「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市 ・ ブラタモリ / オールド那覇と首里を結ぶ 「 長虹堤 」

2016-03-09 07:37:41 | 沖縄

「 ブラタモリ 」 で、タモさんと桑子アナが御物グスクの次にやって来たのは、
美栄橋駅の近くにある一段高くなった道路である。
「 さて! 」 一段高くなったこの道路のヒミツとは・・・





「 新修美栄橋碑 」 の左方の一段高くなった道路がかつての長虹堤跡に相当する








「 新修美栄橋碑 」の碑文の説明板







かつての浮島と浅瀬を結んだ長虹堤の説明板







目印になる・ゆいレール 「 美栄橋駅 」







ビルの合間に昔の集落が残る美栄橋駅から見た風景







この 「 崇元寺 」 辺りから長虹堤が出ていた





長虹堤 ( ちょうこうてい ) は、1451年、琉球王国によって建設された
全長約1キロメートルの堤防と橋からなる道路であり、
崇元寺付近 ( 那覇市泊 ) と伊辺嘉麻 ( いべがま、那覇市松山付近 ) を結んでいた。

かつての那覇は浅い入り江と、
その入口をふさぐように横たわる浮島と呼ばれる島から成っていた。
浮島は現在の久米および松山付近に相当する。
中国王朝からの使者は浮島に上陸し、
浅い海を渡って首里へと向かうことになっており、
琉球王府は使者を迎える際に国中の船を集めて舟橋としていた。

1450年 ( 景泰元年 ) に琉球国王に即位した尚金福王は1451年、
翌年の冊封使を迎えるにあたり浮島と首里とを結ぶ堤防と
橋からなる道路の建設を決め、当時の宰相懐機に下命した。
懐機は海が深く波も高いことから人の力だけでは難工事になると考え、
祭壇を設けて二夜三昼にわたる祈祷を行ったところ、
翌日、潮が引き海底が現れたといわれる。

工事には身分の高い者から低い者まで多くの人々が参加している。
工事の後、懐機は神威に感謝するため天照大神を祀る神社と
長寿寺と呼ばれる寺院を建立した。
一方、長虹堤建設に従事した安波根祝女 ( あはごんのろ ) が病死し、
これを不憫に思った人々が彼女を堤防の畔に埋葬し、
周囲に石垣を積んでこれを御嶽 ( うたき ) としたものが
威部竈 ( いびがま ) になったとの伝説がある。

当初は浮道と呼ばれていたが、
1633年、冊封使の杜三策に付き従って琉球を訪れた胡靖が、
「 遠望すれば長虹の如し 」 と述べたことから 「 長虹堤 」 と呼ばれるようになった。
長虹堤の建設によって浮島と首里とを隔てていた浅い海に
土砂の堆積が進み干潟が形成された。
また、交通の便が良くなったことから那覇への人口集中が進み
住宅用地が不足するようになった。
このため、1733年頃から干潟を埋め立てて住宅用地とする工事が進められるなど、
次第に内陸化していった。

1756年に冊封使として琉球を訪れた周煌による記録 『 琉球国志略 』 に収められた絵図
「 中山八景 」 に長虹秋霽という題目で長虹堤の様子が描かれている。
また、この絵図を元にした葛飾北斎の筆による浮世絵 『 琉球八景 』 も制作された。
明治に至るまでは十貫瀬道と呼ばれる主要道路として使われていたが、
周囲の交通網の発達によって普通の街路となっている。



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