「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県みやこ町勝山 ・ 昭和の元号創案者 「 吉田学軒の碑 」

2016-12-25 06:41:19 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣







































大正天皇の崩御により、大正から昭和に元号が代わったのが12月25日である。

吉田増蔵(学軒)は、みやこ町出身の漢学者で元号 「 昭和 」 を創案した人物で、
慶応2年(1866)、豊前国京都郡上田村 ( 現みやこ町勝山上田 ) に生まれる。
本名は吉田増蔵、号を学軒と称した。
村上仏山の漢学塾・水哉園で学んだ後に上京、英語を学びアメリカに渡る。

帰国後は、奈良女子高等師範学校 ( 現奈良女子大学 ) 、
山口県立豊浦中学校 ( 現豊浦高等学校 ) 教職を経て、
大正9年 ( 1920 ) 宮内省図書寮の編修官となり、
上司であった文豪・森鴎外と出会い親交を深める。
森 鴎外は、学軒に非常に厚い信頼を寄せていた。

鴎外の遺言書には、所蔵する和漢の蔵書を 「 吉田増蔵君に贈るべし。
吉田君の外善く之を用ふるものなし 」 と綴られていた。
鴎外が没した後、特に元号研究は学軒に引き継がれた。
大正天皇の崩御にともない、
宮内大臣から新しい元号を創案するよう命じられた学軒は
「 神化 」 「 元化 」 「 昭和 」 など複数の元号案を提出、
他の学者が考えた案とともに政府内部で選定作業が進められ、
学軒の考えた 「 昭和 」 が新元号に決定される。

「 昭和 」 は「 書経 」 の一文 「 百姓昭明、共和萬邦 」 から
「 昭 」 「 和 」 の2字をとったもので、
「 国民の平穏な暮らしと世界各国の共存共栄を願う 」 といった意味が込められている。
しかし、その願いとは裏腹に、時代は世界戦争へと向かい、
学軒も宮内省の官僚としてアメリカ・イギリスに対する宣戦詔書の起草にたずさわることになる。
そして、この時すでに重い胃潰瘍を患っていた学軒は、
昭和16年 ( 1941 ) 12月19日、
東京上落合の自宅で終戦を見届けることなく逝去。享年76歳であった。



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