私たちは生きていますから、一瞬たりとも止まっているわけではありません。もちろん、何もせずに静かにお茶を飲んでいたり、景色を眺めていたりする時間もありますが、それとて「お茶を飲んでいる」「景色を眺めてる」わけですから、何かをしているわけです。「休養している」ことも、何かをしていることの一つです。まして、積極的な活動をしている時には、私たちは五感をフル動員させて「ものごとに取り組んで」いることになります。
ですが、何をするにせよ、それには明白な「理由」を持たなければならないような気がするのです。活動には、もちろん「目標」はあります。たくさん展開されている環境保護活動にしても「湖を守る」「自然を守る」「美しい地球を残す」。明白な目的があります。多くの募金活動も「○○ちゃんを救う」「海外での手術費用を集める」「○○の研究費用に充てる」等々。
でも、こうした活動の真っただ中に身を置いていると、そうすることが当たり前になっていて、掲げられている目的こそが絶対になってしまって、私たちは半ば惰性で活動を続けてしまうものです。掲げられている明白な目標のもっと奥底を流れる「理由」のようなものを、私たちは捉えておく必要がある…そんな気がするのです。物事は意味もなく、ただ何となくするのではなくて、強い意志を持っていなければならないのではないでしょうか。自分の行動のいわば「動機」のようなもの。ただ無心に関わり続けることも、大切なことではあるけれど、生きる動機、強い意志を伴わなければならないような気がしてなりません。
「パワーポイントのスライドショーをDVDに焼きたい」
パソコンのご質問を(ぱぁと2)にまとめています。ご連絡の際は、メール(pc_labo@goo.jp)をお送りください。なお、メールアドレス変更しております。
ですが、何をするにせよ、それには明白な「理由」を持たなければならないような気がするのです。活動には、もちろん「目標」はあります。たくさん展開されている環境保護活動にしても「湖を守る」「自然を守る」「美しい地球を残す」。明白な目的があります。多くの募金活動も「○○ちゃんを救う」「海外での手術費用を集める」「○○の研究費用に充てる」等々。
でも、こうした活動の真っただ中に身を置いていると、そうすることが当たり前になっていて、掲げられている目的こそが絶対になってしまって、私たちは半ば惰性で活動を続けてしまうものです。掲げられている明白な目標のもっと奥底を流れる「理由」のようなものを、私たちは捉えておく必要がある…そんな気がするのです。物事は意味もなく、ただ何となくするのではなくて、強い意志を持っていなければならないのではないでしょうか。自分の行動のいわば「動機」のようなもの。ただ無心に関わり続けることも、大切なことではあるけれど、生きる動機、強い意志を伴わなければならないような気がしてなりません。
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