば近代化遺産、警察署庁舎が当時の警察資料館となっているし、重要文化財になった木造2階建ての大きな校舎「旧登米(とよま)高等尋常小学校」(明治21年・1886)は、当時の教育に関する資料展示がなされている教育資料館として魅力的な姿を僕たちに見せてくれる。

偶然というか縁(えにし)があるのだと思ったのは、東京に戻って事務所の机に置いてあった`建築東京10月号`(東京建築士会の機関誌)をめくったら、近代化遺産のカタチと題したこの小学校の、写真家増田彰久さんの写真と文が乗っていた。
設計は山添喜三郎という技師で、明治6年明治政府がウイーンで開催された万国博覧会に参加した時に日本館を建てた棟梁に大工として同行し、その後1年ほどヨーロッパにとどまって西洋館を学び、帰国して宮城県の技師になって手掛けたのがこの学校なのだと書いてある。
この建築には、つくった人の気負い(そこが面白いと思う)があるような気もしていたが、なるほどと得心した。調べたのはあの藤森照信さんとのこと、さすがにすごい建築探偵だと増田さんは添え書きをしている。

この旧小学校は、近々修復がなされると聞いたが、漆喰壁の一部が地震によって剥落したり、平屋部分が歪んでいたものの、大きな被害は無い様だ。
まち中に人気が少なくてちょっぴり気にはなったものの、登米は(この一角を宮城の明治村と観光パンフレットに記載してある)歴史を内在した落ち着いたまちだ。こういう土地柄が`森舞台`をつくらせたのだと納得し、岩手県境に近いこの地に近代建築文化が根付いていることに嬉しくなった。
昼食は、この地の名物「油麩」を煮込んだ油麩丼だ。油?を食べるのかと思ったが、意外とあっさりしていてなかなか旨い。我が妻君は、食べたことはないけどここの名物だということは知ってるよ!という。ここはやはり東北なのだ。

登米を訪れてなんとなくホッとするのは、当日森舞台を担当した女性や、警察資料館で好奇心が抑え切れなくて聞いた質問に、分からないことがあると、あちこちに問い合わせをしてくれた女性の笑顔に見られるように、これらの施設の管理に関わる人たちのゆったりとした暖かさである。それがごく当たり前の日常なのだ。
いま僕は、このひと時を思い起こしながら、この笑顔と暖かい志があれば、ここに未来があると言ってみたくなっている。