ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

明日

2015年12月31日 | 命の生き方
子どものころの1年はトテモ長くて、お正月が来るのをワクワク待った記憶があります。私もそれなりに(笑)素直な子どもでしたから。長じるにつれて、1年が経つのがとてつもなく速く感じるようになりました。本当に「あっ」という間に1年が過ぎてしまいます。

…ということで、今年も1年が終わろうとしています。世の中はそれなりに、悪いことも、そしてキット良いことも山のようにあって、「明日はもっと良い日でありますように」の願いに溢れています。

今年は私的なことでバタバタし、周囲の方々にご迷惑をおかけしお世話になりました。多くの方に助けていただきながら…の1年であったように思います。こんなところからで申し訳ありませんが、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。引き続き、私的なバタバタが続いていますので、まだまだお世話になるばかりではありますが、どうぞよろしくお願い申しあげます。

人は、自分の意思で生まれたわけではなく、気がついた時には既に世の中に存在していました。どうあがこうと、他人を寄せ付けずにたった一人で生きていくことなどできるわけではありません。にも関わらず、「自分は」「自分は」…と、常に主語が自分にあるように錯覚しています。自分の意思を持つことは大切です。自分は何のために生まれ、何をすべきなのかを模索することも大切です。

それでも、人は究極「自分」のためにだけは生きられません。私はそう思うのです。「自分」(時には、他者を自分の延長として)のみを愛して全うしようとしても、人は幸せにはなれない。目指すものはどこまで行っても、手には入りません。誰かのために生きるつもりもありません。仮に、そうだとするならば、相手にとってこれ以上の迷惑はないでしょうから。

自分にできること…を、ただ淡々と黙々と実現すること…でしょうか。何がしたいかとか、何ができるかとかでなく、すべきことをただ一つ一つ重ねることでしか無いような気がします。

今年も多くの方に支えられての日々になるかと思いますが、その一つ一つに感謝して、すべきことを重ねていく事でしか、その「先」は見えて来ない気がします。それは「夢」なのではなく、「目標」などでもなく、ただ地道な「明日」でしかありませんが、何より大切な「明日」だと思っています。明日はもっと良い日でありますように。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

育児休暇

2015年12月25日 | 社会派らぼ
国会議員同士の夫婦の妊娠・出産を巡って、議論が起こっています。国会議員は「特別公務員」という立場にあるそうで、通常の労働基準法の枠外にあるそうです。議員の出産については、日数を定めてあらかじめ議長に欠席届を提出することができる…と、衆議院規則に定められており、過去にもこの制度を利用していわゆる産休をとった女性議員は10名近くおられるらしいです。ただし、今回物議をかもしているのは、出産をする女性議員でなく、パートナーの男性議員が「育休」をとると宣言をしたことにあります。

当然の権利だと、後押しする声もあれば、休んでも給与が全額保証されている議員が休暇をとること自体に難色を示す声も多く聞かれます。これまで、自治体の長である知事や市町が育休をとるケースがチョコチョコと聞かれるようになり、マスコミは全般に好意の報道をしている感がありますが、それぞれのケースに寄せられている民意の8割以上は反対意見なのだそうです。こうした行動への賛成派の大概は「世の中で男性の育休取得が進まない状況を打破するきっかけ」になれば…といった点を強調しているかに思います。

今回の国会議員夫婦の件についても、当初の報道は決して悪意を感じるものでなく、現在の議員法には記載が無いことから、男性議員は「勉強会」を開いていきたいとも意気込んでおられるようでした。中には「育児休暇を取ることが、いいことである…とする考え方そのものを辛辣に批判する声すらあり、思いの他、反対意見が多かった事で、今後の対処を考えておられるのではないでしょうか。

どんなに「男女平等」の考え方が浸透したとしても、「産む性」と「そうでない性」という違いが無くなることはありません。つまり「権利の平等」というのは、「まったく同じ」であるということを目指してはいないはずなのです。もともと、男性の「育休」そのものが、必要なのか?を考えるとき、必要な休暇は産まれた後の数か月に限定されるものではないような気がします。労働意識そのものが少しずつ変化してきており、有給休暇など目もくれずに働いた時代もありましたが、今ではある程度私的な理由であっても、上手に有給を活用する人たちが増えています。すでに、このような休暇を利用して、妊娠中のサポートに充てている男性も数多くおられるようですが、それらの延長で十分であるように思います。夫婦が助け合って、子育てをしていく過程の中では、出産直後のみでなく、様々な場面で母親以外の手が必要になります。妊娠中を含め、長い子育て期間の中で、随時必要な休暇が申請でき、また支障なく休暇が取れるような体制が望まれます。長期にわたり生まれた直後の子どもの傍らで過ごしたいと思う男性の気持ちは当然の事と思う反面、過ごしたいから過ごすのが権利かというと、それは少し違うような気もします。

どんな仕組みが子育てには必要であるかを、根本的に見直す必要がありはしませんでしょうか。



仮想デスクトップ

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言葉

2015年12月24日 | 社会派らぼ
携帯端末を使って、掲示板やSNSに投稿した人の27%は、「悪意のある投稿」をしたことがあるという調査結果が出ています。この27%は前年と比べ、ほぼ横ばいなのだそうですが、10代では42%が「悪意ある投稿」をしたと回答しています。前年調査が30%だそうですから、一気に12%の増加ということになります。(その分、他世代は減少したということになりますか。)

他人や企業の悪口、下品な言葉を使っての悪意を認めた人がこれだけいるということは、調査には反映されていない数を考えると、実にたくさんの若者がネット上で「憂さ晴らし」をしていることになります。投稿の理由には、もちろん「人の意見に反論したかった」との回答が一番多いのですが、「いらいらした」という理由を挙げた人が2番目に多かった…というのは、何かを示唆しているような気がしてなりません。

まず「モノの言える社会と時代」には感謝すべきであると思います。検閲などが厳しくて、自由な発言ができない国がまだまだある事を考えると、何を言ってもよいという自由は、恵まれた自由であるといえるでしょう。ただ、それが単にイライラして品性の下がるモノ言いをしているだけとなると問題です。

自分の考えを述べることは悪いことではありませんが、言葉はその言い方で「生き死に」が変わるものでもあります。他人を罵倒する言葉は一見強い言葉のように勘違いをしますが、実はそうした言葉には本当の力はありません。人を動かすことができるのは、もっと「魂」のこもった言葉で、そのような言葉を紡ぐ勉強をする機会を持たないのが現状です。

言葉というのは、自分の感情を表現するものでもありますが、感情を露呈しても、真意は伝わりません。言葉は、人に理解されるように、人の心を動かすように使うべきなのです。感情をそのままぶつけると、自分でも言葉の制御ができなくなってしまう場合があります。心の中にため込むことだけが良いとは言いませんが、言葉はきちんと整理して明快に使われなければなりません。何より、人の気持ちに届くように使わなければなりません。

ネットという言わば、片方向の発信に慣れて、ただ自分の感情の発露の場に使っていると、たぶん人は語る言葉を育てられなくなるような気がします。



Windows10へのアップグレード

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決定

2015年12月23日 | 雑談
総工費が恐ろしく突出し過ぎるという指摘を受けて、一旦定まっていた新国立競技場整備が仕切り直しとなっていました。当初予定された1300億円を、大きく上回る3000億円といった金額に、世論は大きく反対しました。改めてA案、B案とされる2案が浮上していましたが、審査委員の採点により、僅差でA案が採用されました。いくつかの項目に分けての採点では、9項目中5項目でB案が勝っていたにも関わらず「工期短縮」といった面でのA案評価が大きく、最終的な結果に至った…との経緯も発表されています。

最終的に、物事を「決める」には、常に英断が要ります。圧倒的に差がある場合は別ですが、そうでなければ点数化して総合点で判断する以外に誰しもを納得させる公平な方法がありません。フィギュアスケートや体操競技などではじき出される得点も結局はそうで、個人の主観に負うところが大きい分野では、公平性を保つ唯一の方法と思われています。でなければ、判断を唯一の主観に委ねてしまうしかありません。たった一人の主観に委ねる方法は明快ですが、総評論家時代には合いません。…の上での点数決着に至ります。勿論、点数決着に至る以前には十分なディスカッションが必要ですが、当節は、主張ばかりでディスカッションが下手ですから、集計に頼らざるを得ないのかも知れません。

本来は、最初のザハ氏のデザインが要件を満たしている事が望ましかったのだと思います。が、ここに至っては、皆でA案を実現することが不可欠と思えてくるのですが、残念ながらザハ事務所は「自分たちのデザインと驚くほど似ている」というコメントを発表しています。また、最終的に敗れたB案の設計者は、今回の決定を「解せない」と評していると言います。ザハ氏のデザインに元々、組織委員長でもある森喜朗氏が「外見だけならB案」との発言をしていたようで、この発言が却ってB案反対に繋がったとの見方まで取りざたされています。またB案の伊東豊雄氏はザハ氏から訴えられるかもしれないと懸念を表明しているそうです。

決定というのは、常に公平ではあり得ません。選ばれるにはゆるぎない実力に加えて、相当の運も必要です。その上で、運が無かった事を無様に悔いてはいけません。世の中がしたり顔にあれやこれや言っても、当の本人はA案を讃えていただければ良かったのに…と思います。加えて、いつもの事ながら森氏はどうも勘違いをしておられます。世間は森氏の感性や判断に興味などありません。




グラフタイトルに2つのセルのデータを反映させたい

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キット違うと思う

2015年12月22日 | 命の生き方
人の環境は千差万別で、それぞれ皆自分の置かれた環境の事しか知らずに、日々を送っています。自分たちの知らない世界が、世の中には広く広がっていることを、私たちは十二分に知っているツモリでいます。何しろ、世界地図を広げてみれば、日本という国は小さくて細長く、中東やヨーロッパ、そしてアフリカ大陸へ、南極大陸へ。私たちの知らない国は山ほどありますし、それらの知らない国では知らない言葉で知らない習慣で知らない人々が当たり前のように毎日を送っているわけです。まして、地球から飛び出して行こうものなら、何万光年の宇宙の果てに、どんな世界が広がっているのか、想像すらつきません。

…ということは、誰でも知っているのです。私たちの身近な環境が、どこに行っても常識として通るわけでは無い事を。自分たちの知識は狭く、浅く、「知っている」というほどのモノすら持っていないのが自分たちの現実である事を。

でも、身の周りの事では、全てをわきまえているかのような錯覚を持っています。少なくとも、自分の暮らす小さな範囲の中では、自分がよもや間違っていたり、偏っていたりするなどとは思ってもいない…のが現実です。世の中の「様々」をも承知した上で、それでも自分の感じていることは正しいのだと、微塵も疑うところがありません。

だから、「いや、実際はそうでは無いんです」といくら説明をしてみても、常識で測る以上の世界を想像することなどできない場合があるのです。それは、皆同じなのですが、せめて「そうでは無いんです」と言われた時くらい、信じ込んでいる常識が、もしかすると間違っているのかも知れないと、一瞬謙虚になってみても良いのではないでしょうか。

あなたの知っていることが世の中の全てではありません。あなたの感じる常識が、全ての人に通用する常識なのではありません。自分の信じる世界があるという事は、多分良い事ではあるのですが、独りよがりになってはいないか、偏った世界観の中で、傍から見ると歪んだものの見方をしてはいないかと、自らを省みることを忘れてはならないと思うことしきりです。



画像を貼り付けても、画面に表示されない

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美しいモノ

2015年12月19日 | 雑談
世の中の大半の事には「正しい答」があるとは限らない…と、私たちは理解はしています。でも、自分の理解している事、自分に見えている事、自分の感じている事は、間違っているはずがないと、ツイ肩入れしてしまうのも現実です。まるで「強い」ことは「正しい」ことであるかのような錯覚に陥っている人や国は、随分な数に上りますが、それは決して「正しい」ことの定義になりはしません。

本当に「正しい」ことというのは「美しい」のではないかと、私は思っています。「美しい」という言葉自体は、大変主観的な言葉で、これまた「美」の基準自体も曖昧なものでしかありません。時代によって「美女」の定義が違うことを考えてみれば、「美しい」が如何に曖昧かが良く分かります。

そんな基準によってコロコロ変わる美しさではなく、いつどんな時代であっても、誰であっても、「美しい」ものこそが、キット「正しい」と、そんな風に思います。




コメントのリンクの張り方

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120%

2015年12月18日 | 命の生き方
橋下大阪市長は、任期満了で市長を退任されました。市役所の退任会見では「これ以上やれと言っても無理。持てる力はすべて出し切った。」と述べたとか。多分、それが本心なのでしょうから、最後であるのでしょうが、好感が持ったのは事実です。

大体…政治家と言うのは(こういうくくりで、否定的にとらえてしまっている事自体、一生懸命な政治家さんには申し訳ないとは思いますが、実際はそうした政治屋さんがかなり多いのが現実ではないか…と。)、職業にしがみつくことの方が大切で、「仕事はまだできる! もっとできる!」というのが通例で、「これ以上はできない」などというものではありません。彼には、弁護士という職業があるから…できるのだと、他の先生方は言われると思います。他に収入を得る手段が無いとなると、現職にこだらざるを得ないのは仕方のない事だと。

政治家という仕事に限らず、全身全霊全力で仕事をする…という熱血タイプは、最近はやりません。良い結果が出なかった時に、いやぁ実は本気では無かった…、実力はこんなものじゃないんだ…という言い訳が欲しいから? アスリートにはそんな風な弁解が許されない分、爽やかさが際立つのかも知れません。

自分の120%で仕事をする…と、私は決めています(笑)。但し、「これ以上はできない」というレベルでは多分ありません。オーバーワークにならないような自己管理も大切で、なかなか「これ以上は…」に至らない理由かも知れません。自身を知る…というのは、至難の業で、「これ以上は…」と発言した橋下氏は自己コントロールが秀逸な方だと思います。お疲れ様でした。




線種の一部変更ができない

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メール

2015年12月15日 | ぱそこん道
昨夜、一通のメールが届きました。メールは、最初から数種のフォルダーに分けて受信するように設定していますので、その一通のメールは「受講生」というフォルダーに届きました。パソコンに関してのご質問が書かれていました。

S氏は今から13年前、パソコンの講座をご一緒しました。修了された後も、本当に時折、こうしてパソコンのご質問が舞い込みます。それは、お仕事に関するもので、このような処理をしたいのだけれど、パソコンで可能ですか? どのように処理をすれば良いですがか? 自分はこのような処理を考えたのだけれどもっと良い方法はありますか? といったものです。勿論(!)、このようなご質問は大歓迎ですので、嬉々として返信します。時には、返信をするのに数日を要する場合があります。(なかなかの難問をくださるもので…笑)

講座というのは、たかだか短い期間のお付き合いです。短ければ数時間、長くても3か月間といった設定で、皆さんと私の出会いは、本当の偶然以外の何物でもありません。講座終了後は、その方にとって、どれほど講座がお役に立ったかは、知る由もありません。大半の方にとっては、講座への参加は本当に一時的のもので、S氏のように講座後もお手伝いが可能になるケースは稀有です。でも、私にとってそれは理想に近い形のように思えます。

S氏は私からの返信に、再度ご連絡をくださいました。生きている中には、幾つかの分岐点があるとは思うけれど、講座に通ったことは、大きな分岐点であった、私との縁は大きな財産となった…そこにはそうしたたまれていました。何とか冥利に尽きるメールでした。これだけでも、私の24年間は報われたとそう思えます。



縦?折れ線グラフを作りたい

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検定試験

2015年12月13日 | ぱそこん道
今どき、パソコンなど誰しもが使います。たまたまパソコンに触れる機会が多かったり、特別興味を持ったような人は、そこそこ詳しくなりますし、そうでもなければ一通り使えればそれでいい…となります。いずれにしても、その方の要求度合いを技量がカバーできていれば、それで良いのだと思います。所詮は、道具です。多少良く分からなくても、大概の場合は何とかしのぐことができるし、出たところ勝負で何とでもなるものだと豪語できるのは、自信の表れでしょう。実際、パソコンだけに関わらず、世の中の仕組みはどんどんと複雑になって行っていて、まっすぐな道筋しかないわけでなく、あちこちからのルートを、ただ漠然と何となく操る時代に突入しているような気がしてきます。SNSの使い方などその最たるもので、何となく感覚で使いこなすというのが正解なのかも知れないと思ったりします。

狭い部屋に緊張した時間が流れていました。カチャカチャというキーボードを操る音が部屋に響き、押し寄せる戸惑いや焦りをこらえて、懸命に課題に取り組む姿がありました。実は、今日はパソコンの検定試験があって、試験委員として部屋に入っていたのです。パソコンは世の中の一つの道具として認められており、上述したようにただ何となく使っている人がトテモ多いのですが、ストイックにその使い方を追求しようとしている彼らの姿が好きです。

定められた時間内に、要求された解答を作り上げようとするなら、動きに無駄は許されません。最短の方法で、結果にたどり着かなければならないわけで、試行錯誤をしている時間のゆとりなどありません。必然的に、無駄をそぎ落とした「技」を目指す意気込みがそこにはあります。本当に理にかなったモノは必ず美しい。私自身はそう考えています。美しくなければ本物では無い…のかも知れません。より複雑になって行く世の中では、何事であれ「強」「剛」「大」「多」が他を圧していくルールがあるように見えますが、実は本当はそうではなくて、美しいモノこそが他を圧する力を持っているのかも知れません。

美しくあろうとするパソコンが、私は好きです。


表内に図を挿入すると、表内文字が移動してしまう

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データの逆襲

2015年12月12日 | 社会派らぼ
関西大で、全学生とその保証人約6万人分の個人情報が格納されたUSBメモリーが紛失しました。発表によりますと、学費収納業務の委託業者と、データをやり取りした際に紛失したようで、職員が誤って廃棄した可能性が高いとか。何ともお粗末です。が、どの職場でも十分あり得る事です。

デジタル化は、世の中を便利にしました。写真はほぼ完全にデジタル化されました。一部の本格的なプロの間では、フィルムカメラが存在感を放っているようですが、一般的にはデジカメになりました。音楽の世界も、動画の世界も、アナログメディアはプレーヤー自体が手に入らず、再生する術がない…というのが現実です。マルチメディアと言う言葉が新鮮だった頃は、既に過去になったようです。

それに比べて事務所のペーパーレス化は、まだ道半ばせはありますが、確実にデジタル化は進んでいます。つまり、データは大量の書類では無くて、小さなUSBメモリないし、SDカードに大量に収められている時代です。紛失も盗難も漏えいも簡単なはずです。

先日から、マイナンバーが郵送されていますが、印刷漏れが発覚したり、不在などの理由で差し出し主の自治体に返送されたものが500万通を超えていると言われています。デジタル化は物事を簡潔に処理できるメリットがある反面、その管理ミスは、気づいた時には遅すぎるといった事が多分に予想できます。私たちが日ごろ楽しんで撮影している写真ですら、あまりにも手軽過ぎて、驚くほどの枚数の写真が、実はどこにどう存在しているのか、管理が追い付かない…という笑えない現状も事実です。

全ての国民がデジタル化されたわけですから、流出などもいとも簡単に起きるだろうと想像できます。なりすましの被害も恐らくは起きる事でしょう。デジタル化の方向というのは、当面揺るがないと思います。が、データというものを、安易に考えていると、手痛い逆襲に遭うかも知れません。心して管理方法を先に確立すべきだと思います。



新しいエクセルウィンドウを開きたい

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