ぱそらぼ (ぱぁと1)

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知床の海

2022年04月29日 | 社会派らぼ
知床半島沖で、26人が乗船していた観光船が遭難した事故からほぼ1週間が経ちます。ほぼ半数は遺体で見つかりましたが、今なお行方不明の方々もおられ、懸命の捜索が続けられています。水深100mの海底に、沈んだ船体が発見され、船名が確認されました。事業所のずさんな営業実態も明らかになりつつあり、今後は行方不明者捜索の続行と共に、原因究明や責任の所在が追及されることになるようです。なかなかシビアな状況のようで、関係者の祈るような思いが、万に一つの奇跡を生んで欲しいと、誰しもが願っています。

「知床旅情」を歌う加藤登紀子氏は、事故の正しい解明が必要だと語っています。海から見る知床半島は本当に素晴らしく、この観光プランが中止されてしまうようなことにならないようにと願っていますとコメントをされているようです。知床半島には、多様な野生動物が生息しており、ヒグマやオジロワシ、イルカなど自然の中で暮らす彼らを間近に見ることができると、大変人気の観光コースのようです。

鬱蒼と樹木が茂り、鋭利な奇岩がごろごろし、ヒグマに出遭う危険性も高いなど、陸づたいに行くことができない場所を、海上から危険なく近づくことができる…と、知床観光は大変人気が高いようです。が、ふと立ち止まって考えると、手付かずの自然に触れに行く私たちの必然性は何なのでしょうか。手付かずの自然を安易に見に行く必要は果たしてあるのかという根本的な問題に行き当たります。

昨年、前澤友作氏が、日本人初の民間宇宙旅行として、国際宇宙ステーションに滞在しましたが、世論はイマイチ盛り上がりませんでした。お金さえ払えば誰でも行けるもので、いわゆる「金持ちの道楽」と切り捨てる論が多かったようです。結局のところ、観光というものの原点はその程度の人間の驕りなのかもしれません。観光業を主要産業と位置付ける国や県も少なくありません。外から受け容れた観光客の消費行動は大きな経済効果をもたらします。観光は日本を支える大きな経済活動です。

自然は、人間の営みを超えたところに存在しており、たまたま触れることでその美しさを知ることは大切ではあるでしょうし、敢えて訪ねてその懐の深さを知ることも貴重な経験に違いはありません。が、その厳しさや怖さを私たちは忘れてはならない事なのだと改めて思います。今の人間の営みは、とおに自然から逸脱し、「人ありき」のある意味驕りの世界を築き上げて来ました。かつては自然の一部であったはずの人間も、今は自然を傷つけ破壊する側の役割になってしまったような気がします。

動物園に行けば、様々な動物の生態を見ることはできます。飼育されている動物たちも、獲物を確保する必要が無くなり、敵と戦う必要が無くなり、平和に暮らせているのかと一見思いますが、小さな囲いの中に閉じ込めて、広い自然を奪うのは人間の驕りでしかありません。でもその動物園に対する、ある種の罪悪感を、私たちはもう感じなくなりました。

お金を払って自然を垣間見るツアーに、罪悪感を持つ必要は本当に無いのでしょうか。

穏やかに、本当にささやかに、小さな旅を楽しんでおられた方々の無念さを思うと、本当に苦しくなります。

未来

2022年04月23日 | 社会派らぼ
新型コロナウイルス対策として、国から困窮世帯に10万円が給付される特別給付金を、山口県阿武町が誤って463世帯分を1世帯の口座に全額振り込んでしまう…というとんでもないミスが発覚しました。4630万円が振り込まれた住民には返却の意思が無いということで、物議をかもしています。町は住民からの返却手続きを進めようとしたものの、「元に戻せない」と返却を拒み、連絡がつかなくなり、回収に支障をきたしているとの事。かと思えば、青森県ではホテルに宿泊しながら生活保護費の住宅扶助約1400万円をだまし取ったとして問題になっていますが、こちらもだまし取るつもりはなかったと主張している事案も発生しています。3人家族に対する1か月の住宅扶助支給の上限額は4万円と定められているにも関わらず、高齢の父親がいるので身動きが取れないとして、ホテル暮らしを2年8か月続けたための1440万円だとか。

4630万円という大きな額の金額を振り込んでしまう…というのは考えにくい失態ですし、それを未然に止めることのできる仕組みが二重にも三重にもあって当然ではないかという気がします。生活保護を受けながらホテル暮らしが認められる…というのも、おかしな話です。市職員の間では担当者を怒鳴りつけるなどのハードクレーマーとして有名だったという事ですが、大声で怒鳴れば要求が通る…という事自体がおかしいはずです。

絶対にミスをしない…と言える人はおそらくいないと思います。クレーマーに対しても一人では太刀打ちできない可能性はあるでしょう。一方で職務はそれぞれが役割を分担しているはずです。…が、個人事務所でもない限り(個人事務所であったとしても、従業員は数名はいるかもしれません)、仕事はたった一人が全責任を負わねばならないようなやり方でなく、チェック体制があって然るべきなのに、何がどうすり抜けていったのでしょうか。どういう罪状に問えるのか…は分かりませんが、誰が考えてもおかしいと思う事が、するりとシステムを潜り抜けてしまう世の中はやはりおかしいと感じます。

お金が生まれる前の社会は物々交換で成り立っていた…と言われます。物々交換では、自分の持っている物を欲しくない相手とは交換することができないので、いつしか物品交換をするようになり、当初は布・塩・貝・砂金など比較的価値が下がりにくい物品と欲しいものを交換するようになり、それらの物品が「お金」に変わったというのが現代でしょうか。今の貨幣制度では、何もかもが「お金」に置き換えられています。住居を確保するまでの間、住宅扶助費をお金で支払うのでなく、定めた施設に住まわせるなどのやり方に変えることはできないのでしょうか。コロナ給付金も、現金が一番楽だし喜ばれるから現金なのでしょうけれど、もっと違った形で生活をサポートすることはできないのでしょうか。現実に行われた水道料金の減免などもその一つの方策かと思います。

何より、子ども達が未来に描くものが枯渇しています。コロナで友達や家族との生活が制約を受け、しゃべってはいけない空間、触れ合ってはいけない生活が続き、遠い空では爆撃の戦火が絶えません。将来はユーチューバーにでもなって、面白おかしくお金を稼いで、暮らしたいというのを夢だと語られても、未来が明るく輝いているとは思えません。

千羽鶴

2022年04月20日 | 社会派らぼ
ウクライナでの戦火に心を痛める人がたくさんいます。何かをしたいし、何かをすべきなのだろうけれど、何をして良いのかわからない、もしくは何もできない現実を知る…という人も多いと思います。

岐阜県の神主の方が「なんらかの形で意思表明をしなければ…」と折り鶴を折ってSNSに発信するといった抗議活動を行いました。その活動を継続し、1000羽が折りあがったらウクライナ大使館に送る計画を進めていたところ、そうした報道を目にした人たちから「千羽鶴を送るのは迷惑ではないか」といった指摘が多くあり、結果大使館への寄贈は断念したと報じられました。完成した千羽鶴は、神社の傍ら経営する古民家を改装した宿に飾って、ウクライナ問題を考えるきっかけにしたいとの事です。折り鶴なんて意味がない、迷惑なだけ、送るならお金を送れ…など、寄せられた声に、日本の文化が持っている大切なことが、必要以上に蔑まれているとの感想も。

一方ひろゆき氏は「無駄な行為をして、良いことをした気分になるのは恥ずかしい」、堀江貴文氏も「ぜひやめていただきたい。なんなら『お金を送りなさい』」と述べています。大きな地震に見舞われた地域にも、千羽鶴が送られることは多く、寄せ書きなどと共に迷惑なモノの一つとされており、送らないでと言われているようです。心がこもっているだけに、処分しづらく、迷惑なだけだと。実際、被災した方たちからすれば、生きるために最低限必要なすぐ使えるモノが欲しく、避難所に千羽鶴があったかどうかも分からないというのが本音のようです。

何もできないから、せめて心を込めて鶴を折って…と思いを託す人たちからは、人の気持ちを踏みにじる発言のように聞こえるかもしれません。が実際人は、自分が経験をしたこともない事には、想像力を働かせる余地があまりありません。生きるか死ぬか、銃弾を突き付けられる経験をしたことが無い我々には、かの地の人に想いを馳せる事は出来ても、その心が届けられると勘違いしない方が良いのではないでしょうか。

古の時代から日本人が1枚の紙に込めた想いの深さは、相手がもっと平時にあって伝えなければ意味がありません。心に余裕が無ければ、受け取る事が出来ないものだってあるのです。心を込めて1枚1枚折るのであれば、それは自分たちの手元に飾っておけばよい。いずれかの地に穏やかな日常が流れるようになった時に、そっと神社にでも奉納すればよいのではないでしょうか。

経験したことがない事を想像することは難しい事ではありますが、想像するだけでなく併せて状況を「考える」事も必要なのだろうと思います。SNSが普及して、発信することが容易になりました。考え方は人それぞれで、自由です。ですがSNSの普及と共に、人は「自分の考え方を」人に押し付けるようになった気もします。「発信」と「押しつけ」は異なります。自分自身の考え方をハッキリ持って表現することは悪い事ではありませんが、それを他人に強要して押し付けるのは違います。

今は、自分たちの無力をかみしめるしか術は無いのかもしれません。

2022年04月17日 | 社会派らぼ
このところ、ネットニュースの上位にはいつも「ロシア」「ウクライナ」関連の記事が並びます。現実にこの世界で、銃弾が飛び交っているのかと思うと心が痛みます。残念ながら、地域的な紛争はこれまでからもそこここで止む事はありませんでした。ですが、今回の「ロシア」侵攻は、中国や北朝鮮をも視野に入れて、改めて「力」に秀でている者こそが世の中を支配するに足る存在であるという「力の論理」を主張しているところが、時代に逆行する不気味さを示します。

今回のロシアの振る舞いは、無抵抗な市民を巻き込む「犯罪」であると非難の声が上がっています。ルールを無視したそのやり方を、世界中の多くの国が断罪しています。ロシアも「それのどこが悪い」といった論調でなく、事実そのものがねじまげられている…と主張しています。そのような犯罪行為は決して行っていないというのが、ロシアの言い分です。

翻って、だいたい「戦争」そのものが犯罪なのではないかと感じています。ルールがあってその範囲内で競うのであれば、それはきっと「スポーツ」ではないでしょうか。戦争そのものには、ルールなど存在する余地がありません。自国が攻める場合は、一般市民を巻き込んではならない、病院などの施設を攻撃してはならない…など、自分たちを正当化するためのルールは作れるでしょうけれど、ルール下での話し合いではらちが明かない…からと攻め込まれた場合、ルールが云々と求める余地は最初から存在しないような気がします。戦争とは、それほど野蛮なものなのだと認識すべきです。

このような行動は裁かれるべきだ…と、西側諸国が声を揃えています。が、戦争というのは、勝った側の論理で事が進むものですから、ロシアの行為が裁かれる前提にはロシアが戦争に負けるということが必要になって来ます。戦争のような無益な野蛮な事で力を誇示し合うのを避けるために、スポーツが生まれて来たと考えるのは暴論でしょうか。ルールを作ってそのルール下で力を競い合って、相手を倒すことによって、力の誇示が正当化されます。傷つけられて命を落とす者はありません。古代オリンピア競技は、慢性的な戦争状態にあったギリシア圏のポリス(小国家)の実戦を休戦させるためのものだったのかも。。。

ロシアは「ドーピング」スキャンダルで、オリンピックから締め出されていました。2016年のリオデジャネイロ五輪では、陸上や重量挙げなど有力選手を含む100人以上が出場禁止となり、パラリンピックではロシア選手団が全面的に参加停止という事態になりました。東京オリンピックでは、ロシアでなくロシアオリンピック委員会として、出場しています。ルール下で正当に力を誇示する機会さえ奪われていたロシアが鬱屈した思いを抱えていたと考えても不思議ではありません。それならルールなど無視すればよい…というのが、今回の戦争でしょうか。

17世紀のフランスの哲学者パスカルは「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」という言葉を残しています。ゆえに正義と力は平行しなければならない…と。人間はその時代から何一つ進歩していないのだと思います。海を隔ててロシアと中国と北朝鮮が構えている日本の国が、この「力の論理」が台頭しつつある時代を潜り抜けていけるでしょうか。

情報の偏り

2022年04月13日 | 社会派らぼ
現代は「情報化社会」だと言われます。昔は、調べ物をする…と言えば図書館の資料を調べるのが定番。最近は書棚の肥やしと化していますが、百科事典というのも定番でしたっけ。インターネットが当たり前の今の子どもたちには考えられない事だと思います。

「ググる」といった言葉も生まれ、ネット検索が日常のツールとなりましたが、近い将来「ググる」自体も過去の産物になりそうな気配も。最近の調べもの…には、音声検索がよく使われるようになってきました。要は、調べたいことをそのままデバイスに向かって語りかけるだけ。たくさんの音声検索エンジンが開発され、「Hey Siri」「OK Google」といった呼びかけの言葉も、新鮮に聞こえなくなりました。AI音声アシスタントもその奥では検索エンジンを使っているはず(だと思います)ですが、Google Assistant以外は、マイクロソフトのbingを採用しているものが多いとも聞きます。「ググる」と言わずに「ビングる」とでも? 何しろ日進月歩の時代です。

検索エンジンの話はともかく、私たちはこんな風に手軽に何でも検索できる時代に生きており、手軽にとてつもなく大量の情報を手に入れることができるようになりました。著名な専門家の話はもちろん、世の中であまり知られていない裏話だって山のように手に入ります。では、現代人は情報通になったのかと言うと、むしろ情報が偏って情報不足になっている側面も感じます。

時折、言っていますが、我が家にはテレビがありません。特段「テレビを止める」と一大決心をしたわけではありません。2011年にテレビ放送がアナログから地上デジタル放送に完全移行しましたが、その際対応のテレビを買いに走るのをチョット控えただけです。人がこぞって買いに走っている時でなく、またゆっくりとと思っているうちに、テレビの無い生活に何の不便も感じていない事に気づいただけです。以来、ニュースは新聞やネットニュースに頼って来ましたが、実際さほど世の中に遅れていると実感することもありません。むしろネットニュースは即時性に優れていますので、他の人より情報が速い場合だって多々あります。

それでもネットニュースは、自分の興味のあるなしに左右されることが多い事を実感しています。ネット上では大きなニュースも小さなニュースもさして変わらない扱いで並びます。もちろん上位にあるか下位にあるかといった違いはありますが、見出しの文言と簡単な要約を読んで、興味が無ければそれ以上リンクをたどって詳細な情報を読もうとはしません。新聞も大きく割かれた紙面の文章を読まなければ内容の詳細を知ることはありません。その点、テレビのニュースは興味があろうとなかろうと、一方的に情報がアナウンスされて来ます。聞いているか聞いていないかといった事を抜きにすれば、発信側のすべての情報が届くことになります。

平生のニュースすらそうですから、様々な事象に関する情報を目にしたとき、それを「信じる」か「信じない」かで以降の情報取得に大きな影響が生じます。フェイクニュースを流しているサイトに興味を持って「こんな事が世の中で起きているんだ」と頭にインプットされてしまえば、その後は逆のことを目にしても「まだこんな風にしか理解していない人が多いんだ」とばかり、情報はその真偽を確かめなければダメなんだよとしたり顔に周りに広めるかもしれません。同様の虚偽の内容ばかりにアンテナを立てて情報を仕入れていけば、非常に危うい偏った状況が生まれてしまいます。

加えて昨今はコロナ禍にあり、人と接する機会が激減しています。最低限必要な仕事を対面で済ませる以外は、ひたすら自分のルーティンの中に居るというのが大半の社会人の仕事の仕方になってしまいました。それはある意味、合理的で無駄がなく、思い通りに仕事を進めることが可能で、快適な仕事の仕方だという側面を持ちます。コロナ後もこのままで良いと考える人も多いに違いありません。食事も「いつものメンバー」以外とはしなくなっていますから、考え方を思い切りひっくり返される場面というのが激減してしまっているかもしれません。

○○大学の○○先生が言っているから正しいとは限りません。合成写真がいくらでも作れる世の中ですから、写真や映像があるから真実とは限りません。ロシアの言っていることが正しいのか、ウクライナが言っていることが正しいのか、大半の人たちは自分の天秤にかけて事の真偽を判断しています。どこまでが事実なのか、どこからが虚偽なのか、難しい時代に私たちはいるような気がします。

情報化社会だからこそ、溢れるような情報の海の中で自分のアンテナだけを頼りに情報を選択しているからこそ、私たちはどんどん偏っていく可能性があるような気がします。情報化社会の弊害かも知れません。

2022年04月03日 | 命の生き方
命より大切なものはありません。

では今海の彼方で砲弾が飛び交う中、敢えて祖国に留まり身を呈して国を守ろうとしている人は、その何よりも優先されるべき命を投げ出して、何を守ろうとしていると考えれば良いのでしょうか。それはまさに、命よりも優先すべき事が、この世の中には存在することを、まざまざと証明しています。

学校教育では「命の大切さ」を実感させることに、重きが置かれています。まずは自分の存在そのものを価値あるものとして認めることができなければなりません。生きていることの素晴らしさを感じなければなりません。そして、自分の命と同様に、他人の命が大切にされなければならないという事を、繰り返し教えていかねばなりません。壮絶ないじめや凶悪な犯罪が起こる度に、改めて背筋を伸ばし、一層声を大にして「命」の教育が叫ばれます。

「生きていること」それ自体が、それだけで素晴らしいのです。それなら、他国に占領されようと、自由を奪われようと、命を大切に考えれば良いのではないか…という暴論が成り立ちます。でも現実はそうでは無いことを、私たちは彼の国から学びます。

ただ単に「命を大切にしましょう」「自分を大切にしましょう」と唱える事とは違った視点から、私たちは考えなければならないのではないでしょうか。命を大切にして「何を」すべきなのか。「何のために」命は燃やすべきなのか。つまり、どう生きるべきなのか。自分の理想とする生き方は、どういう事なのか。そういう問いかけが必要なのではないでしょうか。「自分を大切にする」「自分を活かす」というのは、一体どういうことなのか。

「人は何のために生きるのか」。かつては永遠のテーマであったはずの事が、今は掘り下げられなくなったような気がします。「生きているだけで素晴らしい」のだという理論にいつの間にかすり替わっていて、自分軸ばかりが重んじられる場面にいくつも遭遇します。軸は自分の中…というよりも、もっと遠い彼方の一点から引っぱられている…そんな気がします。

君は何のために生きるのですか。あなたはどのように生きたいのですか。人はどうあるべきなのですか。それぞれが心に刻んで生きなければならないのではないでしょうか。どんな人でも、明日命が終わりを迎える可能性はゼロではありません。