ぱそらぼ (ぱぁと1)

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聖火

2021年03月25日 | 社会派らぼ
東京オリンピックに向けて、聖火が走り出しました。実施する以上は、安全な大会であって欲しいとは思っていますが、今に至っても、五輪開催に危惧を感じる人は、かなりの数に上ると思います。

東京都では、新たなコロナ感染者が400人に迫りました。患者数の減少が頭打ちになっていた事から、経済活動への配慮もあって、緊急事態宣言は解除されました。が、その後患者は増加傾向を示しています。年度替わりの時期、例年ですと、歓送迎会のシーズンに突入しています。加えて「日本の春」を象徴する桜も見頃でしょうか。巷では「第3波超え」の懸念がささやかれます。

患者数は下げ止まりの状態が続いており、これ以上緊急事態を継続しても、経済がひっ迫するばかりで効果が見込めないといった判断が働いたのだろうと思いますが、勘ぐれば聖火リレーが始まる時期に、緊急事態を切り抜けた感を演出したかったのでないかと思えて来ます。

が、そんな状況での開催に、果たしてどのくらいの意味があるのか、多くの人が覚めた目で成り行きを見守っている気がします。海外からの観客受け入れは断念すると、先日発表されており、チケットの払い戻しは60万枚とも言われており、損失額は1500億円とも。それでも開催する方が経済的には救われるのでしょうか。

思い返せば「東京2020」招致に成功した当初は、日本が右肩上がりの成長を遂げた前の東京オリンピック時のイメージが強く、開催を歓迎する声も随分大きかったように思います。ロゴマークのすったもんだに始まり、コロナで1年延期を余儀なくされた挙句、組織委員長の交代やら、未だに開会式のパフォーマンスで人の体型をあげつらう演出案がどうとか…でトラブルが続いています。

オリンピックを一つの目標として、頂点を目指して頑張って来られたアスリートが、世界中にたくさんおられることを十二分に理解した上で、この時節にオリンピックを実施する事には限りない危惧を感じています。

ウィズコロナ

2021年03月21日 | 社会派らぼ
予防接種が有効だとか危険だとか、騒いでいる間に、フランスでは3度目のロックダウンが始まったと報じられています。変異型の感染が拡大しているとの事ですが、超速いスピードで変異を続けるコロナウイルスはどうすれば終わりが見えるのか、さっぱり分かりません。ウィズコロナといった掛け声で、新しい「ありよう」が模索されていますが、これが私たちの「日常」に定着していくのも時間の問題でしょうか。

そんな中、米中外交トップ会談は、アラスカで2日間にわたって開催されましたが、共同声明は発表されず、互いの立場の違いを印象付けただけに終わったようです。一方、東京オリンピック・パラリンピックの大会組織委員会と政府・東京都・IOC・IPCの5者会談は、都知事とバッハ会長、パーソンズ会長がオンラインで参加し、海外からの観客受け入れを見送る方針が発表されています。

対面で話し合うことができれば実りが多く、オンラインでは意思疎通がはかりづらいのか…というと、キットそうとは限りません。リモート会議というのは、今後コロナが収束していったとしても、残っていく「これから」の会議のあり方だろうと想像されます。現地まで行き来する時間や交通費が要りません。下手すると、会場も要りません。重鎮が集まるとなると警備の問題などが必要になって来ますが、それも要りません。ホストやゲストと言った差異も起こりません。

ただ、「会わない」事が主流になって行った時、そこには本当に「出会う」事と同じかそれ以上のコミュニケーションが可能かというと、それも違うような気がします。それは言ってみれば、ずっしりと掌に本を乗せてページをめくるのか、それとも画面をスワイプして目を走らせるのかの違い。長い針と短い針が、今の「時」を知らせるのと、数字で目に飛び込んでくるのとの違い。便せんに癖のある字でしたためてポストに届くのと、瞬時にネットで届くのとの違い。アナログとデジタルの差異はどうしても超える事はできない気がします。

恐らく、遠くない将来、人は自宅に居るままにして、あらゆる経済活動も教育もこなす時代が来るような気がします。宇宙人というのが、人間の果てしない進化の先を想像しているのだとしたら、たこのように頭だけが大きく手足が細く描かれるそれは、人が足を使って歩かなくなる未来を描いているのかもしれません。

触れずして、キット心は伝わりません。コロナが破壊しようとしているのは、そんなぬくもりかもしれないと思うと、ウィズコロナなどと言っていられない気がしてきます。

道場

2021年03月09日 | 社会派らぼ
藤井総太二冠の活躍もあって、世の中は空前の将棋ブームだと言われます。…が、その一方で、各地の名門道場は閉所が相次いでいるそうです。29歳で亡くなられたという村山九段らを輩出した「広島将棋センター」が3月7日に閉鎖されました。娯楽の多様化やネット将棋の普及で利用者が減った状況に、新型コロナウイルス感染拡大が追い打ちをかけたと言われます。

道場は、もともと薄利の経営のようですが更に、感染症対策のアクリル板の設置などが必須となり、しかも収容人数を半数に抑えなければならないなど、経営を圧迫する条件が重なりました。一昔なら、指す相手がいないと練習にならなかったでしょうけれど、今では将棋ソフトやネット対局などがありますから、道場に出向く必要も少なくなりました。惜しむ声が多いものの、時代には勝てません。

デジタルカメラの普及は、フィルムカメラを販売終了に追いやりました。確かにデジタルデータの写真は取り扱いや加工が楽ですし、スマホカメラの性能も目を見張るばかりの時代です。電子書籍の普及は、リアル書店の経営悪化を引き起こし、閉店も相次いでいます。レコードなどにいたっては、貴重品の部類に属します。いずれも、時代の流れ…でしょう。が、一部のコアなファンに言わせれば、フィルム独特の色味や描写、書籍を手にした時のインクの香りやページをめくる感覚、レコード盤に針を乗せる時のワクワク感には捨てがたいものがある…とも。それでも、時代は流れていくのです。

が、それらと将棋道場の閉鎖は、一緒にできない何かがあるような気がします。それは単にデジタルかアナログかの違いではなく、人を相手にするかしないかという根本的な違いです。将棋の奥義は分かりませんが、単にAIが次の一手を考える事と、生身の人間が焦ったり奢ったり油断したりしながら指す一手とは、根本的に異なるのではないかと思うものです。どんな難局にあっても、顔色一つ変えず冷静に次の一手を指す事と、元々感情を持たない指し方とは相容れない何かがあるように思います。人は感情を捨ててロボットになるのが理想ではありません。