ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

敬語

2020年01月29日 | 社会派らぼ
いつも大相撲はさほど気にしているわけではありません。が今回の初場所は、幕尻力士が優勝した…との事で、チョット話題になっているようです。幕内力士は、横綱・大関を筆頭に、ランク分けされていますが、幕尻とは幕内力士の最下位を意味しています。要するに、幕内力士の中で一番弱いとされている力士が優勝してしまったという事です。

最下位ですから、下位力士との取り組みが多かったわけですが、それでもスゴイ事だと思います。但し、これで番付が上がるでしょうし、対戦相手からマークされますから、次の場所は一層大変になることが予想されます。それでも、尚一層頑張っていただきたいと思います。

優勝インタービューでは「自分なんかが優勝していいんでしょうか?」といった言葉を口にし、視聴者の好感度を一気にかっさらった感があります。ユーモアを交えながらのインタビューには余裕さえ感じました。徳勝龍関の優勝インタビューは、初と思えないほど、絶妙な余裕の会話のように思えました。お人柄なのでしょう。最後は「お父さん、お母さん、生んで育ててくれてありがとうございました」と両親への感謝を口にされています。

某新聞のコラム氏が、敢えて咎めないと言った発言をされていましたが、人前で自分の親の事は「お父さん、お母さん」とは言わないのが、古くからの日本語のあり方かと思います。そこは「父、母」でしょうか。家庭の中で、どう呼ぶかといった事は、それぞれの家の中のことですから、どうでも良いと思います。ただ、幼稚園くらいでは「パパ、ママ」だった呼び方が、いずれ「お父さん、お母さん」に変わり、更に他者に対しては「父、母」と言葉遣いが変わって行くことは、人としての成長と反するものでは無いと思います。

多分、徳勝龍関がどうのこうの…でなく、世の中自体が、日本語の特徴とも言える「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」を無視し始めているせいでしょう。言葉は時代と共に変わっていきます。意図的に変えているわけでは無いけれど、乱れと言われるものが、いずれ乱れでなく当たり前の使い方になって行くわけで、それこそ、旧い言葉にこだわる必要もありません。

「自分が」「自分が」の現代にあって、自らをへりくだり、他者を立てようとして来た日本語文化の根幹は大切にしておきたいという風には思います。名は体を表す。口にしている言葉は、いずれその人の人格を形成する事に大きな役割を果たすような気がしています。

偽造

2020年01月26日 | 社会派らぼ
日本語試験の偽造合格証が、大量に販売されていることが分かったとニュースで報じられました。日本に留学もしくは、日本での就職の際、この日本語試験の資格取得が採用条件になる事が多いのだそうです。日本語試験の中で最も信頼度が高いとされているのが、偽造された公益財団法人・日本国際教育支援協会が実施している「日本語能力試験」で、難易度別に「N1」~「N5」の5段階あるそうです。

製造拠点の多くは中国だそうですが、1枚1万5千円だった代金が、同業者が増えたという理由で今では8千円程度だとのこと。実際に、偽造認定書で留学もしくは就職している人たちの数は想像もできません。

日本語試験の合格証に限らず、実は様々なものが偽造されているのではないかと思われます。犯罪がらみで、免許証や住民票などが売買されている場合もあるでしょうし、偽札作りなどもしばしば犯罪史には登場します。

今では書類…というと「印刷」が当たり前です。そうした機器がなかった時代は「手書き」が基本であり、本物だと証明するために「印」が押されました。「筆跡鑑定」といった技術があるくらいですし、精巧でないものであれば、素人が見ても真偽の判別は可能なのではないだろうかと想像します。加えて、細かい印影で、更に本物としての証が成立します。

現代では、正式書類で、人が手書きしたものは皆無ではないでしょうか。はんこという日本独自の文化も、だんだん廃れつつあって、印省略という書面も多くあります。つまり、どんどん偽造が安易になって行っているという事だと思います。

書類の真偽が見た目では分からない…となると、後は「登録番号」のようなものを振って、母体機関への問い合わせとセットで、真実を証明する事になるでしょうか。問い合わせと返答待ちが、手続きとしては煩雑で、結局のところ窓口で省略となると、偽造し放題になってしまいます。

印刷文化、コピー技術の進化は近年目を見張るものがあります。が、ただの紙切れに全幅の信頼を置く事が恐らく間違っている…という結論になりそうです。日本語試験の合格証を持っていたとしても、本人を目の前に言葉を交わしてみれば、どの程度の日本語力なのかという事は、おおよそ特定できるのではないかと想像します。人が人の目で判断するという手間を惜しんだせいで、世の中が混乱している気がします。AI文化礼賛が見直されるべき理由です。

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2020年01月25日 | 社会派らぼ
1月から3月はすぐに過ぎてしまう…とよく言われます。新年が明けたのがツイ先日だというのに、暦は早1月を後1週残すばかりになっています。この分では、あっという間に2月は「逃げ」て、3月が「去って」しまう事になりそうです。

最終学年を迎えている園児・小学生のご家庭では、卒業(園)式の声が聞こえて来ているようです。制服のある学校はともかく、私服で通っている場合は、卒業式に何を着るか(着せるか)で頭を悩ませるご家庭もあるようですが、最近小学校の卒業式にもはかま姿の女児を見かけるようになっているらしく、学校によってははかまを禁止するところも出て来ているそうです。

これが賛否両論を呼んでいるようです。服装は自己表現の手段であって、個人の自由であり、子どもや親に任せれば良い…という自己表現論と、派手で衣装代が高くつくような服装は無駄である…という贅沢戒め論でしょうか。着慣れない服装での転倒の恐れやトイレを心配する声も少なからずありますが、明確な反対は華美に走る事を抑制する意見のような気がします。

高級レストランやイベントによっては「ドレスコード」が指定されることがあります。ドレスコードは、参加者の服装に統一感を持たせることで、その場の雰囲気を乱さないような配慮から始まったマナーです。服装というのは、自分を華美に着飾るものでなく、主催者や主賓への礼儀のようなものだと考えるべきなのかも知れません。

着るものにまで一々文句を言われたくないといった論もあるのは承知で、学校側が卒業式でのドレスコードを指定するべきなのではないでしょうか。それも、卒業式間近になって云々でなく、学校としての姿勢を常に示しておく必要があります。

和装が見直されるのは、歓迎すべき事かも知れません。おそらくは「ちはやふる」などの少女漫画などから、袴人気が定着してきたのでしょうが、日本の伝統が見直されるという意味で、最近の袴人気は歓迎すべき事のようにも思います。それでも若い世代の和装にはまだまだ唐突感があります。服装は、自己表現の一つであると同時に、周囲への心配りだという事を忘れないようにしたいと思います。

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行間が広がりすぎる

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終末時計

2020年01月24日 | 社会派らぼ
中国・武漢で発生した新型コロナウィルスは、致死性があることが分かっており、感染拡大が懸念されています。既に韓国、日本、タイに続いてアメリカでも感染症例が確認されています。日本では2人目の患者が確認され、不安が広がっています。

そんな中、「咳と熱を検知した中国人が、関空から病院に搬送されたものの、検査前に逃走した」とのデマが拡散していると報じられています。関空の検疫所は、全面的に否定しているようで、デマらしいのですが、瞬く間に2万リツイートを超えました。ネット上に拡散しているのは、中国版Twitter 「微博」への書き込みらしく、中国語で書かれているようです。

デマはなぜ広まるのでしょうか。書き込みを見て拡散した人の中には「事実だと信じた人」と「事実ではないかも知れないと疑った人」の二者があるはずです。「事実だと信じた人」が、そのツイートを拡散した事はある程度仕方がない事かも知れません。一方の「事実ではないかも知れない」と疑った人たちは、あいまいなツイートを広めることの罪を今一度考え直す必要があります。ですが、何よりも最初に「嘘」を発信した人がそもそもの発端です。

熊本地震の直後、「近くの動物園からライオンが放たれた」という内容で市街地に立つライオンの画像が流されたことがありました。この時も2万回以上リツイートされ、熊本市の動植物園には問い合わせが殺到しました。この時は、デマを流した男性が逮捕されています。

SNSが異常に普及した世の中になりました。SNSには功罪があることは皆が理解しています。擁護派の人たちは、それは「情報」だと言います。キチンとしたところから、キチンと流してもらえない情報を、皆で発信し共有しているのだというのが、彼らの認識です。ですが、ここまで追い切れない怪物のように育ってしまったSNSは、ありようを根本的に変えるべきなのではないかと思います。正しい情報を発信するジャーナリズムというものが、もう少し大切にされ、品格を持ち直しても良いのではないでしょうか。

1947年に公表が始まった「終末時計」が、昨年より20秒進み、過去最短の1分40秒になったと発表されています。地球滅亡まで残りが「100秒」だというものです。これはアメリカの科学誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」が発表したもので、核戦争などを想定しているものですが、人が生み出した技術が人を滅ぼそうとしている…と言う意味では、もっと広い意味での「終末時計」の時刻かも知れません。

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曇り空を青空にする

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ネット詐欺

2020年01月22日 | 社会派らぼ
ネット経由でホテルに宿泊予約をすると、料金の一部が「Tポイント」で還元される…というサービスを悪用したとして、親子が逮捕されています。私電磁的記録不正作出・供用及び偽計業務妨害の疑いとされています。親子は全国のホテルで、虚偽の宿泊を2,215回繰り返して、約190万円分のTポイントを不正に得ていたとそうです。

世の中には、こういうことをマメに2,000回以上も繰り返せる人もいる事に呆れると共に、ネット上の取り引きが普及している現在、不正な取引の総額は、凄い数になっているのではないだろうかとの懸念を強くします。ネットが様々な形で当たり前になり、集客をもくろんだサービスも様々存在しています。どこでどう得をしているのか分からないままに、「今なら◯◯円お得」的なフレーズに乗せられる事にもしばしば出くわします。

人手をかけずに、客が集められれば、店側は得ですから、顔の見えないサービスは今後も増え続けるのかも知れません。自分の持っている不要な物を、他人が持っている物と取り換えて、欲しい物を手に入れる、いわゆる「物々交換」から社会経済はスタートしたと思います。それがやがて「貨幣経済」に姿を変えて行くわけですが、少なくとも「目の前の」「生身の」人間とのやり取りであったものが、今は単なる「データ」とのやり取りになりつつあります。

そこには、人と人との間に通うはずの気持ちのやり取りというものがありません。経済は、単に売れれば良いだけですから、かえって面倒なやりとりが無い方を好む人も多いと思います。けれど、単なる物欲が衣服を着ているだけの経済というのがたどり着く先は、どんな世界なのだろうかと思うと、手放しでネットの普及を喜んでいられないのかも知れません。

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割注を利用してルビが振れません

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共通テスト

2020年01月20日 | 社会派らぼ
例年、大学入試の頃は、冷え込んで雪に足を奪われることも多いのですが、今年は思いのほか暖冬で(まだ雪を見ていません)、昨日無事に最後のセンター試験が実施されたとの事です。「最後の」と言うのは、既に報道されている通り、2020年度からはセンター試験が廃止され、共通テストが実施されるからです。

が、従来のセンター試験から共通テストに向けて、大きな変更点と言われた、英語民間試験の導入と記述式問題出題の二点が延期となった今、共通テストに切り替える意味というのは一体何なのでしょうか。それでも、某「大学ジャーナリスト」によると、センター試験から大きく変わる点が何点かあるそうです。

英語では、発音やアクセント問題が消滅します。リスニングの配点が、現行の50点から100点に増え、1回読みが登場します。読解問題の英単語数が増えるため、難易度は上昇すると見られています。加えて、英語の試験問題が英語で記述されるようになるそうです。

国語では、実用文からの出題になるらしく、これまでの評論や小説からの出題とはガラリと趣が変わるでしょうか。数学では、数学の知識だけでは解けない(?)ような身近なテーマについての問題文などを読ませるとあります。応用問題を解く数学力と言うのは、結局「国語力」に依存するというのはよく言われる事ですが、更にその傾向が強まるという事です。

これまでのマークシート方式は、正解が分からなくても、鉛筆を転がして(笑)どれかにマークする事で、4択であれば25%の確率で「当たる」事ができたのですが、「正しい選択肢を全て選べ」とか「正しいものが無ければゼロをマークせよ」といった問題が登場します。当てずっぽうで当たる確率が減る事になります。その他、教科ごとにキチンと分けられた問題ではなく、複合分野の出題が増加すると言われています。暗記科目と言われ、ただ棒暗記をすれば答えられる問題から脱皮しようとする試みがそこここにあるようです。

ただ、こうした点が変わる…と言われたら、変わるのでしょうけれど、果たして「センター試験」をやめて「共通テスト」と名を変え、受験者の不安を煽る必要も無いのではないだろうかと感じます。高校で習った内容から、逸脱しない内容で出題される限り、出題の傾向は毎年変わっても良いのではないかとすら思います。

「試験」と名が付く限り「傾向」があり、「傾向」がある限り「対策」が立てられる…と言うのが、これまでの試験の通説です。問題を作成するのには、膨大なエネルギーが必要です。半端な仕事量ではありません。毎年のように傾向を変えて、新手の問題を出していく…と言うのでは、仕事量が多すぎます。そこで、必然的に試験問題はワンパターン化し、逆に言えばそのパターン練習を繰り返しさえすれば、問題が解けるという結果になってしまい、棒暗記の勉強方法がまかり通る事になるのではないでしょうか。本来、試験に対する手間暇を惜しむべきではないのです。

パソコンの資格試験と同列に論じるのは違っているかも知れませんが、有名なある資格試験があって、受験料も安いわけでは無いのに、多くの人が資格取得に励まれます。履歴書に書くことができれば、ある程度華やかな資格ではあるのですが、私個人的にはあまり評価していません。それは出題がパターン化しており、練習を繰り返せば、本当の技術を持っていなくても、正解できる…といった出題だからです。

現場の先生方に、必要以上の労力を強いて、本来の研究業務が滞っては意味が無いのですが、日本中が揃って傾向の定まった同様の問題を解く…という、今の受験制度そのものに「?」があるのかも知れません。各大学、各学部が、本当に欲しいと思う人材をチョイスできる独自の試験をすればそれで十分ではないでしょうか。先立ってこんな問題が出題されます…と、公開する必要もありません。新手の問題に戸惑うのは、誰しもが平等だと思います。研究に忙しい専門の先生方が試験を作成する時間が取れないのであれば、試験問題を作成する大学スタッフという職があっても良いのかも知れません。

そろそろ、一律の試験を実施して、受験生たちの能力を公平に測れると考える事を止めにしませんか。大学側がそれぞれ独自に学生を厳選し、教育の結果、大学が課すラインを超える者のみに卒業資格を与える仕組みに移行すべき時期が来ているように思います。

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データを入力しても、ちゃんと入らない

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2020年01月19日 | 社会派らぼ
陸上長距離競技で、次々と好記録が生まれていると言います。ナイキが発売しているという「ヴェイパーフライシリーズ」という厚底シューズが好記録の決め手だと言われます。何でも、履いてみると、姿勢が斜めになり、反発力が高いため、足を前に出すのが楽で疲れない…のだそうです。

新春の恒例箱根駅伝でも、出場選手の80%以上の選手が、このヴェイパーフライを使用しており、優勝記録もこれまでの大会記録を6分以上も更新したとの事です。

ランナーにとっては「夢」のようなこの厚底シューズを、世界陸連が禁止する見通しだとして論議を呼んでいます。東京オリンピック開催まで半年というところにあって、未だ方針が定まっていない事に、恐らくしのぎを削っている選手はイライラしているのではないでしょうか。

かつての水着「レーザーレーサー」騒動を思い起こさせます。レーザーレーサーと言うのは2008年北京オリンピック当時の話題だったでしょうか。着用するのに20分近くもかかると言われたように思い切り身体を締め付ける着用感で、水の抵抗を極限まで低下、世界記録が次々と塗り替えられました。国際水泳連盟は、身体全体を覆う水着はダメ、生地が分厚すぎるのもダメ…とかなり詳細な規定を定め、ルールに則った者しか公式大会に出場できないという措置が取られました。

今、現在「レーザーレーサー」はどうなったのでしょうか。機能の開発は続けられ、今ではルールの範囲内で当時の機能に近づくものになっている…やに聞き及びます。また、レーザーレーサー着用で出された記録も、当面破られないだろうと言われていたにも関わらず、上回る世界記録も生まれたようです。選手のたゆまぬ向上心は、一旦押し上げられた限界記録を乗り越えるほどの切磋琢磨を産んだと言えるのかもしれません。

古代オリンピア競技の時代、人の身体能力は、正真正銘「力」の差でした。速い者は速い。強い者は強い。非常に明快な世界だったはずです。が、時代は様々な科学を産み出しました。水着やシューズによって、記録に差が出るとあっては、不公平だという事になります。こうした物は、通常の物に比べて高価ですから、アスリートの世界も「金次第」といったあらぬ状況が生まれます。

…が恐らく、次々とルールを作って規制をしても、更にその上を行く科学が生まれます。「ドーピング」の世界も実は同じような気がします。ドーピングは不正行為なのですが、アスリート達が食事にも気を使い、少しでも筋力を上げ、疲れを取って体力の回復、温存に努めたいと思うその気持ちの延長上にある…と思うと、これもまた規制が難しい世界です。ドーピング検査では検出できない薬物が次々と開発され続けているはずですから。

アスリートにとって怪我は致命傷になります。が、そうした怪我でさえ、体内に補強材料を埋め込む手段にさえなりかねません。世の中には、絶対に公平で絶対に平等という状況を作り得ないのではないでしょうか。トップアスリート達の過酷な練習も、実は金銭力がなければ実現しないものでもあります。

原点に戻れないものでしょうか。オリンピックを平和の祭典と位置づけ、そこで金メダルを獲る事が、多くの選手の「夢」なのですが、鳴り物入りではやし立て、必要以上のステータスを与える事を回避し、昨日より今日が少しでも速く走れたら…素晴らしいという素朴な時代に戻れたらステキです。

AI

2020年01月10日 | 社会派らぼ
予備校や塾で、AIを活用した個別指導が注目されているそうです。最初は全員同じテスト問題を解き、その結果から次の学習内容が提案される…という仕組みになっているそうです。試行版を使った高校生からは「ピッタリの学習内容が推薦された」と驚きの声が上がったとも言われており、更に国公立大二次試験レベルのAI教材を開発中だそうです。

確かに、「◯◯が分かっていれば解けるけれど、◯◯が分かっていなければ解けない」というように吟味された問題を使えば、生徒が◯◯を理解しているか否かをふるい分けすることが可能です。○○が分からなければこの問題、分かっていればこの問題…という構築ができていれば、考えなくても次に取り組むべき適切な問題が出て来る…というものです。

大手予備校のように、在籍者が非常に多ければ、それも致し方が無いのかも知れませんが、何やらAI=万能のように思うのは、違っているのではないかと思ったりします。例えば、繰り上がりのある足し算の問題ができなかったとしたら、その子が「繰り上がりのある足し算ができない」という事は明白に判断できます。これはAIだろうが、人間だろうが、判断結果は変わりません。人手をかけずに短時間で判別できるのであれば、AIを使っても良いでしょう。

ですが、「繰り上がりのある足し算」が何故できないのか? どこが分かっていないのか? に関しては、AIでは分析ができません。そして、その子の性格も含めて、どう指導すればよいかは、なおさらAIでは見えてこないのではないかと思います。

教育…というものを、AIのプログラムにしてしまえば、全国どこでも均一な質の高い教育ができる…と考えるのは、多分間違っています。過日、小学生のパソコン授業を見学させていただいたことがあります。パソコンは、教師の負担を軽くするためにある物ではありません。機械が判別することのできない細やかな生徒の状態を把握して、適切な指導ができるのが良い先生です。

何やら、進んで行く方向に疑問が募ってきます。

You & I

2020年01月06日 | 社会派らぼ
令和二年が穏やかに明け、今日から「仕事始め」…という方は多いのではないでしょうか。年末年始は強烈な寒波に襲われるといった予報も目にしていたのですが、寒さはともかく、大雪や積雪などに悩まされる事も無かった滋賀県です。年々、一年が過ぎるのがどんどん早くなって行く感じがします。

日本では古来「歳の初め」のお正月を大変重んじて来ました。それに比べると、ヨーロッパなどのお正月は、日本ほどの「新たまった感」が希薄のような気がします。偏に「クリスマス」の方に重きが置かれるせいでしょうか。日本のお正月が醸し出す「新たなる始まり」は、もしかすると日本人特有の、これまでの○○、××はすべて水に流して、「0」に戻れる能天気さから来るのかも知れません。新年だからスッキリ初心に戻ろうとしても、世界は相も変わらず「これまで」を引きずってキナ臭く、建前がどんどん捨てられ、本音だけが剥き出しの世の中になりつつあります。

「建前」という言葉は否定的に使われる事が多く、「本音」でつき合う事が大切だとされます。そうした考え方は、ある意味一理あります。が、その結果が今の世界情勢だとしたら、本心は奥底に隠して表面上うまくつき合うという「大人の対応」がもっと見直されるべきかも知れません。

年賀状を止める選択をされる方も増えているようです。今では、メールやライン・SNSなど、瞬時に多くの人の間を駆け巡る連絡ツールが山ほどありますから、郵便しかなかった時代とは異なります。虚礼などと言われますから、合理的な選択も良いと思います。「今年で年賀状をやめます」といったご挨拶状を送るのを「年賀状じまい」などと呼ぶらしいのですが、年頭から「縁切り」のようなメッセージは不愉快だという方もおられるようです。こうした選択はあくまで個々人がそれぞれにするもので、他者の選択をあれこれ批評する事は別物ではないでしょうか。

随分以前に、既に「来年から年賀状をやめます」というご挨拶状をいただいた方があります。止めようと思われた経緯は知りませんが、恐らく非常にたくさんの方からご挨拶状をいただかれているような方だったので、単純に大変なのだろうなと想像しました。その方の出す/出さないは、その方が決めることですが、私の出す/出さないは、私が決めれば良いのではないかと考え、翌年こちらからのご挨拶を差し上げたところ「もう止めたので、ご理解ください」といった趣旨のご挨拶をいただきました。こちらから差し上げるご連絡も、止めて欲しいと思われていたようです。

私たちの普段の行いには、主語があります。「I」つまり私が主語になる事と、「You」つまりあなたが主語になる事とがあります。Iについては自分自身が決めれば良いだけですが、「You」を縛ることはしてはならないと考えます。「I」を正しくシッカリ確立する事は大切なのですが、「You」を尊重する事ができない世の中というのは、あまりにも稚拙です。

自分が「正しい」と思っていることが、いつどこにおいても「正しい」とは限りません。それぞれの見識で「You」を否定しない「I」でありたいと思います。