<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

泣ける

2007年10月19日 22時38分22秒 | Weblog
ほとけさまのおいのちに
めざめると
わたしのいのちが
ほとけさまのおいのちであることが
わかってきて
泣けてくる

すまなかった
すまなかったと泣けてくる

ほとけさまの広さ明るさに
めざめると
わたしの広さ明るさが
宇宙全体の広さ明るさであることが
わかってきて
泣けてくる

すまなかった
すまなかったと泣けてくる

悪人のわたしに
ほとけさまのおいのちがやどっていることが
ありえていいのだろうか

悪人のわたしに
宇宙全体の広さ明るさが重なっていることが
ありえていいのだろうか

ありえないことが
ありえている

かたじけなくて
ありがたくて泣ける
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カナリアの親鳥雛鳥

2007年10月19日 18時00分13秒 | Weblog
ある日カナリアの親鳥が、
口移しに雛鳥に懸命に餌付けをしている姿を見て、
両手を失って失望と悲嘆の底に沈んでおられた大石順教さんは、
再び光明を見出されます。
ここが大石さんの仏道への出発地点になります。
さぞやお苦しかっただろうと想像します。

ここではカナリアの親鳥と雛鳥がほとけさまです。

現一切色身三昧という三昧を菩薩はもっておられます。

これはどんな姿にも身を変えることができるという神通力です。

      *

カナリアさんが
現一切色身三昧をお使いになったとは
とても思えぬ

大石順教さんが
カナリアに
現一切色身三昧をお感じになられたのだろうか

そんな小難しいことは
いらないのかもしれない
カナリアさんがカナリアさんでいる
それでよかったのだ

両手のない大石順教さんは
カナリアさんが
口移しで雛鳥に餌をやるところを
ご覧になってそれでお気づきになられた

両手がなくともいいということ
ないものをねだるのではなくて
あるものに目を向ければいいのだということを

そうだった
口があった
そうだった
目があった
そうだった
足があった

そうだった そうだった

わたしも大石順教さんと
カナリアさんとを見ることができる
わたしもまたそこから
考えることができる
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あんぽんたん

2007年10月19日 12時57分43秒 | Weblog
ああん

口をあけているから 
あんぽんたん

ぽおん

足を投げ出しているから
あんぽんたん

たあん

長寝をしているから
あんぽんたん

あんぽんたんの僕

その僕を
好きだという人が
あらわれてきて
さあ たいへん

あんぽんたんといると
あんぽんたんでいられるから
気が楽だというのが理由
変な理由

その人は
僕を観察して絵にしている
そのまま
そのまま
そのままにしてて
などと言う

そしてしばらくで
さよならをしていった
空には掃き清める雲もない
丘の上は風もない
昼の月とススキと僕と
そこでいつまでもぽああんとしている
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