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所在地 / 熊本県八代市 ( 旧・東陽村 ) 北
架橋 / 文化年間 ( 1804年 )
石工 / 藤原林七
長さ / 7.03m 径間 / 3.92m
幅 / 2.46m 拱矢 / 0.72m
この鍛冶屋下橋をはじめ、鍛冶屋中橋・上橋の三橋は、藤原林七が石工として
試しに架けた石橋だと言われている。
藤原林七は、種山石工集団を生みだした最初の人だといわれている。
そんな林七は、長崎奉行の下級武士であったが、
長崎のアーチ式石橋に興味を持ち、その架橋技術を学ぼうとオランダ人に接触し、
その構造の秘密である円周率を学んだ。
しかし、当時は鎖国政策により許可なく外国人と会ったりすることは禁じられていたので、
長崎を離れ各地を点々とし、たどり着いたのが種山(旧・東陽村)であった。
この地で林七は農業のかたわらアーチ式石橋の研究を重ね、
ついに宮大工の「曲がり尺」をヒントに独自の技術を完成させたという。
その林七の孫が橋本勘五郎である。
鍛冶屋下橋へのアクセス
鍛冶屋下橋へは、国道3号線を宮原町より国道443号線に入り、
種山小学校の先を左に入った所に石匠館がある。その入り口の下になる。
駐車場は、石匠館の駐車場が利用できる。