ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

自己表現

2020年07月31日 | 社会派らぼ
SNS流行りです。特に、緊急事態宣言に伴う外出自粛期間の間、You Tube 利用者の視聴時間が大幅に伸びたと言います。この頃は、タレント、ミュージシャン、芸人、スポーツ選手などが次々参入しているようです。引退を余儀なくさせられそうになっていた芸人がYou Tuber に転身などといった話題もありました。視聴者からも、「親近感が涌いた」などの理由で好評のようです。一般人でも1億円プレーヤーになれたりする世界です。見せたい人がいて、見たい人がいるわけですから、需要供給のバランスがシッカリ取れていると考えるべきでしょう。本格的に You Tube に参戦するとなると、それなりに機材を揃えたりもするのでしょうが、取り敢えずスマホ1つあればできてしまう…ところも手軽です。

定期的に動画をアップしようとすると、必然的に話題は日常の一コマを切り取る事になります。構想を練って、準備をして…となると、とてもじゃありませんが、時間も労力もかかりますから、自分にとっての日常をアップするのが一番手軽です。芸能人の日常は、視聴者からすれば、プライベートを覗き見できるといった楽しみがあって大歓迎されているようです。アップする側からすれば、経費の要らない宣伝媒体で、しかも視聴者数に応じて見返りがある…となれば、こんな美味しい話はありません。次々と参入者が増えるのも当然でしょうか。

一体、これは何なのでしょうか(笑)。自己表現。そんな風に説明をする人もいるかもしれません。要は見せる人の自由、見る人の自由なのですが、イマのSNSの中に「見るべき」ものは、そんなに存在していないのではないか…と、背を向ける一人でもあります。自己表現とは、自分のうちにあるものを別の形にして、外部化すること? 可視化すること?です。ただ単に、日常を垂れ流すことと、自己表現は根本的に違っています。人に見せる前提であれば、そこにはもっと自らの想いやポリシーを、きちんとした何かに昇華させる必要があるのではないでしょうか。

芸術…というものは、それこそ自由です。千差万別。人が良いと思うものを良いと思う必要もないし、自分なりの表現というのはあって然るべきです。が、究極「何か」に昇華するという作業無しには語れないのではないかと思います。「美しい」と感じるものは、人によって異なります。それでも全世界がため息をつくような「美しさ」というのはやはり存在するような気がします。誰もがそれを具現できないのは当たり前ですが、少なくともそこには具現しようとする意志が必要であると感じます。

意味のない自己表現が蔓延するネットの世界の中から、いつか真実の道は開けるのでしょうか。

2020年07月30日 | 社会派らぼ
その昔、雨が降れば川は氾濫して当たり前(少し言い過ぎでしょうか)の時代がありました。為政者にとって、治水工事は最大の課題だったと言えると思います。「治山治水」と言われたように、国を治める根本理念であったはずです。そうした先駆者たちのおかげで、私たちは雨が降ってもそうは簡単に川も溢れない時代に生まれました。

ところが、近年は雨の降り方が激しくなったせいで、毎夏のようにゲリラ豪雨が発生するようになって来ています。梅雨前線や台風に伴う豪雨の被害も甚大になって来ています。観測史上初…といった冠のつく雨量も平気で降らせるほどで、最近は雨が降ると、小学生が習うような日本を代表するほどの河川が、氾濫することも珍しくなくなって来ている感があります。

治水事業は過去の課題であるかのような錯覚を持っているのが、大きな間違いで、気候が変わったのであれば、その気候に対応できるような治水事業が急務です。堤防を高く積み上げるべきなのか、川底を深く掘るのが良いのか、膨大なお金のかかる事業であるのは確かですが、史上初のこれまでにない雨量だったから仕方がない…と、毎年のように嘆くのは、きっと違うと思います。オリンピックや、万博、カジノなどに税金を使う事も必要なのでしょうけれど(それらはビジネスとして、利益を生むでしょうけれど)、それ以前に国民の命を守る治水対策が必要です。

梅雨明けが大変遅くなっていますが、もうそろそろ各地で梅雨明け宣言が聞かれると思います。ゲリラ豪雨が一息つくと、すぐに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、復興ばかりに気持ちを奪われ、根本解決が先送りになりがちです。資金が要ると同時に、年月のかかる事業です。青写真を描き始めないと、いずれまた被害が繰り返される羽目になってしまいます。

またたき

2020年07月29日 | 社会派らぼ
‭人の考え方というのは、人それぞれで、金子みすゞの詩ではありませんが「みんなちがって、みんないい」。詩というものは、言葉を自在に遊ぶような文化で、小説や随筆のように理路整然と人を説得するところが希薄だから、ホッとします。(勝手な言い草ですから、専門家の方には叱られるかもしれません。)でも、世の中には何でも理詰めで論破しようとする人もいます。当ブログの主も、かなり理屈っぽいようですし(笑)。

自分の感性を自分で遊ぶことができるような余裕に憧れます。箸の上げ下げに至るまで、人を見下して言いっぱなす世界は好きにはなれません。流行りのTwitter などが性に合わないのは、そんなところがあるからかも知れません。

作家の曽野綾子氏の発言は、しばしば差別だとか思想が無いとか批判されることがありますが、ところどころで漏らされる言葉の中に、何かしら自分の気持ちを代弁してくれる部分を感じたりすることがあります。心のひだを存分に表現する言葉をお持ちで、さすが「作家」だと思う事が時々あります。要するに、私にも「思想が無い」のでしょう。

「その日一日を楽に生きられて、死ぬ日までもてばいい」「体にとっていいとされるものを摂取するだけではない 体にとって『敵』と思われているものを摂取しなければ生きていけない」「長生きさせなくていい」「延命治療は受けない」「あらゆるものは必ず死ぬ」「何歳で亡くなろうとも、死ぬその日まで満ち足りて暮らした そんな人生が最良」

偏った自分の感性だけで、人の言動を蔑むことは好きではありません。人にはいろいろな考え方があって「それでいい」はずです。が、そんな中、一本貫く真理も必要なはずです。何億光年といった遠大な宇宙のスケールから考えると、私たちの一生なんて、たとえ百まで生きようと、幼くして天に召されようと、共にほんの一瞬のまたたきにしか過ぎない…という事実を忘れないでいたいと思います。

教育

2020年07月27日 | 社会派らぼ
プロ野球は、8月から球場収容人数の半分まで観客数の上限を引き上げる予定でしたが、来月末まで5000人の観客数で行う事を決めました。既に販売済みのチケットは払い戻されるようです。Jリーグも同様、観客数の制限緩和を見送っています。シーズンの開幕が見送られたり、無観客試合だったりしたところから考えると、徐々に通常への道を模索している最中でしょうか。ただ増え続ける患者数の現状を憂いつつ、一日も早い解禁を皆が待ち望んでいます。

アマチュアスポーツ界でも、夏の甲子園が中止になったように、大きな大会は開けないものの、大会目指して練習して来た選手たちの想いに応えるため、各地区で独自大会が実施されているようです。但し、例年に比べれば試合数も少なく、練習時間の制限などもあって、生徒たちには「物足りない」夏になっていると想像します。

が、こうした緩やかな「夏」が、選手たちの力を高めている…という話があります。しのぎを削る試合数が減ったことによって、投手達の故障の原因となる登板過多が減り、練習時間の制限が生徒たちの成長を引き起こしたというものです。例年、生徒たちは厳しい練習と過密な試合に明け暮れていたりもするのが、今年に限りいつも通りの練習すらままならなくなっている…にも関わらず、例えば投手の球速が上がったと言います。また、体を大きくするためと称して「食事」量も無理に多く詰め込んでいたものが、それなくしても自粛期間中の選手たちの体が勝手に大きくなっているとか。

過度なトレーニングや食事管理が選手たちを強くする…と、指導者も選手も信じ込んで来たけれど、実は時間的なゆとりは大きな成長要素だったというのが、コロナ時代の新発見のようです。練習や試合がままならない危機感は、選手たちの積極的な自発的研究を促したという見方もあります。動画でプレーイメージを構築したり、言われるがままのメニューをこなす練習から、自ら考える練習にシフトしたことが功を奏しているとも考えられます。

放置すれば必ず自分に甘くなって練習を怠る結果を招きかねないから…と、他校より少しでも「多く」の練習を課して来たことは、実は逆に選手たちの成長を阻害していたかもしれないというのは大きな発見です。だから…、生徒たちの自主性に任せる放任主義が良いのかというと、それはそれで、怠惰の呼び水になりかねません。

折しも中国の元女子フィギュアスケーターの選手が、現役時代の練習場でのコーチからの暴行を告白しています。最近、アスリートが虐待被害を訴えるケースが続きますが、元はと言えば、少しでも「厳しい練習を課して」という選手管理方法が、いつしか指導者は高圧的になっても仕方がない、アスリート側は指導してもらうからには我慢せねば…という図式が当たり前になってしまった…ところから派生して来ているかに思えます。

過度なトレーニング云々以上に、コロナへの危機意識、コロナによる喪失感、何かをしなくてはという焦りの中で、何ができるかを自ら考える事が大切だったということを示している…という今回の「発見」が指導方法を見直すきっかけになるでしょうか。「未来」に向かって、真剣に自ら求めることの大切さ。スポーツだけに限らず教育全般の中で、改めて考え直す必要がある課題だと思われます。

緩急

2020年07月26日 | 社会派らぼ
第2波は、既に第1波を凌ぐ感染者数になっており、地方でもじわり…と、その数が増えつつあります。第2波の患者は、若者世代が中心のようで、つまりは重症に至るケースもそう多くは無く、回復されているのでしょうけれど、毎日のように3桁の数字を連呼されるのは、あまり心地よいものではありません。

その割には、経済活動を止めることができない…などの理由で、緊急事態宣言は見送られていますし、Go To トラベルも開始され、旅行に出かけることも推奨されてさえいるような感じです。イベントの参加人数上限5000人の緩和は8月末まで見送られましたが、大体5000人という現在の目安そのものが、日常の集まりとしては途方もなく大きい数字です。要はプロスポーツやコンサートなど、収容人数が万の桁の会場が、全席解禁に至らない…ということでしょうか。

と思えば、大相撲7月場所の7日目、阿炎関が突然休場しました。「数人の客と会食に行った」というのがその理由で、師匠はこういう時期に軽はずみな行動で最低なことだと切り捨てました。相撲協会では、新型コロナウイルス感染防止マニュアルを配布し、不要不急の外出自粛を呼び掛けていたと言います。

患者数がどんどん増えている割に、日常生活はマスクとビニールカーテンが当たり前の光景になっただけで、特に若い人を中心に不要不急の外出もあまり気にしていない様子。緩急の加減を測りかねる…とでも言えば良いでしょうか。緊急事態宣言は「ダメ、ダメ、ダメ」でいささかげんなりする部分はありましたが、あちこちの対応が全て同じで、そういう意味では戸惑う部分は少なかったように思います。

コロナと関係があるのか無いのか、いややっぱりあるのでしょうか。米中関係が悪化の一途をたどっています。自国ファーストという、これまで言わば「本音」を隠して「建て前」を語った来た世界が、口々に臆面もなく「本音」を豪語し出したところへ、コロナ騒動が降って涌いたわけで、ここから世界がどうなっていくのかも、甚だ心もとない限りです。人はやはり背筋を伸ばして、自ら「こうあるべきだ」という理想を、「武士は食わねど高楊枝」でなければならないのではないかと思う次第。

穏やかで、平穏な理想郷は、当面訪れそうもありません。

嘱託殺人

2020年07月25日 | 社会派らぼ
ALS患者に頼まれて、薬物を投与し、死に至らしめた…という事で、医師2人が嘱託殺人に問われています。事件を巡って、ネット上もにぎやかです。難病や障害を理由に安楽死を肯定することが「人為的に失わせていい命」の存在に繋がる…と懸念する声が多いようです。日本で安楽死は認められていませんが、例外的に認められる4要件というのがあって、①耐え難い肉体的苦痛 ②死期が迫っている ③肉体的苦痛除去の方法がない ④患者の明らかな意思表示 とされています。今回は、死期が迫っているわけではなかった…との理由で、議論の対象にもならないと吐き捨てる声も大きいようです。「認める」とか「認めない」といった物言い自体が、傲慢であるような気がするのですが、それが現行法の限界という事でしょうか。2人の医師は有罪を免れるものではないでしょう。但し、こうしたケースは、一般論でくくってはいけない…というのが先ず一番最初に大切なように思います。

昨夏の参院選では、ALS患者である舩後靖彦氏と脳性麻痺の木村英子氏が、れいわ新選組から立候補し、参議院議員に当選しました。共に身体は殆ど動かせず、ベッド型車椅子を使われているということで、参院本会議場は、中央玄関のスロープやイスを撤去してコンセントを追加した議席を設けるなどの改修工事が施されました。国会の場がバリアフリーになる事は、とても良いことだと思います。今後、こうした障害を持つ方に活躍の場が更に開けるか否かは、お二人の活躍次第…というところでしょうか。ただ、こうした改修工事や介助費用も公費で負担される…といった図式そのものが特例で、全ての障がい者には夢のまた夢。誰もがそうした恩恵を受けることのできる社会を目指す…というのがれいわ新選組の方針だという理解はしますが、経済的なバックボーンを持つことはなかなか難しいものがあります。

多くの人の手助けを得て、生活のクォリティを保つ事についても、経済的・信条的・精神的に、それに耐える事のできる人がいらっしゃると同時に、それができない人がおられるのも現実です。生まれながらにして、障害を負っている場合は、そうした環境に馴染むよう育てられるでしょうが、長じて障害を負った場合、葛藤はより大きいかと想像します。人は一人ひとり、状況もメンタルも信条も異なるわけで、一般論でくくれないのは、その部分かと思われます。

「生きにくい」という想いに寄り添って安楽死の権利を認めよという議論でなく、「生きる希望」に導かねばならない…という事も、今回多くの方が声を大にして言っておられます。主治医は、そうした患者の想いや状態に寄り添って、何とか生きていく手立てを患者と共に考えて行かねばならないのに、逮捕された2人は、犯行当日が初対面で、わずか10~15分で部屋を出ており、そうした事には無策であったとされています。

それでも、すべての主治医が、患者の想いをすべて受け止められるのかと言えば、それは違っています。今回の女性にも主治医はおられたようで、彼女はそうしたSOSを医師に投げかけることが、多分できなかったのではないかと想像します。もっと些末な病気ですら「病気は治して当たり前」「克服するのが美談」の世の中です。「治さない」自由や「自然に朽ちる」自由に理解を示すことのできる医師は、きっと多くはありません。SNSを通じてのやり取りの中で、冒頭のALS女性が救われたのはきっと確かです。

ただ、そうした自らの想いは、死んでしまった今、誰も代弁してはくれません。それを説明するためにこそ、女性は生きていなければならなかったのかも知れません。

ルール

2020年07月24日 | 社会派らぼ
京都市のALS患者の依頼を受け、薬物で殺害した…と、医師2人が逮捕されました。女性が死亡したのは、昨年の11月の事だったそうですから、捜査当局は半年以上も内偵を続けていたことになります。

女性と医師が知り合ったのは、更に1年近くさかのぼり、安楽死を望む女性のツイッターに医師が答えた形で始まったようです。亡くなられた女性は、周囲にも死ぬ権利を認めてほしいといった事を漏らしていたようで、身近な人たちも女性の望みを知っており、複雑な気持ちのようです。

医師がお金を受け取っていたことも問題にされているようですが、この医師は高齢者医療は社会資源の無駄といった考え方も持っていたようで、安楽死の法制化に度々言及していたと言います。お金目当て…と言うより、信条によるところが大きいのかも知れません。人が作ったルールですから、それに対して異論を持つ人がいることは想像の範囲内です。

美容整形・美容外科の看板を挙げる高須クリニックの院長が、癌を患っておられるのは、ご本人が公表されているため有名です。スイスの「安楽死協会」から会費請求が来たので、払い込んだとツイッターに投稿したのは数か月前の事でした。安楽死が法的に認められている国の中で、外国人を受け入れているのはスイスだけだそうです。旅費込みで150~200万円くらいだとか。但し、医師が直接手を下すことは禁じられており、患者が苦しまない方法で自殺を遂げる事を手助けするに過ぎず、冒頭の女性のように自ら点滴の針を刺したり、致死薬を飲み込む力を持たない場合は、為す術も無いようです。200万を払えば実現される安楽死が、全ての人に平等に門戸が開かれていないという事実は、女性には十二分に致命的だったと思われます。

確か多摩川に身を投げた西部邁元東大教授を手助けした…とのことで、罪に問われたK氏は有罪となりましたが、執行猶予が付けられたと記憶しています。「生の最期を他人に命令されたりいじり回されたくない」とは西部氏の言ですが、先日の三浦春馬氏の自害など、様々な形で幕引きを図ろうとする人は少なからずいます。現在の法制度の下で、誰もが納得しているようでもあり、こうして事件化すると、様々な矛盾を抱えてもいる事を思い知ります。

人間…は自死を考える唯一の動物でありながら、自死を許容しない唯一の動物でもあります。人間の歴史の当初を思いおこすと、そこには行動を縛るような規則や倫理観は存在していなかったと思われます。人は、様々な恐怖や未知の出来事に恐れおののいて生きることで精一杯であり、自らの死を願う余裕さえそこには存在しなかったと言うべきでしょうか。長い時間をかけた人間の進化は、今のルール社会を作り上げました。果たしてそうして「作られたルール」が絶対なのかという問いかけには、結局誰も答えられないのではないかと言う気がします。

コロナの不安

2020年07月23日 | 社会派らぼ
23日、東京都内では366人がウイルスに感染していることが確認されたと報道されています。大阪でも22日に121人と発表しており、共にこれまでの最多とされています。感染者の数で言えば、完全に感染第2波に入っている…と、大阪の吉村知事も話しています。が、若者を中心に広がっており、第1波とは傾向が異なっているとのこと。本来ならオリンピックが始まるはずだった4連休に感染防止の徹底が呼びかけられ、東京ではできるだけ外出を控える呼びかけが行われています。一方の大阪は「家から出るな」と呼びかける事には、強烈な犠牲も伴う…と難しいかじ取りを説明しています。

一方でコロナウイルスによって壊滅的に落ち込んだ観光需要の喚起策「Go To トラベルキャンペーン」が、東京を割引対象から外して実施されています。コロナの軽症者が多少は増えたとしても、ともかく経済の立て直しを図るという政策で、確かにこれによって救われる業者も多いかもしれません。医療崩壊を防ぎつつ、社会経済活動に与えるダメージは最小にとどめないといけない。

感染者数よりも、重症者数、死者数などを睨む必要があるという事でしょうか。それならそうで、きちんとした数字が示されないと、皆が不安に陥るか、それでも国は何も止めないんだからと軽んじるか、どちらかになってしまいそうです。何にせよ、批判の声が一定数あるのは何も特別な事ではありませんが、今の状況は、ともかく「先が見えない」不安感でしかありません。

合掌

2020年07月20日 | 社会派らぼ
「俳優の三浦春馬さんが自殺したらしい」というニュースには、誰もが驚きました。残念ながら、報道はガセではなく、彼は自らの人生に自分で幕を引いたようです。以来、彼の人柄を悪く言う人を見かけません。真面目で、誠実で、礼儀正しく、才能に溢れていた…というのが殆どの人の感想です。前振りも無い突然の死は、おそらく制作中のドラマや契約したに違いない今後の仕事に、決定的なダメージを与えたはずなのですが、どこからもそうした事を非難する声が聞こえて来ません。誰もが「一体、何が…」と絶句し、「苦しかったのだろう」とその心情に思いを致し、「あんないい奴はいない」と追悼の言葉で溢れています。恐らく、誰に対しても何に対しても、一途で真摯であったのだろうと想像できます。そしてもしかすると、それが彼を追い詰めていったのかもしれません。

一方でWHOは、自殺予防の手引きとしていくつかのガイドラインを作成しており、その中の一つにメディア関係者のための手引きがあります。つまり、自殺が報道されることによって、社会に与える影響を心配するもので、後追いや模倣、また物事の解決手段の一つとして世の中に深く潜行していくことを避ける意図がそこにはあります。

自殺をセンセーショナルに扱わない、目立つところに掲載しない、繰り返し報道しない、手段を詳しく伝えない、場所など詳しい情報を伝えない…。更に、社会に向けて啓発・教育を行う、支援を求める場所などの情報を提供する…。これらは、全くと言って良いほど、守られていませんし、最近のSNS流行りで、俳優仲間などが次々と送る哀悼の辞が、一つ一つ繰り返しの報道を形作って行っています。

何があったのかを知りたい…という大衆の興味に応えること、恰好をつけて「知る権利」などと言った言葉が良く使われますが、結局のところ「野次馬根性」でしかありません。死者に鞭打たないというのは、日本人の誇るべき礼儀正しさです。が、あまりにもこの真面目一筋だった好青年を惜むことが、自殺という手段を未完成な魂達に何かしらの影響を与えるのだとしたら、三浦春馬さんはキットそれを望まないと思います。合掌。

迷惑

2020年07月19日 | 社会派らぼ
「迷惑系You Tuber」と呼ばれるへずまりゅう(敢えて氏はつけませんでした)が、逮捕されました。スーパーの店内で魚の切り身を食べ、空の容器を持ってレジに並んで、お金を払う動画をアップしたそうです。後日、動画を見た店長が警察に相談し、逮捕に至ったとか。へずまりゅうは、当初は普通の動画を投稿していたらしいのですが、登録者数が伸びないため、迷惑系にシフトしていったそうです。人気You Tuberに突撃して行ったり、ストーカーまがいの行為をしたり、無理やりコラボを迫って行き、「知名度を上げたい」「人気者になりたい」「お金もほしい」と繰り返していたと言います。更に、今回は新型コロナウイルスに感染しながら、マスクもせず、人を集めて接触した人を感染させたとか。

へずまりゅうは、あくまで代表例であり、周囲に迷惑をかける迷惑系は嫌われながらも、次々と現れてくるようです。「目立てて羨ましい」「逮捕されないなら、自分もやりたい」「迷惑行為をするだけで名前が売れるなら、マネしたい」といった感想すら聞かれると言いますから、空恐ろしい時代です。バカッターなどと呼ばれた、馬鹿な行為をSNSに挙げる輩と同じです。「他人の注目を浴びる」事が、生きる意義になったりするものでしょうか。

そもそも、現代は「自分らしくあれ」と声を大にして言われるけれど、自分の「自分らしさ」をキッチリと捕まえることができていません。「自分らしくある」イコール「自分が楽しい」と短絡するケースが多く、世界の風潮を見るまでもなく、自己中の時代に突入している感があります。若い世代が迷惑行為も辞さず、自分を目立たせるのに躍起になっているとしたら、高齢者は自らの偏った自信を臆面もなく人に押し付けて恥じない時代かもしれません。

半生をかけて生き抜いて来られた「生きざま」は誇っていただくに足るものであるとは思うものの、それは他人に押し付けるものでは無く、正しければ良いわけではキットありません。「正しい」という事ほど、あいまいなものはこの世にはありません。誰の理論であっても、真に「正しい」ものがぶれずに一つになり得るのであれば、この世の中に戦争など起こり得ません。へずまりゅうに眉をひそめながらも、自分自身も大なり小なり人に迷惑をかけているかも知れないことに、思いを馳せたいと思います。

唐突に結論。もうYou Tuberなどで生きていく…という幻想を終わりにしましょう。